第三話 その4
野犬は冗談抜きで危ない。
狂ったように涎を垂らして追いかけてくる犬は特に。
集団で襲って来る、噛まれたら最後、何の薬も効かない、魔導や陰陽などは治癒などの系統では役に立たない、医術のみが人の生死を分ける。
そう、狂犬病、またの名を恐水症。
だから、出来るだけ近づかない様にするのが賢明、近所の子供たちにも十分言い聞かせている。
だが災難は否応なしに、向こうからやってくるのが往々にしてある。
飛び込んできたのは子沢山の大工の子の一人。
お姉ちゃん、助けてとばかりに、飛び込んできた。
長屋の子供たちだけで、河原に遊びに行っていたのはいいが、
そこを根城にしている野犬の群れに追いかけられ、川の中洲に逃げ込んだという。
この子は、隙をみて、何とか長屋まで帰って来た。
取り敢えず表に出てみると、地面には昨日の雨の水たまりが、そこ、ここにある。
彼女は、
それを見て、中洲と聞いてヤバいと思い、ごめんなさいと独り言のように、手を合わせ魔導書を手に取り急いで河原に向かった。
河原の土手から見ると、一重二重と野犬が中洲に向かって吠えまくっていた。
確かに中洲にはいつも長屋でワイワイ言っている子供たちが中洲の真ん中で固まっていた、犬の方も恐水症が混じっているのだろうか、渡らずにうろついている犬も見えた、
かなりの数の野犬であった。
ヤバい、昨晩の雨で、増水している、段々川の水が濁ってきて、水かさも増えてきている。
そう思うが早いか彼女は、
持ってきている魔導書に手を当て咒を唱え革表紙の錠前を解きあるページを指で押さえ、そして虚空に紋章と魔法陣を描き野犬の群れに放った。
紋章と魔法陣が花火の様に弾けたかと思うとその一閃、一閃が野犬たちに向かい貫いた。
致命傷にはなっていない、当たった野犬たちは、今自分に何が起こったのか分からず、キャンと叫びながら、訳も分からずその場から一目散に逃げだした。
まだ残りの野犬に向かい放とうとした時、その犬の群れに突き進む人間が居た、遠目で確認しづらかったが、侍のような恰好が確認できた。
その侍は、ズイズイ進んで行くものだから、
野犬たちは先程閃光と、閃光で逃げた仲間と、眼の前の中洲にいる子供たちと、それにかまわず近寄ってくる人間とで、状況が把握できていないのだろう。
どこに、誰に吠えたら良いのか理解不能となっていて、其の辺りをグルグル回りながら吠えていた。
すると、侍はそれにはお構いなしに、増水している川の中に入り中洲に辿り着き、子供たちを背中と言わず頭の上、肩車、抱っこ、肩の上、そして両腕に抱え、また岸に引き返してきた。
その光景を見たからだろうか、形相を見たからだろうか、岸に近付くにつれ、文字通り尻尾を巻いて野犬は全て逃げていった。
彼女は
土手を子供たちの元に駆け寄りすぐ高台の土手に手を引いて戻った。
土手の上でようやく落ち着きお互いの顔を見て、お互い、あっと言って固まってしまった。
あの時の、お侍。
あの時の、娘。
後では、中洲が完全に水没していた。
お姉ちゃん。お姉ちゃん。と泣きながら抱き着く子供たち一人一人をなだめていた。
良かった、と初めてお侍の言葉を聞いた。
彼女は
少しムッとした、あの時そんな、一言でもあれば、あんな町中追い掛け回さなくてもよかったのに、と。
おねいちゃん、この人が助けてくれたんだよ、と彼女は彼女で、私、野犬追い払ったんだけどなーと思いながらウンウンと相槌を打っていたら、
長屋のみんなが、子供たちの危険の知らせを聞いて、取るものも取り敢えず息を切らせてやって来た。
彼女の所から、それぞれのやって来た親御さんの所に飛びつき、無事を確認し合っていた。
気付くと、また、この場から離れようとした侍を捕まえ、
待ちな。
と、長屋のみんなが言って、その侍を取り囲んで、恩は返させてもらうよ、と子供たちの親御さんを含め、取り囲みほぼ強制的に長屋に連行した。
みんなの家は手狭だからという理由で、親子二人だけの所帯の私の家にその侍は、連行された。
で、
うちのばか娘が、また御迷惑おかけしました。
グイグイ頭を押さえるもんだから、何じゃ~と振り払い、あれ、と。
この風景、場面どこかで、会ったような、と一瞬思ったけど、そんなことより、ここまで至った経緯を聞けよこのバカ親父、
と怒鳴ったものだから向かいに座っている侍は目を丸くしていた。まあ、仏頂面からだからかなりの進歩と思っていた。
で、事の経緯を話し終わると、
今回はありがとうございました、長屋のみんな代表でお礼を申し上げます。と頭を下げ直した。
それはそうと、先日はこのバカ娘が貴殿を追い掛け回したようですね、大変申し訳ありません、そう言ってまた、彼女の頭をグイグイ押さえにかかった、
その時、はっきりと風景が目の前に映し出された、平安貴族の衣装を纏った男女、ああ、父と母だ、そうボンヤリ認識できた、そして頭を押さえられ謝っている先の男性は、その頃の武者装束、
かなり古い同じく平安朝の頃の衣装だ、私が彼に謝るような事を、この時代の昔からしていたんだ、と自然と受け入れていた。
が、彼女は夢から醒めたようにハッとしてグイグイあたまを押さえている父の手を払いのけ、
可愛い娘が手篭めにされそうになっていたのに、心配の一つもしろよ。
このバカ親父、
バカとはなんだバカとは。なんだと、こちとら、ナガサキで洋学を修めて来てるんだぞ、オランダ語、エゲレス語、オロシア語何でもござれだ、お前より頭はいいぞ。
クスリとお向かいの侍が笑ったので、
彼女は自分が笑われたと思い、
何か?と思わず言ってしまった。
いや、と崩した笑顔を元に戻し侍は言った。
語学が堪能でいらっしゃる。と続けた。
父親は、ここぞとばかりに、
語学だけではありませんぞ、洋学全般、海外情勢から、魔導関係、魔導書、も修めております。
お侍は、ホウと言って、興味を示した。
調子に乗って父親が洋学に対して、蘊蓄を披露しようとした時。
ガラッと引き戸が開き、長屋のみんなが今日のお礼という事で、いつもなら、一汁一菜だが、一汁三菜だ、とばかりに夕餉を作って持ってきてくれた。
お前さんいける口だろうと、お酒を口に運び呑む格好をしながら、子沢山の大工の親父さんが一升徳利を持って料理の傍に置いていった。
いつもなら、魚と、みそ汁だけだが何だか贅沢で、とても豪勢な夕餉となった。
お酒も進み、今日の河原での出来事の話になった。
彼女は聞いた、
野犬が居るところに素手で行った事、腰にある刀をなぜ使わなかったのか、私には魔導書がある。なのに。
なぜ、と、聞いてみた。
侍は、
かなり昔、生類憐みの令という、法をさだめている、それに従っているだけ、と答えた。
彼女は
うっわまじめ。と口をついた。
生類憐みの令が定められてから、何年経っているか、確か5代勢威大将軍の頃に定められた法のはず、通説ではお世継ぎが出来ないから、生き物を大切にして、徳を積もう、としたと聞いていますが、と続けた。
そして、
生類を憐れむと言うなら、あの不良浪人には容赦なく蹴りを入れてましたが?
と言わなくてもいい事をついでで行ってしまった。
侍は
ああ、と一言言って、持っていた盃を一口であおって、ちらっとこっちを見て、女の子に手を出す奴は最低だ、理由はどうあれ俺は許さない。ただそれだけ、と言ってまた盃をあおった。
続けて、
それとは話が違う、我が先祖が定めた法、尊重するのが当たり前。
フーンと聞いていた彼女はふと
我が先祖が定めたって、まるで、将軍様みたい。
と口をついた。
侍は、
口に付けていたお酒を急に咽たようにゴホゴホいいだした。
咽ている侍を横に、
親父は酔いが回ったのか、ゴロンと横になっていた。
彼女は
お客さんが居るのに失礼よ!
と叱責しながら、
横目で侍を見て、本当、将軍様みたい、そう言えば、噂では、お忍びで街に繰り出して、市井の様子を見て回っているって専らの噂みたいだけど。
そう言って、ハッと気づいた、お侍様、家紋はどうなさいました?後ろの襟あるはずの家紋がありませんし、同じく袖と正面胸辺りにも。
そこまで言って、外に人の気配がした。
明らかに長屋の者たちと違う気配。
そうすると、侍は外に向かい、無用。と一声かけると音もなく、その気配はスッと消えた。
そこで、彼女は全てを察し、これ以上詮索は無意味と思った。
盃を重ねていた侍は、
ふと、棚の上にあった本に目が行った、その先には『古今和歌集』『後拾遺和歌集』が並んでいた。
和歌ですか、と言って『後拾遺和歌集』を手に取った。どの和歌がお好きですか?と聞いてきた。
彼女は
この歌が好きなんです、ずっと前から知っているような。
と、ある歌を指さした。
どれですか、と言って傍にいって、どの和歌か確かめようと、あ、この歌は、と、言ったとき。
思った以上に、近寄ってしまい、気が付くとお互いの息がかかるのではという位の距離に思わず近寄ってしまった。
彼女は、
瞬間で、土間まで飛んで行ってしまうかという勢いで、離れた。
胸がドキドキしているのは、急に動いたからだけではない。
そんなことを知ってか知らずか、唐突に、侍は。
でも、と先程の話の続きをし出した、昔作られたことを、決して、蔑ろにしたくない、もし、自分がこの世から居なくなって、後の者が、私自分やってきたことが、全て無くなるなんて。
何だか可哀想だ。
今の世もそうだ、この国が一つとなって事に当たらなければ、ならないのに。
なのに・・・。
そこまで言うと、グイッと残りのお酒を飲み干し、赤い顔が、もっと赤くなっていった。
年下の女の子にこんな愚痴を言うなんて、俺も焼きが回ったかなと、つぶやき、ポトリと盃を落としたまま、壁にもたれたまま寝息を立てだした。
彼女は、
えーこんなところで図体のデカい大人の男の人が二人も寝ないでよ。と思いながら、布団を取りだし、親父と、侍に布団をかけた。
スヤスヤと寝息をかいている彼をまじまじ、見ながら、こんな考えの人って、
この人が勢威大将軍。
先人のやってきた事。
そういう考えもあるのか。
そう思いながら、彼女も横になり眠りに落ちた。
いつも、目を通し頂き誠にありがとうございます。今回は少し長めになってしまいました、貴重なお時間いただきまして、有難うございます。




