第三話
◆
十二月に入った。
街はクリスマスの装飾で彩られ始めていたが私の日常は変わらない。朝、会社に行く。木村に詰められる。夜、帰宅する。呪いグッズを作る。購入者からのメッセージを読む。返信を書く。眠れない夜を過ごす。その繰り返しだった。
エルカリの売上は相変わらず好調で十二月の最初の週だけで一万円を超えた。師走に入って呪いたい相手が増えるのか、それとも年末の大掃除のように心の澱を吐き出したい人が増えるのか。理由はわからないが注文は途切れなかった。
その夜届いたメッセージは三十代の女性からだった。
『呪符、届きました。ありがとうございます』
定型文のような書き出し。でも、その後に続く文章は定型文ではなかった。
『母を呪いたいんです』
母親。これまでにも家族を呪いたいという依頼はあった。姑、義父、兄弟。でも実の母親を呪いたいという告白にはどこか別の重さがあった。
『幼少期から精神的虐待を受けていました』
画面をスクロールする。
『「あなたなんか産まなければよかった」と言われ続けました。物心ついた頃から、ずっと。朝起きて顔を合わせるたびに、その言葉を投げつけられました』
胸の奥が冷たくなる。
『「あなたのせいでお父さんは出ていった」とも言われました。父が出ていったのは私が五歳のときです。何が起きたのかもわからない年齢でした。でも母は私のせいだと言い続けました』
読み進める手が止まらない。
『「あなたがいるから私は不幸なの」。その言葉を何百回、何千回聞いたかわかりません。私が存在していること自体が母を不幸にしている。そう刷り込まれて育ちました』
文字を追いながら、喉の奥が詰まるような感覚があった。
『結婚して家を出ました。逃げたかったんです。でも、母は今も私の人生に干渉してきます。夫との関係にも口を出す。「そんな男と結婚したから不幸になるのよ」「私の言うことを聞かないからよ」。孫が生まれても、「あなたに子育てができるわけがない」と言われました』
スマホを持つ手に力が入る。
『孫にも会わせたくない。でも、夫は「お母さんなんだから」と言います。世間も「親なんだから」と言います。親だから何なんでしょうか。産んだから何でも許されるんでしょうか』
最後の一文が画面の中で震えているように見えた。
『母を呪いたい。この世から消えてほしい。でも、そう思う自分も嫌いです。だって、母親を憎むなんて、人として最低じゃないですか』
メッセージはそこで終わっていた。
私はしばらくスマホを見つめていた。
この人は母親を憎む自分を責めている。「人として最低」だと。でも、この人が最低なのだろうか。幼い頃から存在を否定され続けた人がその相手を憎むのは当然ではないのか。
返信を打とうとして、指が止まった。何を書けばいいのかわからない。「お気持ちお察しします」では軽すぎる。「あなたは悪くない」と書く資格が私にあるのか。
結局、こう返した。
『お辛い経験をされてきたのですね。長い間、本当によく耐えてこられました。ご自身を責めないでください。どうか、ご自愛ください』
送信してから、また空虚さが押し寄せてきた。
こんな言葉で何が救えるというのか。
◆
翌日も、その翌日も、メッセージは届き続けた。
ある人は職場の同僚を呪いたいと言った。ある人は元友人を呪いたいと言った。ある人は隣人を呪いたいと言った。
どの告白にも、それぞれの地獄があった。
でも、その週の木曜日に届いたメッセージはこれまでとは質が違った。
『呪い人形、届きました』
三十代の男性からだった。
『昔いじめた相手を呪いたいんです』
最初、意味がわからなかった。読み間違えたのかと思って、もう一度読み返した。
昔いじめた相手を。
いじめた、相手を?
『中学時代にいじめていた相手が今では起業して成功しています。SNSで華やかな生活を発信している。高級車に乗って、タワマンに住んで美人の奥さんがいて』
画面の文字を目で追いながら、眉間に皺が寄っていく。
『一方、俺は落ちぶれた。高校中退して、職を転々として、今は派遣で食いつないでる。借金もある。彼女もいない。毎日が地獄だ』
この男は何を言っているのか。
『あいつは俺たちにいじめられて不登校になった。そこまではわかる。でも、その後、支援を受けて通信制高校に入って、大学にも行って、今は会社の社長だ。いじめられたことを「糧にした」とか言ってインタビューに答えてる。本まで出してる。講演会までやってる』
読み進めるほど、胃の奥がむかついてくる。
『いじめられたことを「売り」にしている。俺たちのおかげで成功したくせに、被害者面しやがって。俺たちがいなかったら、あいつは今でも目立たない地味な奴だったはずだ。俺たちがあいつを鍛えてやったんだ』
吐き気がした。
『不公平だ。なんで被害者が成功して、加害者が落ちぶれるんだ。おかしいだろ。あいつは俺たちに感謝すべきだ。なのに、インタビューで「いじめは絶対に許されない」とか言ってる。恩知らずだ』
スマホを持つ手が震えていた。
『あいつを呪いたい。成功してるあいつが許せない。俺の人生がこんなに惨めなのに、あいつだけ幸せそうにしてるのが許せない。不幸になればいい。会社が潰れればいい。奥さんに捨てられればいい』
メッセージはそこで終わっていた。
私は画面を睨みつけていた。
この男は最低だ。反吐が出る。いじめた側なのに、被害者意識を持っている。自分の罪を認識していない。それどころか、いじめた相手に感謝しろと言っている。
「俺たちがあいつを鍛えてやった」。
その一文が頭の中で何度も反響した。
鍛えた? いじめを鍛錬だと?
この男は自分がどれほど醜いか、わかっていない。自分が何をしたか、わかっていない。相手がどれほど苦しんだか、想像すらしていない。
私は——
胸の奥が急に冷たくなった。
私はどうだろう。
◆
高校時代の記憶が不意に蘇った。今度は断片的に、ではない。はっきりと、鮮明に蘇った。
下駄箱。誰かの靴がゴミ箱に捨てられている。周囲の笑い声。私も笑っている。
「まじウケる」
「誰がやったの?」
「さあ?」
教室。机が廊下に出されている。持ち主が黙ってそれを戻している。誰も手伝わない。私も手伝わない。見ているだけ。笑っているだけ。
廊下。誰かが壁際を歩いている。私たちが通りかかると、その人は体を縮めて道を空ける。「園田菌がうつる」。誰かがそう言って笑う。私も笑う。
私は頭を振った。
違う。あの男とは違う。
私は謝った。美月に謝った。許してもらった。
あの男は謝っていない。謝るどころか、被害者意識を持っている。自分は悪くないと思っている。相手のせいにしている。
私は違う。私は自分の罪を認識している。だから謝った。許してもらった。
でも——
許されたからといって、やったことが消えるわけではない。
スマホを置いて、洗面所に向かった。鏡の中の自分の顔がひどく青白く見えた。
蛇口をひねって、冷たい水で顔を洗う。水の冷たさが少しだけ現実に引き戻してくれる。
タオルで顔を拭きながら、さっきのメッセージを思い出した。
──「俺たちがあいつを鍛えてやった」
この男は本気でそう思っているのだろう。自分が正しいと思っている。相手が悪いと思っている。
私はどうだったろう。
高校時代の私は自分が正しいと思っていただろうか。美月が悪いと思っていただろうか。
考えたくなかった。でも、考えずにはいられなかった。
あの頃の私は何を考えていたのか。なぜ、あんなことをしたのか。
覚えていない。覚えていないくらい、当たり前のようにやっていた。
それが一番恐ろしいことなのかもしれない。
◆
その週の土曜日の午後、美月と会った。
駅前のカフェでいつものように向かい合って座る。美月はホットココアを頼んだ。私はブレンドコーヒーにした。
「顔色悪いよ」
美月が言った。
「最近、あんまり眠れなくて」
「仕事? 木村さんのこと?」
「それもあるけど……」
言いかけて、やめた。あの男のメッセージのことは話したくなかった。話したら、自分の過去のことも話さなければならない気がした。
「呪いグッズの客の話、まだ読んでるの?」
美月は察したようだった。
「……うん」
「重いの来た?」
「まあ、ちょっとね」
美月はココアのカップを両手で包みながら、私を見た。
「読まなきゃいいのに」
「わかってる。わかってるんだけど」
「彩乃、優しいから」
また、その言葉。
「優しくなんかないよ」
「そんなことないって」
「本当に、優しくないの」
声が少し震えていた。自分でも驚いた。
美月は不思議そうな顔をした。
「どうしたの? なんか、いつもと違うよ」
「ごめん。なんでもない」
コーヒーを一口飲んだ。苦味が喉を通り過ぎていく。
「最近、ちょっと疲れてるだけ。睡眠不足で」
「無理しないでね」
美月の声は穏やかだった。その穏やかさが今の私には眩しかった。
「ねえ、美月」
「うん?」
「高校のとき、私……本当にごめんね」
唐突な言葉だった。自分でも、なぜ今これを言ったのかわからない。
美月は少し驚いた顔をした。それから、ふっと笑った。
「急にどうしたの。もう何回も謝ってるじゃん」
「うん、でも」
「もういいって。私、気にしてないから」
美月は首を傾けて、私を見た。
「彩乃がそうやって気にしてくれてるの、嬉しいけどね。でも、本当にもう大丈夫だから。過去のことでしょ? もう十年近く前のことだよ」
十年。そうか、もうそんなに経つのか。
「彩乃は変わったよ」
美月は言った。
「高校のときと、今の彩乃は違う。私、それわかってるから。だから友達なんだよ」
その言葉が胸に沁みた。同時に、針で刺されたような痛みもあった。
「ありがとう」
それしか言えなかった。
美月は微笑んでココアを飲んだ。
窓の外ではクリスマスの飾りつけをした街路樹がきらきらと光っていた。
◆
帰宅して、溜まっていたメッセージを確認した。
新しい購入者が三人いた。それぞれが呪いたい相手への憎悪を語っていた。
一人目は浮気した夫を呪いたいという四十代の女性だった。
『二十年連れ添った夫が娘ほどの年齢の女と浮気していました。しかも、私たちの結婚記念日に、その女とホテルにいたんです』
二人目はパワハラ上司を呪いたいという二十代の男性だった。
『毎日「死ね」「消えろ」「お前なんかいらない」と言われます。もう三年続いています。精神科に通っています。でも、辞められません。転職する気力もないんです』
三人目は——
『呪符、届きました』
二十代の女性からだった。
『高校時代、集団無視されていました』
その一文を読んだ瞬間、心臓が跳ねた。
『クラス全員から無視されていました。「存在を消された」感覚です。話しかけても誰も反応しない。自分がいないかのように扱われる』
画面の文字を追う目が震えていた。
『最初は理由がわかりませんでした。ある日突然、誰も私に話しかけなくなった。挨拶しても返事がない。質問しても聞こえないふりをされる。グループワークでは私だけ余る』
読みたくなかった。でも、目が離せなかった。
『先生に相談しました。でも「気のせいでは」と言われました。「あなたにも問題があるのでは」とも言われました。親にも言えませんでした。言っても、きっと信じてもらえないと思ったんです。卒業まで一年半続きました。毎日が地獄でした。教室に入るのが怖かった。でも、休むと「逃げた」と思われる気がして、休めなかった。毎日、透明人間のように過ごしました』
スマホを持つ手が冷たくなっていた。
『卒業後も、人間不信が続いています。人と関わるのが怖い。友達を作るのが怖い。また無視されるんじゃないかと思うと、自分から近づけない。今も、ずっと一人です』
最後の一文が画面の中で震えているように見えた。
『あの頃の主犯格だった女を呪いたい。今でも夢に出てくる。あの女の笑顔が。私を無視しながら、他の子と楽しそうに話してる姿が。忘れられない。一生、許さない』
メッセージはそこで終わっていた。
私は画面を見つめたまま、動けなかった。
これは——
これは私が美月にしたことだ。
集団無視。存在を消す。透明人間のように扱う。
私がしたことだ。私が美月にしたことと同じだ。
◆
吐き気がした。
洗面所に駆け込んで便器に顔を近づけた。でも、何も出なかった。胃が空っぽだった。
冷たい床にうずくまって、荒い呼吸を繰り返した。
頭の中でさっきのメッセージと高校時代の記憶が混ざり合っていた。
「存在を消された感覚」。美月も、そう感じていたのだろうか。
「毎日が地獄でした」。美月も、そう思っていたのだろうか。
「今も、ずっと一人です」。美月は——
違う。美月は許してくれた。今は友達だ。さっきも「もう気にしてない」と言ってくれた。
でも——
許してくれたからといって、やったことが消えるわけではない。
許されたからといって、与えた傷が消えるわけではない。
あの購入者の女性は今も苦しんでいる。十年近く経った今も、あの頃の傷を抱えて生きている。
美月はどうなのだろう。本当に傷は癒えたのだろうか。本当に、もう気にしていないのだろうか。
──「一生、許さない」
あの購入者はそう書いていた。
美月は許してくれた。でも、それは——
私は床に座り込んだまま、天井を見上げた。
あの購入者が呪いたいと言っている「主犯格だった女」は私と同じことをした人間だ。私と同じように、誰かを傷つけた人間だ。
その女は今、何をしているのだろう。自分が何をしたか、覚えているのだろうか。罪悪感を感じているのだろうか。それとも、忘れているのだろうか。
私は忘れていなかった。覚えていた。だから謝った。
でも、謝っただけで許されていいのだろうか。
謝った。許された。友達になった。
でも、それで終わりではない。ただ、終わりではなければ何なのか。どうすればいいのか。
わからない。
何もわからない。




