2話 説明できない知識
アパートへ戻る頃には、夏の日差しがすっかり強くなっていた。
「暑ぃ……」
誠がTシャツの襟をぱたぱたとあおぐ。
「今日は風ないな」
樹は玄関の鍵を開け、二人で部屋へ入った。
締め切っていた室内は、熱気がこもっている。
「うわ、サウナじゃん」
「朝消して出たからな」
樹は靴を脱ぐと、そのままエアコンのリモコンへ手を伸ばした。
電子音が鳴り、送風が始まる。
二人は吹き出し口へ顔を向けた。
「……」
「……」
数秒待つ。
冷たい風は出ている。
だが。
「弱くない?」
誠が首をかしげた。
「前はもっと冷えてた気がする」
樹も吹き出し口へ手をかざす。
「フィルター掃除はしたんだけどな」
「寿命?」
「まだそんな年数じゃない」
しばらく風を受けながら考える。
故障というほどではない。
だが、何か引っかかる。
「……」
樹はエアコンを見上げた。
その瞬間。
頭の奥で、知らない言葉が先に形を持った。
意味は分からない。
けれど、その言葉だけが、ずっと前から自分の中にあったみたいに馴染んでいた。
「……ペルチェ」
「ん?」
誠が聞き返す。
「いや……」
樹は自分の口を押さえた。
「今、俺なんて言った?」
「ペルチェ」
「……」
「ペルチェって何?」
「……俺も知らん」
「いや、お前が言ったんだろ」
樹は眉をひそめる。
聞いたことはある。
そんな気はする。
けれど、どこで聞いたのか思い出せない。
「……ペルチェ」
もう一度、小さく口にしてみる。
響きだけは妙に馴染んでいた。
「何だ、それ」
「分からん」
誠は呆れたように肩をすくめる。
「知らない言葉を急に言い出すなよ」
「俺だって困ってる」
樹は苦笑しながらスマートフォンを取り出した。
「検索するか」
樹は画面を誠へ向けた。
「そうだな」
誠も隣へ椅子を引き寄せた。
「まずは、そのペルチェってやつからだ」
樹はスマートフォンの画面へ目を落とした。
「……あった」
「あるのか?」
誠も隣から画面を覗き込む。
検索結果には、『ペルチェ素子』の解説や、冷却プレート付きハンディファンの広告が並んでいた。
「普通に売ってるんだな」
「しかも結構安い」
数千円程度の商品がいくつも表示される。
「じゃあ、さっきのお前の話って別におかしくないんじゃない?」
「……そこなんだよ」
樹は眉を寄せる。
もう一度検索欄を開いた。
さっき思い浮かんだワードを検索してみる。
「……あるな」
「何が?」
「ペルチェも、熱電材料も」
さらに画面を滑らせる。
「グラフェンも研究されてる」
「じゃあ全部あるじゃん」
「そうなんだよ」
樹はそこで指を止めた。
「全部、ある」
小さく息を吐く。
「なのに――」
検索欄へいくつかの単語を打ち込む。
画面を見つめる時間が少し長くなる。
「……出てこない」
「何が?」
「誰も、この組み合わせをやってない」
「組み合わせ?」
「ハンディファン」「鉛筆」「アルミホイル」「超音波洗浄機」
「……」
樹は指で画面をなぞる。
「これを一つの手順として説明してる人が、一人もいない」
誠は腕を組む。
「偶然じゃないか?」
「俺もそう思った」
樹はスマートフォンを置いた。
「でも……」
言葉に詰まる。
「説明はできない」
しばらく黙ってから続けた。
「ただ」
「何から始めればいいかだけは、分かる気がする」
誠は思わず笑った。
「それ、もう分かってるじゃん」
「……なんだよな」
樹は困ったように笑い返す。
「なのに」
「どこで覚えたかだけ、思い出せない」
二人はしばらく黙っていた。
テーブルの上では、スマートフォンの画面が検索結果を表示したまま光っている。
樹は画面を消し、大きく息を吐いた。
「……やるか」
誠は苦笑した。
「その結論になると思った」
「気になるんだよ」
「知ってる」
昔からだ。
一度気になったことを、樹は途中でやめたことがない。
「必要なのは……」
樹は指を折りながら数える。
「ペルチェ付きのハンディファン」
「超音波洗浄機」
「アルミホイル」
「鉛筆」
「洗剤」
「洗剤ならあるだろ」
流しの下を開ける。
「あ、あるな」
「だから言った」
樹は苦笑した。
「じゃあ足りないのは」
「ハンディファンと超音波洗浄機か」
「ホームセンターだな」
「だな」
樹は財布をポケットへしまう。
「今日、車?」
誠は笑って車の鍵をくるりと回した。
「もちろん」
「助かる」
「その代わり」
誠が笑う。
「昼飯」
「またそれか」
「当然」
二人は笑いながら部屋を出た。
玄関を出ると、昼へ向かう日差しが照りつける。
「しかし暑いな」
「だから確かめたいんだよ」
樹は車の鍵を持つ誠へ目を向けた。
「この知識が、本物かどうか」
誠は小さく頷く。
「じゃあ、行くか」
二人は駐車場へ向かった。




