33話 始動
それから三十分ほどが過ぎた。
先ほどまで張り詰めていた空気は、少しだけ和らいでいた。
神谷は工具を片付けながら苦笑する。
「今日はとんでもない一日だな」
「巻き込んでしまって、本当にすみません」
誠が頭を下げると、神谷は首を振った。
「謝るのは全部終わってからにしろ」
その言葉に、小さな笑いが漏れる。
ようやく、全員の肩から力が抜け始めていた。
その時だった。
樹は急激な危機感を感じる。
御影も同じく、何かが迫っているのを感じる。
直後――
カチャ。
静かなガレージに、小さな金属音が響く。
全員が音のした方を見る。
シャッター脇の通用口。
ゆっくりとドアが開いた。
「……誰だ?」
神谷が眉をひそめ、一歩踏み出す。
次の瞬間。
白い煙が勢いよく室内へ流れ込んできた。
「スモークグレネード?!」
御影の鋭い声が響く。
「皆さん、奥へ!」
全員が反射的に動く。
しかし、煙はあっという間に足元を覆い、瞬く間に視界を奪っていく。
「ゴホッ……!」
誠が咳き込む。
「お母さん!」
「澪!」
互いを呼ぶ声だけが、白い煙の中に響く。
樹は目を細めながら周囲を見渡した。
何も見えない。
数メートル先の人影すら霞んでいる。
御影の声だけが、煙の向こうから飛んできた。
「落ち着いて! 固まって移動してください!」
その直後だった。
煙の向こうで、何かが動いた。
人影――。
そう思った瞬間には、もう見失っていた。
樹の背中を、言いようのない悪寒が駆け抜ける。
違う。
これは予感じゃない。
もう、何かが起きた。
樹は本能的にそう悟った。
白い煙は、まだ工場の中に漂っていた。
天井の換気扇が低く唸り、少しずつ煙を吸い上げていく。
それでも視界は白く霞み、数メートル先の輪郭がようやく判別できる程度だった。
「……皆さん、ご無事ですか」
煙の向こうから、御影の声が響く。
樹は咳き込みながら目をこすった。
「げほっ……」
涙で滲んだ視界が、少しずつ戻っていく。
誠。
神谷。
御影。
皆いる。
「……澪?」
澪の母が、不安そうに周囲を見回した。
「澪?」
返事はない。
まだ煙で見えていないだけ。
そう自分に言い聞かせるように、一歩踏み出す。
「澪、どこ?」
作業台の陰を覗く。
工具棚の裏を見る。
どこにもいない。
「澪……?」
声が震える。
「澪ッ!!」
悲鳴のような叫びが、工場中に響き渡った。
誠が弾かれたように走り出す。
「澪ちゃん!」
「返事してくれ!」
神谷も反対側へ駆け出した。
「澪ちゃん!」
「どこにいる!」
樹は動けなかった。
耳鳴りがする。
キィィィン――。
煙の向こう。
一瞬だけ見えた、人影。
あれは。
あれは誰だった。
胸の奥が冷たくなる。
違う。
これは嫌な予感じゃない。
もう、何かが起きてしまった。
御影は工場内をゆっくりと見回した。
一人。
また一人。
全員の姿を確認していく。
そして静かに目を閉じた。
拳を握る。
その拳が、小さく震えた。
「……っ」
声にならない息だけが漏れる。
次の瞬間には、もうその表情は消えていた。
「誠さん」
御影の声に、誠が振り返る。
「神谷さんも」
二人の視線が集まる。
御影は静かに言った。
「捜索は中止してください」
「何言ってる!」
誠が叫ぶ。
「まだこの中に――」
「いえ」
御影は首を横に振った。
「もう、この工場にはいません」
誠の動きが止まる。
神谷も言葉を失った。
御影はゆっくりと澪の母へ視線を向ける。
「……申し訳ありません」
そして、苦しむように言葉を絞り出した。
「……澪さんは、連れ去られました」
工場が静まり返る。
「そんな……」
澪の母はその場に崩れ落ちた。
樹の耳には、まだ耳鳴りだけが響いていた。
キィィィン――。
あの煙の向こうで見えた人影が、何度も脳裏に焼き付いて離れなかった。
◇
工場の中を、重苦しい沈黙が包んでいた。
換気扇の音だけが、低く響いている。
澪の母はその場に座り込み、肩を震わせていた。
「澪……」
その名前を呼ぶたびに、嗚咽が漏れる。
誠は拳を握り締めたまま御影を睨みつける。
「なんでだよ」
低い声だった。
「守るって言っただろ」
御影は誠の視線を正面から受け止めた。
「はい」
それだけだった。
誠の怒りが爆発する。
「だったら何で連れて行かれたんだよ!」
「俺たちは何やってた!」
「煙に気を取られて……!」
拳を壁へ叩きつける。
鈍い音が工場に響いた。
神谷が静かに口を開く。
「……御影さん」
「はい」
「説明してくれ」
責める口調ではなかった。
ただ、理解したかった。
御影は一度だけ澪の母へ視線を向ける。
その姿を見て、小さく息を吐いた。
「まず、お伝えします」
「澪さんは無事です」
誠が顔を上げる。
「……何でそんなことが言える?」
「連れ去ることが目的だったからです」
御影は工場の入口へ目を向けた。
「殺害が目的であれば、この場で実行しています」
「煙幕を使う必要もありません」
静かな声だった。
「敵は、澪さんだけを連れ去りました」
「つまり、必要なのは生存です」
樹の耳には、まだ耳鳴りが響いていた。
キィィィン――。
煙。
白い視界。
一瞬だけ見えた人影。
あの時。
もうすべて終わっていた。
御影はゆっくりと全員を見渡した。
「ここから先は推測になります」
「ですが、おそらく敵は最初からこの工場を把握していました」
「そして、私たちの動きも」
工場の空気が、再び張り詰めた。
誰も口を開かなかった。
工場には、換気扇の低い音だけが響いている。
御影は通用口へ視線を向けたまま、じっと立ち尽くしていた。
「……完全に撒いた」
ぽつりと漏れた独り言だった。
数秒。
何かを組み立てるように、視線だけがゆっくりと動く。
「違う」
御影は小さく首を振った。
「撒いたんじゃない」
樹たちは黙って御影を見つめる。
「最初から、見失っていない」
誠が顔を上げた。
「……何だって?」
御影はゆっくりと振り返る。
「私たちは、追跡を振り切ったと思っていました」
「ですが、それは誤りです」
「敵は最初から、私たちを見失っていません」
神谷が眉をひそめる。
「どういうことだ?」
「監視部隊です」
御影は即答した。
「追跡班とは別に、外でこちらを監視する部隊がいたのでしょう」
「追跡班が撒かれても問題はありません」
「監視部隊が位置を伝え続ければ、襲撃班は正確にここへ来られる」
工場に沈黙が落ちる。
樹は思わず息を呑んだ。
あれは偶然じゃない。
煙幕も。
襲撃も。
すべて最初から組まれていた。
御影は苦々しく呟く。
「……敵は、想定より遥かに大規模です」
赤色灯が、夜の工場を静かに照らしていた。
パトカーが二台。
制服姿の警察官たちが慌ただしく出入りし、現場の確認を進めている。
煙はすでに消えていた。
まるで、何もなかったかのように。
それでも、この場所で起きた出来事だけは消えない。
「こちらへお願いします」
女性警察官に支えられながら、澪の母がゆっくりと歩いていく。
その肩は、今も小さく震えていた。
神谷は刑事らしき男に事情を説明している。
何度も首を振り、悔しそうに唇を噛んでいた。
少し離れた場所では、御影が別の警察官と短く言葉を交わしている。
落ち着いた表情は変わらない。
だが、その横顔だけは、どこか張り詰めて見えた。
「……樹」
誠の声で我に返る。
「帰ろう」
短い一言だった。
樹は黙って頷く。
二人は工場を後にした。
夜風が熱くなった頭をゆっくりと冷ましていく。
それでも耳鳴りは消えなかった。
キィィィン――。
煙の向こう。
一瞬だけ見えた人影。
あれは誰だった。
どうして澪さんだった。
何一つ分からない。
分からないまま、今日という日だけが終わっていく。
街は静かだった。
信号はいつも通り色を変え。
車が走り。
誰もが、いつもと変わらない夜を過ごしている。
なのに。
俺たちだけが、違う世界へ足を踏み入れてしまったような気がした。
もう。
昨日までと同じ毎日は、戻ってこない。
― 第一幕完 ―




