31話 追跡
バックミラーを見る。
──来る。
黒いワゴンは、必要最小限の加速で距離を詰めてくる。
全く無駄のない追跡だった。
御影は小さく息を吐いた。
(やはり、素人じゃない。)
誠もバックミラーを覗き込み、思わず声を上げる。
「追ってきた!」
「見えている」
御影は短く答える。
その声には焦りがなかった。
住宅街を抜ける交差点が近づく。
御影は一瞬だけ信号へ視線を向けると、そのまま前だけを見据えた。
住宅街を抜け、大通りへ出る。
御影はバックミラーを一瞥した。
黒いワゴンは一定の距離を保ったまま追従してくる。
車間を詰めるでもなく、離れるでもない。
まるでこちらの出方を窺っているようだった。
(落ち着いている……。)
追跡にも慣れている。
御影はそう判断した。
前方の信号が黄色へ変わる。
誠が声を張り上げた。
「行ける!」
だが御影はアクセルを踏み込まない。
ゆっくりとアクセルを戻し、車速を落とした。
「お、おい!」
「なんで減速する!?」
次の瞬間だった。
ブォォォォン!!
横道から大型トラックが交差点へ飛び出す。
「きゃあっ!!」
澪の母が思わず悲鳴を上げる。
澪も咄嗟にシートへ身体を押し付けた。
「い、今の……」
御影の車はトラックの鼻先をかすめるように通過する。
トラックが二台の間へ割って入った。
「危ねぇな!!」
トラック運転手の怒鳴り声が夜道に響く。
「……」
御影は一切振り返らない。
「ちょ、ちょっと!こんな運転したら危ないです!!」
澪の母が叫ぶ。
「危ないからです」
「追跡車を止めるためじゃない。あのまま進めば、こちらがぶつかっていた」
御影は前だけを見据えたまま、静かにアクセルを踏み込む。
「……」
バックミラーの奥。
トラックの陰から黒いワゴンが再び姿を現した。
「しつこいな……」
御影は小さく呟いた。
誠は思わずバックミラーと御影の横顔を見比べた。
「……なんで分かった?」
黒いワゴンは一定の距離を保ったまま、ぴたりと後ろにつけていた。
詰めてもこない。
離れもしない。
まるでこちらの動きを測っているようだった。
(焦らないか……。)
御影は小さく口元を引き締める。
前方に片側二車線の道路が見えた。
左ウインカーを出す。
黒いワゴンも、わずかに左へ寄る。
その瞬間。
御影はウインカーを消し、そのまま直進した。
誠が驚いて声を上げる。
「曲がらないのか!?」
「……試しただけだ」
バックミラー。
黒いワゴンは一瞬だけ進路を乱したものの、すぐに体勢を立て直す。
距離はほとんど変わらない。
御影は小さく息を吐いた。
(引っ掛からない。)
一方――
黒いワゴンの車内。
助手席の男が短く報告する。
「対象B、フェイントを確認」
運転席の男は表情一つ変えない。
「想定内だ」
「不用意に詰めるな」
「誘い込まれる」
「了解」
ワゴンは依然として一定の車間を保ち続ける。
御影はバックミラー越しにその様子を見つめ、小さく呟いた。
「厄介だな……」
誠が不安そうに尋ねる。
「あんた……撒けるのか?」
御影はすぐには答えなかった。
前方。
信号。
対向車。
歩行者。
バックミラー。
すべてを一瞬で確認し、静かに口を開く。
「……まだ始まったばかりだ」
アクセルがさらに踏み込まれる。
夜の札幌を、二台の車が駆け抜けていった。
交差点を抜ける。
御影は一瞬だけバックミラーを見る。
黒いワゴン。
車間距離は変わらない。
まるで一本の糸で繋がれているようだった。
「まだ来るのかよ……」
誠が苦い顔をする。
御影は返事をしない。
視線は前方。
信号。
横断歩道。
停車中の配送トラック。
路上駐車の軽自動車。
歩道を走る自転車。
次々と景色が流れていく。
その全てが、自然と頭の中で組み替えられていく。
(……右。)
考えたわけではない。
そう感じた。
ハンドルを切る。
細い生活道路へ入る。
「そっちか!」
誠が慌ててシートを掴む。
住宅街。
見通しは悪い。
普通なら避ける道だった。
しかし御影は速度を緩めない。
右。
左。
また右。
迷いがない。
まるで何度も走った道のようだった。
「ちょ、ちょっと!」
澪の母が再び声を上げる。
「こんな細い道を!?」
御影は短く答える。
「広い道は読まれます」
その一言だけだった。
後部座席。
樹は窓の外を見つめていた。
(……そうだ。)
また理由は分からない。
だが、この道でいい。
そんな確信だけが胸にあった。
「樹さん?」
澪が不思議そうに顔を覗き込む。
樹は首を振る。
「いや……」
自分でも説明できなかった。
一方。
黒いワゴン。
運転席の男が淡々と口を開く。
「住宅街へ侵入」
助手席。
「追いますか?」
「当然だ」
短い返答。
黒いワゴンもまた、迷いなくその細道へ滑り込んだ。
御影はバックミラーを見て、小さく笑う。
「……やっぱり来るか」
逃げる者。
追う者。
どちらも迷わない。
だからこそ、決着はまだ遠かった。
片側三車線の幹線道路へ出る。
車の流れは速い。
御影は速度を合わせるようにアクセルを踏み込んだ。
バックミラー。
黒いワゴンは二台後方。
ぴたりと追従している。
「離れねぇな……」
誠が舌打ちする。
御影は答えない。
前方の交差点。
右折車線には数台の車が並んでいる。
直進車線は空いている。
御影は直進車線へ入った。
「そのまま行くのか?」
誠が尋ねる。
御影は短く答えた。
「いや」
その瞬間。
右ウインカー。
急な進路変更ではない。
わずかな隙間へ滑り込むように車体を右折車線へ移した。
後続車がクラクションを鳴らす。
しかし危険な割り込みではない。
流れを読むような自然な動きだった。
黒いワゴンも追従する。
(乗ってきた。)
御影は交差点へ進入する。
右折。
直後。
もう一度右折。
さらに左折。
細かな方向転換が続く。
「遊んでるんじゃねぇよな……?」
誠が顔を引きつらせる。
「遊ぶ余裕はない」
御影は即座に返した。
バックミラー。
黒いワゴンは、一台分ほど距離を広げていた。
だが、消えない。
「……しぶとい」
御影は初めて小さく笑う。
「本当にプロだ」
後部座席では、澪の母がシートベルトを握り締めていた。
「お願いだから……事故だけはやめてください……」
震える声だった。
澪は母の手をそっと握る。
「大丈夫」
そう言った自分自身にも、その根拠はなかった。
樹は窓の外を見つめている。
交差点。
標識。
流れていく街並み。
その一つひとつが、なぜか見覚えのある景色のように感じられた。
一方、黒いワゴン。
「対象B、進路変更を繰り返しています」
「意図は」
「こちらの判断を揺さぶる狙いかと」
短い沈黙。
「構わん」
指示は一言だった。
「追従を継続」
ワゴンは速度も車間も変えず、夜の街を追い続けた。
前方の信号が黄色へ変わる。
大型トラックがゆっくりと交差点へ進入していく。
その奥には、数台の対向車。
御影の視線がわずかに細くなる。
(……ここだ。)
アクセルを踏み込む。
「えっ!?」
誠が思わずダッシュボードを掴んだ。
「ちょ、ちょっと!」
澪の母も声を上げる。
車は速度を落とさない。
大型トラックが右折を始める。
その鼻先をかすめるように、御影の車が交差点を抜ける。
「きゃああっ!」
車内に悲鳴が響く。
バックミラー。
トラックが交差点を塞ぐ。
黒いワゴンは急減速。
対向車も動き始める。
進路が完全に閉ざされた。
「よし……!」
誠が拳を握る。
「見えなくなった!」
御影は答えない。
バックミラーを見つめる。
十秒。
二十秒。
三十秒。
まだ現れない。
澪は恐る恐る後ろを振り返った。
「……いない」
母も息を切らしながら窓の外を見る。
「もう…大丈夫なんですよね…??」
御影は静かに息を吐いた。
「まだ分かりません」
そう言った直後だった。
バックミラーの奥。
黒いワゴンが再び姿を現す。
誠が思わず叫ぶ。
「嘘だろ!?」
御影は苦笑した。
「執念深いな」
一方、黒いワゴン。
助手席の男が無線を開く。
「対象、視認」
返答は一言。
『継続』
感情はない。
焦りもない。
ただ任務を遂行するだけだった。
左。
すぐ右。
さらに右。
バックミラー。
黒いワゴンはまだいる。
「まだ来るか」
御影は交差点を一つ見つめる。
(……ここ。)
急減速。
左折。
ほぼ同時に大型バスが交差点へ進入する。
ワゴンは進路を塞がれる。
「見失いました」
「慌てるな」
「対象は、まだ追えている」
「周辺を捜索」
「了解」




