8.お母様との日々8
シェフに会った翌日から、母とイデアの二人の食事にも彩りが加わった。一番嬉しいのは甘味が食べられることだ。
シェフが綺麗に盛り付けられたサンドウィッチや焼き菓子を差し入れしてくれるので、母も嬉しそうだ。
「お母様今日は少し歩けそう?少しは運動しないと、体が弱っちゃうよ」
母は趣味である刺繍をしながら、小首をかしげる。
「そうね。庭園に出ましょうか」
庭師がいないので屋敷の庭園は草が生い茂っている。でも母は、自然のままの植物の方が好きだと言った。
庭園にはたくさんの精霊たちがふわふわと飛んでいる。精霊は自然が好きなのだ。
大きな樹の下にシートを敷いて。母と二人で横になる。母はそうするとイデアを抱きしめてくれる。
イデアにとってこれ以上ないほど幸福な時間だ。この時間がずっと続けばいいと、イデアは思っている。
そんな生活を始めてから二年がたち、イデアは十歳になった。
母はもう起き上がることすらできなくなっていた。この二年の間、イデアは何度も母を医者に診せようとしたが使用人頭に阻まれている。
城の医者はみんな使用人頭に買収されているようだった。何度話かけても無視されるのである。
一度だけこっそりと診に来てくれた医者も居たのだが、母を診察したせいで首にされたのだ。誰もそんな者には関わりたくないだろう。
「イデア、私が死んだら、お父様の所に逃げて」
母はまだ父を信じている。体を起こせなくなってから、毎日イデアに言い続けていた。
イデアにはそれが切なくてどうしようもなかった。
「わかった。お父様の所に行くね。だから心配しないで」
母を安心させるように、うわべだけの笑顔でイデアは言う。
日に日に弱っていく母の様子に、イデアは母を失うことを覚悟した。
その日は憎らしいくらいの晴天だった。イデアはいつものように朝早く家事を終わらせると、母の元へ向かう。
「お母様。起きてる? 庭に綺麗な花が咲いていたの。……お母様?」
どれほど声をかけても母は目覚めない。精霊たちが、静かに眠る母に寄り添って明滅している。
ああ、幸福な日々がとうとう終わってしまったのだ。イデアは母のベッドの横に立ち尽くした。
精霊がまるでイデアを慰めるように集まってくる。
その時だった。母の体が光りだしたのは。イデアはなぜだかその光景の意味をすぐに理解した。
「精霊王……」
この世界の住人は、善人のまま死ぬと精霊に生まれ変われると言われている。母は精霊になって、精霊王の聖域に招かれたのだ。
まばゆいばかりの光が消え、そこには何も残っていなかった。
イデアの頬を涙が伝う。死後精霊になるのは幸福なことだという。だがイデアにとっては、母を失ったことに変わりはない。
イデアはその場に膝をついて泣き続けた。
涙が枯れるまで泣いて、気が付けば夜になっていた。
そこでイデアは自らに起こった異変に気が付く。今まで光の玉にしか見えなかった精霊が、人の形に見えるのだ。
精霊たちはじっとイデアを見つめていた。
茫然とするイデアの髪を、複数の精霊が引っ張る。
「え?なに?」
精霊に導かれるままに、イデアは歩き出した。たどり着いた場所は厨房で、精霊たちは水瓶とパンを指さしている。
「食べろって言ってるの?」
いっせいに頷く精霊たちに瞠目しながら。イデアはパンに手を伸ばす。一口かじると、お腹がすいていたことに気が付いた。
精霊たちに見守られながら、イデアはもそもそとパンを食む。
母が死んで今まで見えなかったものが見えるようになった。どうしてかそれが精霊王によるものだとイデアは確信している。
「逃げなきゃ」
母が亡くなった今、イデアに城にいる理由はない。そうだ、ミラメアに行こうとイデアは思った。
精霊王の元に行けば、精霊になった母に会えるはずだ。問題はミラメアの入国審査がとても厳しいということだけだ。
しばらく王都で働いて、誰かに身元保証人になってもらって身分証を発行してもらわないとミラメアにはいけない。
母がミラメアの姫だったとしても、それを証明する術はないのだ。
イデアはもう一度母に会うため、城から逃亡することを決めた。