29話 二十時五十八分
午後七時三十分
樹は部屋の時計を見上げた。
針は午後七時三十分を指していた。
テレビはついている。
バラエティ番組らしい笑い声が部屋に流れているが、内容はまるで頭に入ってこない。
テーブルの上には読みかけの雑誌。
スマートフォンを手に取っては置き、また手に取る。
朝からずっと、こんな調子だった。
胸の奥に引っかかった小さな違和感。
最初は気のせいだと思っていた。
昼になっても消えず、夕方になっても消えない。
理由は分からない。
何かを忘れているような。
何かが起ころうとしているような。
そんな曖昧な感覚だけが、時間とともに大きくなっていく。
「……なんなんだよ」
誰に向けたわけでもなく呟く。
窓際へ歩き、カーテンを少し開ける。
住宅街は静かだった。
街灯が並び、帰宅途中の学生が笑いながら歩いていく。
どこにも異変はない。
それなのに。
胸のざわつきだけは収まらなかった。
深く息を吐き、ソファへ腰を下ろす。
考えても答えは出ない。
それでも考えずにはいられない。
「……一体、なんなんだ」
◇
同刻――
資料室の机の上にはノートパソコンが開かれたままだった。
画面には御影が昼から調べ続けている情報が並んでいる。
ニュース。
SNS。
事故情報。
災害情報。
大学周辺の動き。
どれも異常は見当たらない。
御影は椅子にもたれ、静かに目を閉じた。
違和感だけが残っている。
情報が足りないのか。
あるいは、自分が何かを見落としているのか。
思考を巡らせても、答えは出ない。
長年の経験から言えば、この感覚を軽視したくはない。
だが経験だけで動けば、それは勘に頼るのと変わらない。
証拠がない。
根拠もない。
それでも。
胸の奥では、小さな警鐘が鳴り続けていた。
「……説明がつかない」
静かな部屋に、その一言だけが落ちる。
時計の秒針だけが規則正しく時を刻んでいた。
◇
同刻――
夕食を終えた澪は、自室の机へ向かった。
ノートを開き、朝から気になっていた数学の問題へ目を落とす。
「……ここかな」
シャープペンシルを走らせる。
一行書いては止まり、少し考える。
消しゴムで消して、もう一度書き直す。
静かな時間だった。
階下からは食器を洗う音が聞こえてくる。
テレビの音が微かに響き、母が鼻歌を口ずさんでいる。
いつもの夜だった。
「……あ」
ふと、式が綺麗につながる。
思わず口元が緩んだ。
「やっぱり、そうだったんだ」
ノートへ最後の一行を書き加え、小さく頷く。
窓の外では、夏の夜風が木々を揺らしていた。
虫の声が、静かな住宅街に響いている。
澪は満足そうにシャープペンシルを置き、大きく伸びをした。
「今日はここまでにしようかな」
そう呟くと、ノートを閉じる。
何一つ変わらない、穏やかな夜だった。
午後八時三十分
樹は勢いよく立ち上がる。
「……駄目だ」
胸の奥で鳴り続ける警鐘は、もう無視できる大きさではなかった。
理由は分からない。
それでも、このまま部屋にいてはいけない。
そんな確信だけがあった。
スマートフォンを掴み、誠へ電話をかける。
『おう、どうした?』
「誠!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
「車、出せ!」
『……は?』
「理由は分からない! でも今すぐだ!」
一瞬の沈黙。
電話の向こうで誠が息を吐く。
『……分かった。十分待て』
通話が切れる。
樹は財布とスマートフォンだけを掴み、玄関へ向かった。
◇
同刻――
御影は静かに目を開いた。
机の上には、開いたままのノートパソコン。
何度見返しても、異常は見つからない。
だが。
「……駄目だ」
椅子から立ち上がる。
説明はできない。
根拠もない。
それでも、この違和感だけは無視してはいけない。
車のキーを掴み、足早に資料室を出る。
「間に合え……!」
◇
十分もしないうちに、一台の白いセダンがアパートの前へ滑り込んだ。
助手席の窓が開く。
「乗れ!」
誠はハンドルを握ったまま口を開く。
「で、どこに行くんだ?」
「次の信号、右」
「……右?」
「その先の交差点を左」
誠は怪訝そうな顔をしながらも、指示どおりに車を走らせる。
「どこに向かってるんだよ??」
「……白石さんの家」
「…は?」
「急げ」
誠は視線を正面から外さずに樹に返す。
「お前、行ったことあんのか?」
「……いや」
「いやって何だよ」
「知らない」
「いや、だから何で――」
「いいから急げ!」
誠は樹をちらりと見る。
冗談を言っている顔ではない。
真剣そのものだった。
「一方通行か!」
誠が舌打ちしながらハンドルを切る。
「分かってる。その先を右に入って」
「……お前、本当に初めて行く場所なんだよな?」
「ああ」
即答だった。
「でも、間違ってない」
胸の奥の警鐘が、道を示している。
「急いでくれ」
「ああ、任せろ!」
◇
二十時五十八分
『総員、配置完了』




