炭酸水
「暑いね」
「うん、そうだね」
自分の発する言葉が、たったひとつの相槌で色づく幸せを噛み締めながら、僕は炎天下の東京でミネラルウォーターを口にする。体内に取り込んだ六甲の水がその瞬間、塩分を含んでいるのかと言うほど、僕の体からは汗が吹き出している。今にもアイスクリームのようにとろけてしまいそうだ、いや、先に干からびてしまうか。
今日は遂に、彼女の大学の合格発表の日だ。彼女は強がって笑ってみせるが、きっと本当は不安に違いない。だってずっと、一生懸命に努力という目に見えない偶像を積み上げてきたのだから。僕は咥えた煙草に火を点ける。昔から老け顔であるから、ポリ公に疑われることはあるまい。噎せ返りそうになりながら、幾度も煙を吸っては吐き出し、吸っては吐き出す。意外と落ち着くものだ。小汚い中年が屈託のない顔で、体を苛めながらも断つことができない気持ちが少しわかったような気がする。そう言えば彼女は、一度も僕に煙草を辞めろとか、就活しろとか、言ったことがないなあ。
「ねえ見て!私、受かっちゃった!」
背が無駄に高い僕の耳に向けて、飛び跳ねながら喜びの報告をする彼女の声と同時に、毎年テレビやXに流れてくる、あの騒がしい光景が目の前を覆う。やはり気分が悪いものだ。我を忘れた若者の騒ぎ声ほど人の寿命を縮めるものはない。まるでこの世の終わりであるかのような面持ちで泣き崩れる女は、生で見るとより一層哀れに写る。その点、彼女は燥ぐでもなく、嬉し涙を浮かべるでもなく、ただ黙って、僕の筋張った胴に整った顔を埋める。彼女を包み込む脂肪も、がっしりと支える筋肉もない自分を情けなく思いながら、僕も彼女のぬくもりを身体中で感じ取る。ああ、好きだ⋯。そんな今更なことを思いながら、僕は投稿寸前だったXのポストを取り消し、煙草の火を消した。別に彼女を想っての行動じゃない、ただ、そうしたかっただけだった。
『〇〇大学の合格発表、テレビで見たことあったけど、実際現場にいるとヤベえなこりゃ。受かった奴にも落ちた奴にも幸せな未来なんて待っていねえのに。さて、俺はこれから、唯一の受験の勝者と、△△△レストランにでも行って祝杯でもあげようかな。』
殆ど宗教団体のようなサークル勧誘の沼をくぐり抜けた彼女と僕は、マクドナルドでエッグチーズバーガーとバニラシェイクで腹を満たし、PayPayで支払いを終えた後、行く宛もないままに歩いていると、彼女が
「あそこの道路でさ、ビーチバレーしようよ」
と、透明すぎて見えなくなってしまいそうなほどの笑顔で僕の手をつかんだ。流石、高校時代は剣道に明け暮れていただけある、力が強い。確か2段だったっけ。
押しに負けた僕は、後ろをついて走り、彼女が裸足になったのを見て、不思議と抵抗感もなく靴下を脱いだ。ああ、焼け焦げてしまいそうな程、暑い。でも何故か、清々しい。他人の目を気にしないって、こんなに気持ちが良いことなんだな。
「さあ早く!サーブ打っちゃうよ!?」
「おい待てって!すぐに行くよ!!」
僕らは少しだけ、鈍感であるべきだ。