第三話 その5
明くる朝、朝餉の用意をしようと彼女が井戸端に行くと、近所のおばさんたちが朝から大声で、談笑していた。
朝の支度そっちのけで、彼女が井戸にやってくるのを見ると、みんな意味深にニヤニヤしながら、昨晩はどうだった、とか、優しくしてくれたかい、とか、初めてだけど段々よくなってくるよ、とか彼女には訳の分からない言葉ばかり、投げかけて来る。
訳が分からず生返事ばかりしていると、子沢山の大工の奥さんがゴニョニョと詳しく耳打ちしてくれた。
そうすると、彼女の顔はみるみる真っ赤になり、その内タラッと鼻血が噴き出した。
おばさんたちは、
おやおや、刺激が強すぎたかね、その分じゃまだまだということかね。
と笑い合っていた。
そうこうしていると、その話題に上がっていた侍が顔を洗いにやって来た。
新たな得物が来たとばかりに、おばさんたちは今度、その侍を餌食にし出した。
こんな若い娘が側にいるのに、意気地なしだね。据え膳食わぬは男の恥って言葉知らないのかい?などと集中砲火を浴びせた。
侍は何のことか分からずキョトンとしていたが、昨晩夕餉を一緒にした娘が目の前で鼻血を噴き出しているのを見て、肝を潰した。
慌てて大丈夫か?と駆け寄ったが、近寄ったことで、余計に真っ赤な顔がこれ以上ない位赤くなったかと思うと、居た堪れなくなり、自分の長屋に駆けて行った。
それを見て、井戸端でのおばさんたちの笑い声が、朝鳴く鶏より高らかに長屋に響き渡った。
東の都城に帰って来た彼は、早々に老中から苦言を呈されていた。
若様、もうそろそろ、町にお忍びで、出歩くのはお控えください、不逞浪人共が思いの外ウヨウヨ蔓延っております。
しかも、もうすぐ西の都の西の国軍を討伐する作戦も進行中にございます。
若、もう少し、ご考慮を。
松の廊下を歩きながら聞いていた。
若と呼ばれていた彼は、その事に対し生返事で答え、
昨日、長屋で夕餉を共にした、娘の親の事を老中ではなく、隣の重臣に伝えた、
重臣は、
それは、魔導士、洋学者のかたですか。
若は
洋学を修めており、それだけでなく、オランダ語など語学も堪能と聞く。
足を止め。
確か丁度、外国奉行の席が空いているはずだろう。
重臣は
えっと、と言ったきり、固まってしまった。
若は続けた、
身分に関係なく有能な人材は取り立てねば。今はそう言った人材が喉から手が出るほど欲しい。
直ぐ手配せよ。
歩きながらそう言うと、すでに次の案件を、他の重臣から聞いて取りかかっていた。
時は少しだけさかのぼり、長屋から侍が
帰る際、
彼女は侍に
毎日はどう?大丈夫?息が詰まらない?肩が凝らない?
侍は
多分、大丈夫。
何かあれば、また一緒にご飯食べよう。
楽しかった。
と二ッと歯をむき出し彼女は言った。
侍は、昨夜の夕餉の時間を反芻していた。あんなに短い間だったのに、以前から一緒に暮らしていた感覚、既視感ではない何か。
初めてなのに、懐かしい。
この長屋、いや彼女と一緒に過ごした時間がずっと続けばいいのにと心底思っていた。
あ、そうそう、と彼女から切り出した。
お気に入りの和歌ね、
そう言いながら、昨晩の和歌の話の続きを語り出した。
そして諳んじだした。
『契りきな かたみに 袖を 絞りつつ 末の松山 波こさじとは』
詞書には心変わりした女性に対して、なんだけど。
私は違うな、と思っているの、
誓いあった二人の不変な愛を詠っている、
相手がもし心が変わっても、私は変わらない愛を誓う。
そういった思いなんじゃないかな。
それにこの歌、ずっと前から知っているの、生まれる前からずっと。
侍は彼女の横顔を、ジッと見ていた。
そして、ありがとうと言った。
彼女は、エッと言いながら、突然の感謝の言葉にどう反応したらいいか戸惑っていた。
侍の方も、何故ありがとうなのか、でも言わずにはいられなかった。
帰り際の朝日が、ずっと二人を照らしていた。
そして、時代の流れは急激に流れ出す。
自分の意思ではどうする事も出来ない、理不尽な流れ。
拙作にいつも、お付き合い下さり誠にありがとうございます。お時間頂戴いたしております、感謝いたします。




