静かな湖畔は、引きこもりに向いている(はずだった)
湖は、音がなさすぎた。
風が吹いていないわけじゃない。森の木々は、たしかに揺れている。でも、水面だけが、何かを拒否しているみたいに動かない。
写真で見たときは、もっと「自然〜!」って感じだった。
加工してないのに加工済み、みたいな。
でも実物は、背景素材というより、読み込みに失敗したマップだ。
「……セーブポイント、ここで合ってる?」
誰もいないのをいいことに、口から変な独り言が出る。
私はこういうとき、すぐ世界をゲームかアニメに例えたがる。現実をそのまま受け止めるのが苦手だからだ。
ここは、親戚が持っている別荘だった。
森の奥、湖畔のすみ。人里からも遠くて、コンビニは車で三十分。
療養にちょうどいい、と言われた。
療養。
一回、社会に出ようとして、速攻で折れた人間に貼られる、あの便利なラベル。
私は23歳、女、ヲタク。
ジャンルは雑食だけど、基本は二次元に魂を置いてきているタイプだ。
推しがいなかったら、たぶん高校で詰んでた。
推しがいたから大学まではなんとか生き延びて、
推しがいたから「社会に出てもいけるかも」って勘違いした。
結果は、まあ、察してほしい。
別荘のドアを開けると、少しカビっぽい匂いがした。
でも、不思議と嫌じゃない。
人の匂いがしない。生活音の残骸がない。
私は荷物を最低限だけ運び込んで、真っ先にノートパソコンを取り出した。
ベッド? あと。
冷蔵庫? 後回し。
回線確認が最優先。これは譲れない。
Wi-Fi、接続。
速度、遅い。
でも、動画は再生できる。配信も低画質なら耐える。
「勝ったな」
思わず小さくガッツポーズをした。
森だろうが湖だろうが幽霊だろうが、ネットが繋がれば人権は守られる。少なくとも、私の中では。
窓の外で、湖がこちらを見ている気がした。
見ている、というより、見られている気がした。
私はあえて視線を外して、イヤホンをつけた。
推しの声を流す。
一話。二話。もう一話。
推しの声は、裏切らない。
再生すれば必ず同じテンポで、同じ感情で、同じ距離感でそこにいてくれる。
会社にいた頃、これが一番しんどかった。
距離感。
声のトーン。
雑談という名の地雷原。
「大丈夫?」って聞かれて、「大丈夫です」って答えたら、「じゃあこれお願い」って仕事が増えて、
本当は全然大丈夫じゃなかったけど、今さら言えなくて、
気づいたら、朝起きるだけで吐き気がしていた。
推しは、そんなことしない。
こちらが無言でも、勝手に解釈して詰めてこない。
夜になって、別荘の中が暗くなる。
湖は、昼よりもさらに動かなくなっていた。
水面が黒い。
星も映らない。
まるで、底がないみたいだ。
イヤホン越しに、何か、別の音が混ざった気がした。
ぽちゃん。
水を叩く、妙に近い音。
私は一瞬、再生を止めた。
耳を澄ます。
森は静かだ。
虫の声も、鳥の声も、ほとんどしない。
もう一度、ぽちゃん、と音がした。
今度は、湖の真ん中じゃない。
もっと、岸に近い。
「……鹿?」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
野生動物。そういうの。普通。
でも、湖の表面は相変わらず、何もなかった。
波紋が、残らない。
私は、慌てて音量を上げた。
推しの声で、全部を塗りつぶす。
ここは、引きこもるための場所だ。
回復するための場所だ。
現実に戻る準備をするための、安全地帯のはずだ。
そう思いながら、画面を見つめ続ける。
窓の外の湖から、目を逸らしたまま。
静かすぎる湖が、
まるで「ずっとここにいればいい」とでも言っているみたいで、
その考えが一番、怖かった。




