回想
二人向かい合うようにして座った定食屋の席。男性は困ったような表情を浮かべ、女性は眉間にしわを寄せている。
この二人の間にあるものは、差し出された千切りキャベツ。
「ホラ、あーんってしたら食べるんでしょ?」
「冗談のつもりで言ったんだけど…」
「男に二言はないんじゃないですか?」
はい、と言ってにっこりと笑い、キャベツを口元に持って行った。観念したのか、男性がかぱっと口を開けて食べたのを確認して、女性は満足そうに微笑んだ。
「ほーら、食べれるんじゃないですか」
「…鬼ですね」
「ん?」
「香西さんって、実はS?」
「谷原さんがMっ気あるのの間違いじゃないですか?」
「それはないと思うけど」
谷原は苦笑した。
今日は二人で食事に来た。いわゆるデートというやつだ。
香西の気持ちが元彼である内村に傾いているのに谷原がそれとなく気付き、少なからず焦りを覚えたらしい。それもあってか、香西は今まで以上に積極的に谷原に誘われていた…ほぼ強引な形で。
お洒落にイタリアンなど行こうかと谷原は考えていたらしいのだが、少しでも『リッチな感じ』がある所を香西は嫌がるということを谷原は知っている。なのでいろんな意味で背伸びをしなくて済む定食屋にやってきた、というわけだ。というよりは、いつも香西自ら安い店をチョイスしている。
それはさておき、野菜が嫌いという衝撃の事実を抱えている谷原は、もちろん定食のサラダをきれいに残す。それどころか、おかずに付いてしまった野菜ですらひとつ残らず取り去るというから驚きだ。そしてそれを見た香西が谷原に「野菜食べないんですか?」と尋ねた。
谷原の好き嫌いを知っている香西の口から出た言葉を聞いて、谷原は苦笑いした後に悪戯っぽい笑みを浮かべてこう告げた。
『香西さんがあーんってしてくれたら食べます』
香西が俗に言うツンデレっぽい性格であることを熟知していた谷原は、こう告げれば折れてくれるだろうと信じてやまなかった。
ところが香西は真剣な表情でわかりました、と言って、ためらいなく谷原の口元にずいっと野菜を持って行ったのだ。
『はい、あーん』
谷原にとって嬉しいはずのこの光景が、今は地獄でしかない。最愛の人がとびっきりの笑顔を向けてくれているというのに…。
谷原が一気に水を流し込む様子を香西はじっと見つめた。
どう見ても草食系の谷原なのだが、実際に食べるのは肉と魚と、あとは炭水化物。なのにどうしてそんなに細身なんだ、と香西は羨望に似た目を谷原に向ける。
「好き嫌い直さないと、子供が出来たとき大変ですよ」
香西の言葉を聞くやいなや、谷原はテーブルに落としていた目線を上げ、いつものように飄々と言葉を発した。
「その時は香西さんになんとかしてもらいます」
明らかな意味深発言に少し顔が赤くなる。どういう意図で言ったのか、知りたい気もするが香西はあえて訊かない。
それにしてもいい年した大人が野菜を食べれないなんて、子供の教育上よろしくないと香西は思う。どうせなら好き嫌いなくなんでも食べる…そう、内村のような人が自分的にはいろんな面で助かる。
…そっか、そういえば彼は何作っても美味しいって言って、残さず食べてくれたな…。
5年思い続け、まるで奇跡のように再会した二人。なかなか上手く事は運ばないが、着実に仲を修復している。
香西の頭の中で内村の声が響く。
忘れ去ろうとしていた温もりが思い出される。
もう、一生この人から離れられないんだと、出会った頃からわかっているはずなのに。
「…香西さん?」
少し俯くようにして考え込んでいた香西は、谷原に名前を呼ばれてはっとした。
「どうしたんですか?」
「あ、いえ…ちょっと考え事を…」
子犬のような目を向けていた谷原は、そう、と言って優しい笑顔を浮かべ、そっと香西の頬に手を伸ばす。一般的な男性に比べて繊細な指に触れ、香西は思わずどきっとした。
「今は僕のことだけを考えててくれると嬉しいですけど」
香西は無意識のうちに頬を赤く染めながらも、頭では冷静に別のことを考えていた。
彼の手は…もう少し大きくて、無骨だったな…。
目の前の谷原は香西の頬に手を当てたまま、親指で壊れ物を扱うかのようにそっと撫でた。
「香西さんって、そのキャラは素ですか?」
はるか数年も前、内村に同じことを聞かれたのを思い出した。不意に心拍数が挙がる。
「…はい…」
谷原はそっか、と呟いて、香西の頬から手を離した。その顔には慈悲深い笑みが浮かべられている。
「なんか…束縛したくなりますね」
「え?」
谷原はふっと笑って、隣の席にかけていたジャケットを羽織る。何が何だかわからない香西は、ただしどろもどろするしかなかった。
「…何でもないですよ。さ、もう出ましょうか」
香西の目の前にすっと手が差し伸べられる。内村よりも細くて、指の長さが強調されている手。それでも女性の自分よりは大きな手。
まるで導かれるように、香西はそっと手を乗せた。一瞬、今までエスコートしてくれたことのなかった誰かさんを忘れてしまうくらい、とても自然な流れで。