気がつけば魔王に転生していた。息子は勇者になるらしい。絶対に正体を隠し通す
気がつけば、玉座に座っていた。
爪が黒い。翼がある。角がある。
鏡に映した姿は、完全に魔王だった。
——ああ。転生した。
前世の記憶が、整理されていないまま頭の中に流れ込んでくる。夫と、息子と、狭いアパートの台所。毎朝学校に送り出す握手と、「いってきます」の声。それが全部、遠い話になった。
魔王の体で、深呼吸した。肺が大きくなったせいか、一回で部屋の空気がかなり動いた。
周囲には部下らしき魔物が十数体、頭を垂れて並んでいる。城の庭から、子どもの笑い声が聞こえていた。
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息子の名前は、カイだった。
人間の女性との間に生まれた子どもらしい、と魔王の断片的な記憶から把握した。母親は既に世を去っており、カイは今、城で育てられている。
三歳。金髪で、耳が少しだけとがっていて、魔力の気配はあるが使い方はまだ知らない。城の庭で、部下の魔物を相手に笑いながら走り回っていた。
私が玉座から庭に降りたとき、カイは立ち止まって私を見上げた。
「おとうさん」
その一言で、私の中の何かが確定した。
前世でも、この声を聞いていた。
毎朝「いってきます」と手を振って、保育園に走っていく背中。夜中に熱が出て「おかあさん、こわい」と泣いた夜。「おとうさん」じゃなくて「おかあさん」だったけれど——あの温度と、重さが、今ここにあった。
この子を、守らなければならない。
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魔王としての生活は、思ったより忙しかった。
国境の管理、魔物の統率、食料事情、他の魔族との外交。やることは山積みで、前世の記憶が役に立つかと思えば、ほとんど役に立たなかった。それでも、なんとかやった。
理由はひとつだ。
カイが毎日、「おとうさん、仕事終わった?」と聞きに来るからだ。
五歳になったカイは言葉が増えた。七歳では文字を覚えた。十歳では剣術を習い始め、師匠に「飲み込みが早い」と言われた。十二歳では魔力の制御を覚え、「ぼく、ひとより強くなれるかな」と聞いてきた。
「なれる」と私は答えた。
「本当に?」
「本当に」
カイは笑った。その笑い方が、前世の息子に似ていた。
私は魔王の顔で、それを見ていた。
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カイが十歳のある夜、彼は私の執務室に来た。
「父上、眠れない」
そういうことがたまにあった。私は書類を置いて、窓の外を見るカイの隣に立った。
「なんか考えてることがあるか」
「……父上は、怖いものある?」
少し考えた。正直に答えた。
「ある」
「なに?」
「お前が怪我をすること」
カイは少し間を置いてから、「じゃあぼくも同じだ」と言った。
「父上が死んじゃうのが、こわい。だからぼく、強くなる。父上を守れるくらい」
私は返事ができなかった。魔王の顔のまま、口が動かなかった。
カイはそのことに気づかずに、「おやすみ」と言って部屋を出て行った。
執務室に一人残って、私はしばらく窓の外を見ていた。
——守る、か。
前世では、守ってもらう側だった。こちらが守る側だと思っていた。いつの間にか、この子はそういうことを考えるようになっていた。
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問題が起きたのは、カイが十五歳になったころだった。
「父上」
剣術と魔法の修行を終えた後、日が傾いた中庭で、カイは正式な呼び方をした。
「なんだ」
「俺、旅に出ようと思う」
私は答えなかった。
「人間の世界を見てみたい。強くなりたい。それと——」
カイが少し間を置いた。
「魔王を、倒しに行こうと思う」
沈黙が落ちた。
カイは私を見ていた。まっすぐに。
私は魔王として、魔王の顔で——十五年間育てた息子を見ていた。
「……何故、魔王を倒したいのだ」
「人間の村が苦しんでいると聞いた。魔王軍のせいで作物が荒らされて、逃げ出した人が多い。子どもたちが食えなくなっているとも、聞いた。
私は——それを知っていながら、長い間、放置していた。勢力の均衡を保つための、冷たい判断だった。カイはそれを知らない。俺は魔界と人間の間で生まれた。どちらが正しいとか分からないけど——苦しんでいる人を、なんとかしたい」
私は目を閉じた。
正しい子どもだ、と思った。
私が育てた。でも、私が育てようとしたわけでもない。カイが自分でそう育った。
「……行け」
「父上?」
「お前が決めたことなら、止めない」
カイは驚いた顔をした。それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、父上」
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カイが旅立った翌朝、執務室に書状が届いた。
人間の王国からだった。
封を開けて読んだ。
「——魔王討伐の勅令。若き勇者カイ・ヴォルフが選定され、魔王征伐の任を拝命した——」
私は書状を机に置いた。
つまり。
息子が、私を倒しに来る。
正式な勅令として。勇者として。
私はしばらく書状を見つめた。それから、窓の外に目をやった。カイが旅立った方角に、雲が流れていた。
「……どうしろというんだ」
誰にでもなく、呟いた。
翼を持つ魔王が、机の前で頭を抱えた。
正体を明かせば、全てが終わる。息子が勇者である意味も、私が魔王である意味も。明かせるか。明かせない。
ならば。
魔王は椅子から立ち上がり、窓の外を眺めた。
「——お前が来るまでに、先に全部なんとかするしかないか」
言ってから、自分でも馬鹿げていると思った。
魔王が、息子に討伐される前に魔界の問題を全部解決しようとしている。
他に方法が思いつかなかった。
息子に討たれるわけにはいかない。正体を明かすわけにもいかない。ならばせめて——カイが辿り着いたとき、この世界が少しでも良くなっていればいい。
カイはあのとき言っていた。苦しんでいる人を、なんとかしたい、と。
それが私にもできるなら、魔王でも、やるしかない。
——「ねえ、母さん。僕、強くなったら魔王を倒しに行く」
前世の記憶が、頭をよぎった。
息子はあのころから、変わっていない。
魔王は、ペンを取った。
投稿日:2026年3月5日




