霧ノ森 血塗られた因習と、永遠の胎動。
霧ノ森
序章:消えた村への招待状と四人の軋轢
真夏の太陽が、アスファルトをじりじりと焼く。七月の昼下がり、都市を覆う湿気をはらんだ熱気が、肌にまとわりつくように重苦しい。
大学のオカルト研究会に所属するタケルとリョウは、古びたワンボックスカーのエアコンを最大にし、人里離れた山奥の林道へと向かっていた。
同乗するのは、タケルが想いを寄せるアヤと、リョウの恋人であるマキ。タケルとアヤはお互い両思いだったが、まだ「恋人」という一線を越えずにいた。男2人、女2人の大学生4人組だ。
彼らの目的は、地元で「神隠し」として語り継がれる、地図にない集落の探索と、それを動画に収めることだった。タケルは動画投稿による名声が目的だったが、リョウは民俗学を専攻しており、この村の因習と『性なる夜』の儀式のルーツを探ることが目的だった。
道は次第に狭まり、舗装が途切れ、木々の葉が天井を覆い始めた。湿気と土の匂いが車内に満ち、次第に濃い森の匂いが強まっていく。
「マジでこんなとこに村があるのかよ? リョウ、スマホ完全に圏外じゃん!」
運転席のタケルが苛立たしげにハンドルを叩いた。リョウは、動画のリアルタイム性よりも、この村の「生きている因習」を記録したいという熱意に駆られていた。
「落ち着けよ、タケル! そこがいいんだろ!」リョウは、助手席で分厚い郷土史のコピーを広げ、声を高めた。「古文書にだけ記された、地図には載ってない『霧ノ森』。外部の人間が巻き込まれて村ごと消滅したっていう伝説の場所だ。これでオカルト研究会の会長も俺に決まりだ」
リョウは鼻で笑った。
「俺は会長の座なんてどうでもいい。それよりも、この『性なる夜』ってのは、単なる乱交じゃなく、古代の豊穣儀礼がそのまま残った『穢れ』を清めるためのシステムだと睨んでいる。村に辿り着いたら、まず祭祀の場所を見つけるぞ。それが記録の核になる」
アヤが、リョウの手元のコピーを覗き込み、眉をひそめて読み上げた。
「…『性なる夜』。奇妙な豊穣の祭りで知られ、外部の人間が巻き込まれて村ごと消滅した…だって。リョウ、こんな露骨な因習の記録を、私たちは今から笑いに変えようとしているの?ねえ、本当に私たち、行くの?」
マキは不安げに窓の外の鬱蒼とした森を見つめる。
「タケルくん、リョウくん。引き返そうよ。この森の空気、変だよ…酸素が薄いみたいに、重苦しい…私、さっきから頭が痛いの…」
リョウは、マキの不安を笑い飛ばした。しかし、アクセルを踏み込んだ瞬間、タイヤが泥濘に深くはまり込み、車は立ち往生してしまった。
「くそっ! やっぱ、この森は俺たちを拒否してるのか!」タケルはハンドルを叩き、悔しそうに唸った。
リョウは決断した。「歩くぞ。どうせ集落はもうすぐだ。車はここに置いていく」
第一章:霧ノ森の境界、古き掟、そしてリョウの越境
車を乗り捨て、装備を背負い、彼らは深い森の奥深くへと踏み込んだ。周囲は静寂に包まれ、鳥の鳴き声さえ聞こえない。湿度が高く、苔と腐葉土の甘く重たい匂いが鼻腔を衝く。
タケルは、アヤの手を強く握りながら、誰もいない獣道を先導した。
「怖くない?」タケルが小声で問う。
「…大丈夫よ。ただ、時間の感覚がおかしいわ。時計の針が止まってる」アヤは、腕時計の停止を指摘した。
どれほど歩いただろうか。突然、目の前の視界がひらけた。立ち込める濃い霧。それは山にありがちな白い霧ではなく、どこか灰色を帯びた、湿気を吸い込みすぎた重い帳だった。その霧の向こうに、朱色の塗料が剥げ落ち、黒ずんだ古びた鳥居がぼんやりと浮かび上がる。
「着いた…」タケルが息を飲む。「本当に…あったんだ」
鳥居をくぐった瞬間、空気の質が変わった。一歩踏み入れただけで、外界の喧騒と彼らが抱えていた文明の記憶が、霧の中に溶けて消え去ったような感覚に襲われる。
苔むした木造の家屋が並ぶ集落があった。それは何十年も時間が止まったかのような光景だ。しかし、奇妙なことに、どの家にも生活の気配—人の気配—があった。
タケルは声を張り上げた。
「すみません! 旅の者ですが、道に迷いまして! 一晩泊めていただけませんか!」
タケルが呼びかけを行う間、リョウは既にタケルたちの輪から離れていた。彼は村の構造を観察するように、奥へ奥へと進み始めた。
「待てよ、リョウ!」タケルが呼ぶが、リョウは止まらない。
リョウは、村の最も奥、最も暗い場所に、周囲の家屋とは明らかに異なる、粗末な木と縄で結ばれた小さな祠を発見した。祠の周りには、動物の骨のようなものが散乱し、強い血の匂いが漂っていた。
「ここだ…祭祀の核だ」リョウの目は、研究者としての好奇心でギラついていた。彼は迷わず祠の粗末な扉に手をかけようとした。
その瞬間、一軒の家、おそらく最も大きく、そして黒く煤けた屋敷の戸が、ゆっくりと開いた。
一人の老人が、ゆっくりとした動作で姿を現した。細く切れ長の目、枯れ木のような皮膚。長老らしきその老人は、古風な絣の着物を着ていた。
長老の視線は、まず祠に手をかけようとするリョウに向けられた。その視線には、歓迎の色ではなく、明確な敵意と、掟を破る者への冷酷な裁きが宿っていた。リョウは、その視線に射抜かれ、初めて身体の動きが止まった。
「よくおいでなすった。お待ちしておりましたよ、若い衆」
その声は、耳障りなほどに静かで、抑揚がなく、まるで古いレコードが擦り切れたような音色だった。彼は、にこやかに微笑んでいるにもかかわらず、どこか感情の欠けた、空虚な視線をタケルたちに投げかけた。
「今宵は里の者にとって、特別な日。『霧渡り(きりわたり)の祭り』。客人には、神の恵みを分けて差し上げましょう」
長老は、彼らの返答を待たずに背を向け、村の広場へと続く暗い道を手招きした。その背中に続く村人たちの視線が、まるで獲物を値踏みする肉食獣のようだった。彼らは皆、年齢不詳で、顔には疲弊と同時に、抑えきれない興奮の混じった、無表情な笑みが貼り付いていた。特にリョウに向けられた視線は、憎悪と警戒に満ちていた。リョウは、村の最も神聖な秘密に触れようとしたことで、最初から生贄として狙われていたのだ。
第二章:裏切りの酒、暴かれた記録、そしてリョウの消滅
その夜。村の広場は、異様な熱気で包まれていた。中心には巨大な篝火が焚かれ、村人たちが彼らを取り囲むように輪を作って座っている。
広場全体に、甘く、そして生臭い匂いが漂っていた。血と、腐敗しかけの肉の匂い、そして強い発酵臭が混ざり合ったような、悍ましい香りだ。
「さあ、遠路の疲れを癒されよ」
長老の合図で、村人が粗い陶器の盃をタケルたちに手渡した。液体は濁った赤茶色をしており、粘度が高く、血そのもののように見えた。
タケルは警戒したが、意を決して、一口飲んだ。
「うっ…なんだこれ…!」
その瞬間、舌に走ったのは、強いアルコールと、鉄のような血の味、そしてどこか麻薬的な、甘美な苦味だった。途端に脳の奥が痺れ、景色が揺らぎ、体が鉛のように重くなる。
「タケル! 大丈夫!?」
アヤが心配するが、彼女自身も酒の作用で顔が紅潮し始めている。
「くそっ…薬だ! 酒に何か入ってる!」
リョウが怒鳴りながら、ポケットを探った。彼は密かに起動しておいた小型レコーダーを使おうとした。
長老は、リョウの行動を全て見透かしていたかのように、冷たく言った。
「記録は、里の掟に反する。貴方たち外部の者にとっての真実は、里にとっての穢れでございます」
村の男たちが素早くリョウに群がり、彼のポケットからレコーダーとハンディカメラを強引に引き剥がした。カメラは、地面に叩きつけられ、砕け散った。
その時、アヤが鼻をひくつかせた。
「ねえ、タケル。生臭い…血みたいな匂いがする…」
篝火の炎が大きく揺らめいた。その向こう、広場の端には、巨大な藁人形が立てかけられていた。藁人形は、全体が赤黒い染み—それは間違いなく血だった—で覆われ、人間の毛髪と思われるものが無数に編み込まれていた。
村人たちが異様な呪文のような歌を歌い始めた。
その歌声の中、リョウがふらりと立ち上がり、広場の奥、藁人形が飾られた方角へと、まるで夢遊病者のように歩き出した。彼の顔は、既に酒と薬の作用で正気を失い、恍惚とした、しかしどこか絶望的な笑みを浮かべていた。
「リョウ! 止めろ! リョウ!」タケルは叫ぶが、動けない。
リョウは村の男たちに取り囲まれ、彼の抵抗も虚しく、彼は闇の中へ引きずり込まれた。
彼の悲鳴は、村人たちの耳をつんざくような歌声にかき消された。タケルは、リョウが闇に消えた場所を見つめながら、自分の無力さと、酒を飲んだことへの激しい後悔に苛まれた。
第三章:生贄の選定と「タネ」の役割
翌朝。タケルたちは広場近くの小屋に閉じ込められていた。
タケルは戸を蹴り、声を荒げた。
「リョウはどこだ! 何をしたんだ、あの爺さん!」
やがて、扉が開き、長老がそこに立っていた。
「何を騒ぐか。彼は昨晩、里の女と存分に褥を共にした後、夜明け前に里を出ていったよ。里の娘たちは、よほど気に入られたようだ」
タケルは長老の言葉を信じなかった。
「嘘をつけ!」
長老は鼻で笑った。
「里の掟は厳しゅうございます。神は里の血を濃くする『新しい土壌』と、それを清める『清浄なタネ』を望む」
長老は、タケル、アヤ、マキの三人を、ゆっくりと見つめた。
その日の夜。再び祭りが開かれた。彼らは、長老の監視の下、広場へと連れ出された。
長老は、まずマキの前に進み出た。
「この女は、外部の血を濃く持ちすぎている」長老はマキの震える体に触れた。「そして、その血は、既に他所の男の血に汚れていた。神に捧げる『清浄な血』としては不適格。だが、里の穢れを清めるための『穢れ』として、供物となれ!」
「いやっ! 嫌だ! 触らないで! タケルくん!」マキの絶叫が広場に響く。
「やめろ! マキに何するんだ!」タケルは立ち上がろうとするが、背後から無数の村人に羽交い絞めにされた。
マキは、村の男たちに口を塞がれ、荒々しく広場の端、藁人形の裏手へと引きずられていった。その絶叫は、やがてくぐもった呻きとなり、そして突然、断ち切られた。広場には、鉄を焼いたような異臭が立ち込めた。
長老は、引きずられるマキの姿に背を向け、残酷な真実を告げた。
「穢れは、血と肉を混ぜることによってのみ清められる。あの女の死は、里の収穫を豊かにする肥料となるだろう」
次に、村人たちはアヤとタケルを取り囲んだ。長老は、アヤを指差した。
「この女は、まだ清浄い。穢れの器を持つ者ではない」長老はタケルに向き直り、唾を吐きかけるような口調で言った。「あの女の穢れを清めるには、新しい血が必要だ。お前が持ってきたタネを、里に植え付けよ。男は、タネを植えよ」
タケルは抵抗したが、全身の自由を奪われたまま、別の小屋に連行された。
小屋の中:狂気の儀式と肉体の貪食
小屋の中には、長老の言う「里の女たち」が、無表情に座していた。その集団は、十代前半であろう、まだ幼さが残る少女たちから、タケルの親の世代、あるいはそれ以上の年齢であろう、皮膚が弛んだ熟女、老婆に至るまで、里の全ての世代の女性で構成されていた。
彼女たちは、タケルを認識すると、一斉に立ち上がり、まるで飢えた獣の群れのように、ゆっくりと彼を取り囲み始めた。彼女たちの瞳には、情欲や慈愛の欠片もなく、あるのはただ、里の血を純化し存続させるという、冷徹な「種の存続」という本能的な指令だけだった。
タケルは村の男たちに押さえつけられ、抵抗の余地を与えられなかった。
そして、女たちの群れは、躊躇なく彼の身体に触れた。その触れ方は、人間同士の触れ合いではなく、まるで新鮮な獲物に対する、飢餓感に満ちた捕食だった。
年齢も、容姿も、彼との個人的な関係も、全てが無意味なこの空間で、タケルの肉体は、里の呪いを宿した女たちの手によって、「タネ」を絞り出す道具として、徹底的に利用された。
十代の少女の手は冷たく、熟女たちの皮膚は熱く湿っていた。彼は、あらゆる世代の女性たちの、渇望と本能の全てを、その全身で受け止めなければならなかった。
「タネは途切れさせてはならぬ。里の血を清めよ」という長老の命令の下、彼は狂乱の儀式にさらされた。タケルの意識は薄れ、時間の感覚は完全に消失した。
この「性なる夜」は、豊穣を願うという表向きの理由だけでなく、里の少子化を防ぎ、血を絶やさないための、最も激しい実利的な風習だった。里の女たちは、この夜こそが子を産むための神聖な義務であると信じ、タケルから何度も、何度果てたか分からないくらいに、「タネ」を搾り取ろうとした。
行為はもはや快感ではなく、純粋な拷問へと変貌していた。激しい摩擦と、絶え間ない圧迫により、彼の肉体は限界を超え、自分のも擦り切れ、出血し始めた。小屋の中の湿った土の上には、彼の血と、女たちの汗、そして里の呪いの粘液が混ざり合い、悍ましい臭気を放っていた。
彼の皮膚が擦り剥け、血が滲むほどに、女たちは彼の身体を貪るように喰らい尽くし、その肉体から里の存続に必要な「タネ」を搾り取ろうとした。それは肉体的暴力であり、魂を汚す最大の屈辱だった。タケルは、自分自身が、もはや人間ではなく、里の狂気の連鎖を繋ぐための部品、あるいは消耗品でしかないことを痛感させられた。
外からは、アヤの悲鳴が、村人たちの歓喜に満ちた歌声と、狂乱の太鼓の音に変わっていくのが聞こえた。アヤも広場で村の男たちによる、悍ましい行為の対象となっていた。タケルは、愛する女の苦しみと、自分が経験しているこの徹底的な屈辱の二重の地獄の中で、意識を保つのがやっとだった。
第四章:花嫁の呪縛と血塗られた決意
夜が明けた。霧は昨日よりも濃く、視界の全てを白く染めている。
マキの姿は、もちろんない。広場の藁人形には、彼女の髪飾りと、新しい血痕が乾き始めていた。タケルとアヤは、共に血と土に塗れ、全身が血だらけになった着物で、一晩過ごした小屋の隅にうずくまっていた。二人の間には、言葉にできないほどの、重苦しい沈黙が横たわっていた。
「…タケル」
アヤは、声を出すのもやっとという様子で、タケルに囁いた。彼女の身体は、村の男たちの荒々しい行為によって、まるで打ち砕かれたかのように傷ついていた。しかし、その瞳には、絶望の炎の中に、微かな反抗の意思が宿っていた。
タケルは、アヤを抱き寄せた。二人の肌は、お互いから流れた血と、里の汚れた体液、そして泥と汗で、ぬめぬめと張り付いた。
「アヤ…俺だ…俺が、お前のタケルだ…」
彼らは、村の狂気と屈辱に満ちた夜の記憶を、上書きしようとするかのように、お互いの身体を求め合った。それは、愛の行為というよりも、この世の理不尽と呪いに対する、魂の絶叫だった。血と肉を混ぜ合わせることで、彼らは里の穢れを清めるのではなく、自分たちの愛の証を、この呪われた土地に刻み込もうとした。
互いの痛みと、熱と、生々しい血の匂いだけが、彼らがまだ人間であり、お互いのものだという、唯一の真実を教えてくれた。二人の行為は短く、そして激しかった。それは、タケルの最後の「タネ」を、アヤという「土壌」に残すための、死を覚悟した決断でもあった。
行為を終えた後、アヤはタケルの肩に顔を埋め、静かに泣いた。
「マキ…リョウ…」タケルは絞り出すように呟く。
長老が、村の女たち数人を引き連れて入ってきた。
長老は、アヤのそばに立ち、タケルに言った。
「貴方の血は、里に『新しいタネ』を授けた。そして、この女は、処女であったがゆえに、里の男の血を受け、タネを宿し、里の血を清める『新しい土壌』となった」
長老は断言した。「貴方を殺すことは、里の未来を殺すこと。神は、貴方を花嫁として選ばれた。貴方は、我々の血を継ぐ者を産む、神聖な器となる。貴方はもう、私たち里の者なのだ」
アヤは、タケルに向かって、堰を切ったように涙を流した。その涙は、自分の存在の全てが里の論理に組み込まれてしまったことに対する、純粋な絶望だった。
「タケル…置いていって。お願い、私だけは助からない運命なのよ…! 私の胎には…」彼女は、自分の体内で起こり始めている異変を直感していた。
タケルは立ち上がった。彼の全身は、全身の骨の髄まで染み込んだ屈辱と、怒りで、激しく震えていた。
「ふざけるな! 俺は里の家畜じゃねえ! アヤは俺の女だ! 誰にも渡さない!」
長老は冷たく、事務的な命令を下した。
「村人よ、タケルを里の外へ連れ出せ。手出しは無用。タネは大切に扱わねばならん。彼の血は、里の女たちに必要なものとなる」
タケルは村人たちに掴まれた。連行される途中、彼の視線は長老の背後の小屋の影に留まった。そこには、血塗られた農具—鎌—が隠されているのを見た。
タケルは、死を覚悟し、一つの決意を固めた。生きて逃げるのではない。アヤを連れて、この狂気を破壊して逃げるのだ。
第五章:血路、リョウの犠牲、そして呪いの胎動
村人たちは、タケルを鳥居の外まで連れて行こうとした。彼らはタケルを「タネ」として里の血筋を継がせるための、重要な「財産」として扱っている。
鳥居へ続く獣道。湿った土の地面。その道中、タケルは、足元の土から突き出た異様なものに気付いた。
それは、人間の手だった。土と泥にまみれ、皮が擦り剥け、血と汗で汚れた、紛れもないリョウの手だ。彼はまだ生きていた。首から下を土に埋められ、顔だけが泥から突き出ている。
「…タ…ケル…なぜ…なぜ助けてくれないんだ…俺たちは友達だろ…! お前だけ…お前だけ逃げるのか…!」
リョウは、虫の息でタケルに助けを求めた。その絶望的な叫びが、タケルの心を鋭い刃で抉る。タケルは一瞬、全てを投げ出してリョウを助け出したい衝動に駆られたが、彼の背後には長老と村人たちがいる。
(ごめん、リョウ。俺が今、お前を助けたら、アヤが死ぬ。俺たち全員、ここで腐るんだ!)
タケルは、愛する者を救うために、友情という最も大切なものを切り捨てた。彼は冷酷に、しかし、彼の心の中で慟哭しながら、リョウの視線から目を逸らした。
鳥居の外に出た瞬間、タケルは全身の力を振り絞って、村人の手を振り払い、村へ引き返した。
「貴様! 何をする!」長老は、タケルの反抗に驚き、目を見開いた。
タケルは、一目散に小屋の裏の血塗られた鎌を掴み取った。冷たい鉄の刃が、彼の手に食い込む。リョウとマキの血が染み込んだその鎌は、彼の怒りをさらに増幅させた。
「アヤを返せ! 俺はもう逃げない! 生贄になんてなってたまるか!」
彼は鎌を頭上に振り上げ、アヤを囲む村人たちを薙ぎ払った。鎌の冷たい刃が、村人の一人を地面に叩きつけ、血飛沫が霧の中に舞った。
「アヤ! 立って! 逃げるぞ!」
アヤは、タケルの狂気に満ちた、血に塗れた決意に、再び希望を見出した。
「タケル!」
二人は手を取り合い、鳥居へと向かって走った。
そして、リョウが埋められた場所を通りかかった。タケルは立ち止まる。
「リョウ、すまない! でも、俺たちを助けてくれ! 頼む!」
リョウは、泥まみれの顔を上げ、タケルたちの背後に、殺意に満ちた形相で迫る長老と村人たちを見た。リョウの視線は、もはやタケル個人に向けられたものではなく、里の未来を奪おうとする長老に向けられていた。
リョウは、最後の、最後の力を振り絞って、全身の筋肉を震わせ、喉を切り裂くような声で絶叫した。
「タケル! アヤ! 行けええええええええ!!」
リョウは、土の中から必死に腕を伸ばし、追いすがってきた長老の足首を、泥と血にまみれた手で、鷲掴みにした。
「ぐああっ! 何をする! この生贄めが!」
長老はバランスを崩し、その拍子に、背後にいた村人たちも次々と将棋倒しになった。彼らの連帯が、一瞬の混沌を生み出した。
「今だ! リョウがチャンスを作った!」
タケルは叫び、アヤの手を引き、霧が深まる鳥居をくぐり抜けた。
リョウは、タケルとアヤの姿が見えなくなるまで、汚れた顔で静かに、そして安堵したように微笑んだ。彼の周りでは、怒り狂った村人たちが再び立ち上がり、彼を囲み始めた。リョウの体は、彼らが起こした怒りの「最後の生贄」となり、彼の短い人生は、霧ノ森の濃密な呪いに飲み込まれていった。
第六章:生還者の呪いと永遠の胎動
タケルとアヤは、深い霧の中をただひたすらに走り続けた。リョウの断末魔の叫びと、村人たちの呪詛の怒号は、徐々に、まるで幻だったかのように遠ざかっていった。
数時間後、二人はようやく麓の街まで辿り着き、よれよれの姿で警察に通報し、病院へ直行した。
捜索隊が「霧ノ森」に入ったが、集落は既に無人だった。藁人形も、篝火の跡も、苔むした家屋も、全てが文字通り、濃い霧の中に消え失せていた。警察は、彼らの話を「極度のストレスによる集団幻覚」として処理した。
タケルとアヤは生還した。身体の傷は癒え、精神的な治療も始まった。しかし、彼らが里から逃げたその日から、アヤは体調を崩し始めた。嘔吐感、倦怠感、そして異様な食欲。
数ヵ月後、病院の診察室で、逃げられない真実を告げられる。
医師は、タケルとアヤに、まるで当たり前の事実を伝えるかのように言った。
「おめでとうございます。アヤさんは妊娠しています。現在、妊娠三ヶ月です」
タケルは、顔面蒼白になった。彼の記憶にあるのは、小屋の中で強制された、身体を貪り喰らわれるような、血に塗れた屈辱的な儀式の記憶だ。そして、あの小屋で目にした、全ての世代の女性の、飢えたような無表情な瞳の記憶が、彼の理性と良心を永遠に蝕んでいた。
アヤは、自らの腹を抱え、静かに、しかし深い絶望を湛えた目で、タケルを見つめた。彼女の目には、既に諦めと、里の女たちが持っていたような、空虚な光が宿り始めていた。
「…タケル。逃げられなかったよ。霧ノ森は…私たちの中にいる…」
里から戻ってからのアヤは、次第に都市の生活に順応できなくなっていった。彼女は、生肉や血のような匂いを異常に好み、夜になると、まるで村人たちが歌っていたような、意味不明の低い唸り声を、無意識に口ずさむようになった。彼女の肌は青白く、血管が異様に浮き出て見えた。
タケルは、その子の成長を恐れた。そして、何よりも恐れたのは、リョウを裏切り、マキを見殺しにしてまで持ち帰ったものが、呪いでしかなかったという事実だ。
彼らの逃亡は、里の血を途絶えさせるどころか、里の呪いを外界へ運び出し、都市という広大な「新しい土壌」へと蒔き散らすという、最も恐ろしく、最も皮肉に満ちた結果をもたらしたのだ。
タケルは、これから産まれてくる「子」の顔に、霧ノ森の長老の、細く切れ長の目が浮かび上がるような気がして、静かに、しかし永遠に続く恐怖の中で、目を閉じた。彼は、里に置き去りにしてきたリョウとマキの絶叫が、アヤの腹の中で、新しい命の胎動として響いているのを聞いていた。




