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ノロイ、ノロワレ  作者: 埴輪庭


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5/12

第五話

 ◆


「園田菌」という言葉が生まれたのは三年生になってからのことだった。


 誰が言い始めたのかは覚えていない。気づいたときにはそれはもうクラス中に浸透していて、まるで最初からそこにあった言葉のようにみんなが当たり前に使っていた。


「うわ、園田菌がうつる」


「触んないで。園田菌もらいたくないし」


「今日、隣の席で最悪。消毒しないと」


 美月が近くを通れば、みんなが大袈裟に身を引いた。美月が座った椅子には誰も座ろうとしなかったし、美月が触れたものには誰も触れようとしなかった。


 美月は何も言わなかった。黙って壁際を歩くようになり、できるだけ人に近づかないよう気を配っているのがわかった。休み時間には教室からいなくなることが多くなって、たぶん図書室にでも逃げ込んでいたのだろう。


 私は「園田菌」という言葉を使っただろうか。使ったかもしれないし、使わなかったかもしれない。正確には覚えていない。ただ、止めなかった──それだけは確かだ。


 私はクラスの中心にいた。私が「やめなよ」と言えば、止まったかもしれない。私が美月の味方になれば、状況は変わっていたかもしれない。でも私は何もしなかった。みんなと一緒に笑っていた。


 ◆


 夏休み前のことだった。


 掃除の時間、美月が一人で教室を掃除していた。他の当番は来ない。来ても美月と同じ空間にいたくないから、すぐに出ていってしまう。


 私は廊下を通りかかって、教室の中で美月が黙々と箒を動かしているのを見た。ふと、目が合った。美月の目には何も映っていないように見えた。感情のない、空洞のような目だった。


 私は視線を逸らして、通り過ぎた。何も言わず、何もせず、ただ通り過ぎた。


 あの目を今でも覚えている。


 十月になって、事件が起きた。


 美月の机の中に同人誌があるという噂が広まったのだ。自分で描いたイラストを冊子にしたもので好きなアニメの二次創作らしい。


「まじ? 見てみたい」


「キモそ〜」


「ウケる」


 誰かがそう言って、私もその場にいた。


 昼休み、美月が教室を離れた隙に友達の一人が美月の机を漁った。引き出しの奥から、薄い冊子が出てくる。手作りの同人誌だった。表紙には丁寧なイラストが描かれていて、上手いと思った。でも私はそれを口にしなかった。


「見せて見せて」


 みんなが集まってきて、私も集まった。ページをめくると漫画が描かれている。好きなアニメのキャラクターたちが登場する話でストーリーは覚えていないけれど、一コマ一コマ丁寧に描き込まれていたのは覚えている。


「なにこれ」


「きっも」


「オタク乙」


「こんなの描いてるから友達いないんだよ」


 笑い声が起きて、私も笑った。


 そのとき、教室のドアが開いた。


 美月が立っていた。一瞬、時間が止まったような気がした。美月は私たちを見ていた。自分の同人誌を囲んで笑っている私たちを。その目が揺れて、何か言いかけたように見えたけれど、何も言わなかった。


 私は同人誌を持っていた。いつの間にか、私が持っていた。


 なぜそうしたのかわからない。衝動だった。その場のノリだった。みんなが笑っているから、私も何かしなければいけないと思った。


 私はページを破いた。


 ビリ、という音が教室に響いた。笑い声が止まった。


 美月を見た。美月は動かなかった。目だけが揺れている。何か言いかけた唇が音を発する前に閉じられた。


 私はもう一枚、ページを破いた。


 笑い声が戻ってきた。「やばい」「ウケる」「彩乃、えぐい」。私はさらにページを破いて、破いた紙を床に落とした。


 美月は何も言わなかった。何もしなかった。ただ立っていた。そして静かに踵を返して、教室を出ていった。


 私は破いた同人誌を美月の机の上に投げ捨てた。みんなが笑って、私も笑った。


 何がおかしかったのだろう。何が楽しかったのだろう。今の私にはわからない。


 ◆


 その日から、美月は学校を休むようになった。


 最初は一日、二日。それが三日になり、一週間になった。


「園田、休んでるね」


「ああ、そういえば」


「体調悪いのかな」


「知らね」


 誰も気にしていないふりをしていた。私も気にしていないふりをしていた。でも胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚があって、見ないふりをした。気づかないふりをした。


 二週間後、美月は学校に戻ってきた。何事もなかったかのように自分の席に座って、相変わらず一人で本を読んでいる。相変わらず誰にも話しかけない。いじめは続いた。美月は何も言わなかった。何も変わらなかった。


 ただ、私は同人誌のことを誰にも言わなかった。破いた同人誌がどうなったのか、確認もしなかった。見たくなかったのだ。


 あれが私が美月にした中で一番ひどいことだった。他のことなら「みんながやっていた」「私は直接手を下していない」と言い訳できる。でもあれは違う。あれは私が自分の手でやったことだった。美月の大切なものを私が壊した。


 ◆


 三年生の秋のことだった。


 放課後、私は用事があって校舎に残っていた。何の用事だったかは覚えていない。たまたま屋上への階段を通りかかったとき、ドアが少し開いているのに気づいた。普段は施錠されているはずの屋上への扉が半開きになっている。


 何となく気になって階段を上り、ドアの隙間から外を覗いた。


 美月がいた。屋上の端、柵の近くに立っている。風が強い日で美月の髪が揺れていた。美月は空を見上げていた。夕焼けの空を。オレンジ色の光が美月の横顔を照らしている。


 何をしているのだろう、と思った。そして次の瞬間、背筋が凍った。


 美月は柵に手をかけていた。その姿勢はまるで──


 私は息を呑んだ。声を出そうとしたけれど、声が出なかった。足が動かなかった。


 美月は動かなかった。ただ空を見て、風に吹かれている。どのくらいそうしていたのか、わからない。三分かもしれない。十分かもしれない。もっと長かったかもしれない。


 やがて、美月は柵から手を離した。振り返る。目が合った。


 美月の目には何も映っていなかった。驚きも怒りも悲しみも。何もない空洞のような目だった。


 私は逃げた。階段を駆け下りて、廊下を走って、校門を出て、駅まで走った。


 美月が何をしようとしていたのか、私にはわかっていた。わかりたくなかったけれど、わかっていた。そして私は自分がしていることの意味を初めて理解したのだ。


 私たちは──私は美月を殺しかけていた。


 ◆


 翌日から、私はいじめをやめた。取り巻きたちに言った。


「もうやめようよ。飽きたし」


「え、なんで?」


「だって、もう三年だし。受験あるし。そんなことしてる場合じゃないでしょ」


 取り巻きたちは不満そうだったけれど、私が言うと従った。私がリーダーだったから。私の言うことは絶対だったから。そうしていじめは徐々に収まっていった。無視は続いたけれど、持ち物を隠したり机を汚したりすることはなくなった。裏アカウントも更新されなくなった。


 でも美月は相変わらず一人だった。黙って本を読んでいる。前より少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。


 私は美月と目を合わせないようにしていた。罪悪感があったからだ。でもそれを認めたくなかった。認めたら、自分がしてきたことと向き合わなければならない。それが怖かった。


 卒業まで残り半年。私は逃げ切るつもりだった。このまま卒業して、美月とは二度と会わない。それでいいと思っていた。


 でも──


 ◆


 卒業式の日だった。


 式が終わり、みんなが写真を撮ったり、連絡先を交換したりしている。私も友達と写真を撮った。先生と写真を撮った。笑顔で「また会おうね」と言った。


 美月は一人だった。クラスメイトと写真を撮る姿は見なかったし、誰かと連絡先を交換する姿も見なかった。


 私は美月を探した。校舎の裏で見つけた。一人でベンチに座っている。桜が咲き始めていて、花びらが舞っていた。


「園田さん」


 声をかけた。美月は顔を上げた。警戒するような目だった。当然だ。私がまともに話しかけるのは二年以上ぶりなのだから。


「話があるの。少しだけ」


 美月は何も言わなかった。でも立ち上がりもしなかった。それを承諾と受け取って、私は美月の隣に座った。


 桜の花びらが風に舞っている。どこかで誰かが笑っている声が聞こえた。


「私がしたこと、本当にごめん」


 言葉が口をついて出た。


「最低だった。ひどいことした。謝って済むことじゃないのはわかってる。でも謝りたかった。ずっと謝りたかった」


 涙が出てきた。自分でも驚いた。泣くつもりはなかったのに涙が止まらなかった。


「許してもらえるとは思ってない。でもごめん。本当にごめんなさい」


 私は頭を下げた。涙が膝に落ちた。私は本当に後悔していた。人一人を殺しかけていたということ、そしてその罪から逃げようとしていたこと、とにかく全部に後悔していた。


 しばらく沈黙が続いた。


「顔、上げて」


 美月の声が聞こえた。顔を上げると、彼女は微笑んでいた。驚いた。こんな表情ができるのかと思った。


「ありがとう。許すよ」


 その言葉が信じられなかった。


「え?」


「許すよ。もう気にしてないから」


「本当に?」


「本当。私、もう大丈夫だから」


 美月の声は穏やかだった。表情も穏やかだった。


 私はまた泣いた。今度は安堵の涙だった。許してもらえた。信じられなかった。こんな私を許してくれるなんて。


「ありがとう。本当にありがとう」


 私は何度も頭を下げた。美月は微笑んだまま、何も言わなかった。


 それが高校時代の美月との最後の会話になった。


 ◆


 記憶が途切れた。


 目を開けると、自分の部屋の天井があった。時計を見ると、午前二時を回っている。いつの間にか眠っていたらしい。短い眠りだった。浅い眠りだった。


 スマホが光った。エルカリの通知だ。また新しいメッセージが届いている。読みたくなかった。でも読まないと気が済まなかった。


『呪い人形、届きました』


 三十代の女性からだった。


『高校時代、持ち物を壊されました』


 その一文を見た瞬間、心臓が跳ねた。


『大切にしていたものを何度も壊されました。亡くなった祖母からもらったペンケース。お気に入りのノート。手作りのブックカバー。犯人は最後までわかりませんでした』


 画面の文字を追う目が震えていた。


『でも誰がやったか、本当はわかっていた。わかっていたけど、証拠がなかった。訴えても信じてもらえなかった。大人は誰も助けてくれなかった』


 呼吸が浅くなる。


『一番辛かったのは自分で作ったものを壊されたときです。好きな作家さんの小説のファンアート集を作っていました。何ヶ月もかけて描いた絵を冊子にしたものです。それを目の前で破かれました』


 吐き気がした。


『破いたのはクラスの人気者でした。みんなの前で。みんなが笑っていました。私は何も言えませんでした。何も言えないまま、破かれた紙が床に落ちるのを見ていました』


 スマホを落としそうになった。


『今でもあの光景が夢に出ます。みんなが笑っている。私の大切なものが破かれている。何も言えない。何もできない。ただ見ているしかない。そういう夢を今でも見ます』


 私は──


『あの女を呪いたい。私の大切なものを壊した、あの女を。一生許さない』


 私がしたことだ。


 この人は美月ではない。違う人だ。違う学校の、違う誰かだ。でも同じことをしている。私が美月にしたことと同じことをどこかの誰かがこの人にしている。そして私はその加害者と同じなのだ。


 私も誰かの大切なものを壊した。笑いながら。みんなの前で。


 ◆


 この週の日曜日、せっかくの休みだというのに私は一日中部屋から出なかった。


 カーテンを閉め切った部屋でベッドに横たわっている。何もする気が起きない。テレビもつけなかった。スマホも見なかった。高校時代の記憶が何度も蘇ってきて、とてもショッピングだなんだと外出する気になれなかった。


 美月は許してくれた。でも私自身が私を許せないのだ。


 いや、許されるべきではないのかもしれない。


 だって、美月は本当にいい子なのだ。学生時代、いじめに加担していた私なんかを助けてくれるほどに。


 そう、あれは三年前のことだった──

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