《影の監察者》記録:夜明けの報告室
任務を終えたカイルは、重い足取りで《灰の報告室》へと戻ってきた。
無事に帰還した──その事実だけで胸がいっぱいだったが、組織の掟は情けを許さない。帰還直後の報告書提出は必須。身体がどれだけ疲弊していようと、記録は冷酷に求められる。
報告室は静まり返っていた。唯一灯っていた机の明かりの下に、誰かが先に座っている。短い銀髪に琥珀色の瞳、黒革のロングコートの裾が床に落ちていた。
「あんた、新顔だろ?」
その人物──少女のような輪郭だが、放つ気配は刃そのものだった。年齢は自分と大して変わらないはずなのに、視線だけは歴戦の兵士と変わらない。
「……はい。第五等《幽紋》、第239番、カイルです」
「ふん、真面目。私は第三等《黒印》、第92番のセリア。……まあ、あんたからすりゃ、雲の上ってわけ」
「第三等……?」
セリアは椅子にもたれかかり、報告用の羽根ペンをくるくると指で回しながら、面倒くさそうに言った。
「階級、まだよくわかってないのね。しょうがないか。初任務終えたばっかの子犬ちゃんには、教えてやる義務があるかも」
カイルはわずかに眉をひそめたが、黙って頷いた。
「まず、監察者の階級は大きく六段階。上から順に──」
セリアは指を一本ずつ立てながら、ゆっくりと語る。
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第一等《原影》
《ヴェイル》の中枢にして最高指揮者。名簿も顔も存在せず、報告も命令も影に包まれる存在。直接命令を受けた者は、例外なく“名前を封じられる”。
第二等《深印》
戦略部隊と機密操作を担う最上級監察者たち。単独で国家級の事件を処理可能。全体を統括する作戦指揮官もこの階級にいる。
第三等《黒印》
現場で動く“影の刃”たち。暗殺・鎮圧・偽装・潜入・隠蔽、いずれかの分野で特化訓練を受けた実動エリート。任務失敗は即降格、または消滅。
第四等《影律》
指導・監督任務や、現場指揮を担当。クロウ少佐のように新任者の訓練を担当するのもこの階級。主に他階級との連携・調整を行う。
第五等《幽紋》
新人訓練兵と現場試用監察者。未熟な者ほど末尾番号が大きく、危険任務への参加は制限される。試験や実績により昇格の道が開かれる。
第六等《無印》(通称:灰徒)
監察者候補生または民間協力者。一部のみ《灰徒》から正式昇格が認められる。任務に失敗すれば、名前すら残らず組織を離れる。
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「覚えた?」
「……はい。情報の階層も、それに応じた任務責任も段違いですね」
「そう。たとえば私が担当するのは、“消えるべき者の記憶を削る任務”。君たち第五等じゃ、触れるだけで消される情報レベル」
「……怖い世界ですね」
「それでも、残りたいと思う?」
カイルは一瞬、迷いかけた。
だが、あの任務中の景色──
自分の行動が、誰かの未来を守ったかもしれないという感覚が脳裏に浮かぶ。
「……はい。ここにいたいです」
セリアは口元にわずかに笑みを浮かべた。
「ふーん。いい目してるじゃん。じゃあ生き残って。次は“第三等”で会いましょ」
その言葉を最後に、彼女は報告書を机に叩きつけるように置いて立ち去った。
蝋燭の炎が揺れ、静かに照らしていた。
カイルは自分の机に座り、羽根ペンを取り、紙を広げた。
《影の監察者 任務記録 第五等第239番》
任務完遂。対象、排除。記録、完了。
ペンを置いたその瞬間、彼はようやく──
本当の意味で、“影”に一歩足を踏み入れたのだった。