6話 料理と少女と忘れ物
「緋月くん、まだ来ないね」
家庭科室の前で、横に立つ天城さんがふっと笑みを浮かべて僕を見る。
薄曇りの窓から射し込む光に、その柔らかな表情が浮かび上がった。
「さっき教室の前通った時、先生に捕まってたからまだかかりそうだね」
「そっか。今日は付き合ってもらってごめんね? しおり君はどこか気になる部活なかったの?」
「全然大丈夫だよ。もともと部活に入る予定はなかったし」
僕が首を振ると、天城さんは少し安心したように肩の力を抜いた。
「いろいろありがとうね。私は戦うことはできないけど……頑張るから」
今までの和やかな空気が少し変わる。
彼女はまっすぐな瞳で、僕をまっすぐに見つめていた。
そのまなざしはいつもより少しだけ大人びていて、思わず僕は視線を逸らした。
「……ありがとう。期待してるよ」
正面に目を向けた瞬間、ふと気になる光景が視界の隅に映る。
家庭科室の隣、文芸部の扉の前。
そこに、扉の隙間から中を覗き込むように立つ男子生徒の後ろ姿があった。
「どうしたんだろう、あの子」
「わからないけど……文芸部に興味あるのかな? 私、ちょっと行ってくる」
言うが早いか、天城さんはスカートの裾を揺らして軽やかに駆け出す。
僕も慌ててその後を追う。
「どうしたの? 興味あるなら、一緒に入ろうか?」
突然の声に、男子生徒は肩を跳ねさせた。
猫のように身をすくめ、目を見開く。
そのまま言葉に詰まり、次の瞬間、踵を返して走り去った。
「びっくりさせちゃった……悪いことしたかな」
彼の背中を目で追いながら、天城さんが申し訳なさそうに眉を下げる。
そのとき、廊下の曲がり角から現れた緋月くんと、逃げてきた彼がぶつかった。
ドン、と鈍い音がして、少年は床に転がる。
一瞬見えた彼の目には、怯えと混乱が入り混じっていた。
彼は立ち上がると、何も言わずにまた駆けていった。
「……あいつ、どうしたんだ?」
緋月くんが頭を掻きながら僕たちのほうに来る。
「ううん、なんでもない……びっくりさせちゃっただけ。次会ったら謝らなきゃ」
天城さんは少し唇を噛み、手を胸元でぎゅっと握った。
「まあ、入ろうぜ」
緋月くんを先頭に家庭科室の扉を開くと、
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
砂糖とバター、そしてどこか懐かしい香ばしさ。
「いらっしゃい。部活見学かな? それとも体験?」
優しげな女性の声が響いた。
声の主は前に立っていた、落ち着いた雰囲気のある生徒。白いエプロン姿が似合っていた。
「私は部長の逢沢。よろしくね」
「初めまして。私だけ体験で、2人は見学です。あっ、私は天城 久遠です! よろしくお願いします!」
元気よく頭を下げる天城さんに、部長がにっこりと頷く。
「篠森 緋月です。こっちはしおり。お世話になります」
「よろしくお願いします」
「了解〜。うちはね、料理だけじゃなくて裁縫や被服も扱ってるから、いろいろ見ていってね。女の子はエプロン貸すから、こっち来て」
「はーい! じゃあしおり君、緋月君、ちょっと待っててね」
そう言って、天城さんはエプロンを受け取り、奥へと消えていった。
「とりあえず見て回るか」
「うん、荷物はここに置いて行っていいみたい」
荷物を置いて周囲を見渡すと、家庭科室と被服室の仕切りが開け放たれ、
広々とした空間が広がっていた。
家庭科側には何人か生徒がいたが、奥の被服スペースは静まり返っている。
そこにはひとり、小さな背中を丸めて、黙々とミシンを動かす少女の姿があった。
教室の隅、誰にも気づかれないように潜り込むようにして座っている。
「何作ってんだろ。ちょっと、見に行こうぜ」
緋月くんが小声で言う。
緋月君の背中を追い、付いていく。
少女の前に着くと、ミシンの針がカタカタと軽やかに動いていた。
その手元では、まるで人形が着るような、小さな洋服のようなものが形を成していくのが見えた。
「すみません、いま何作ってるんですか?」
何気なく声をかけると、彼女の指がピタリと止まる。
次の瞬間、少女は勢いよく振り返った。
猫のように鋭く吊り上がった目が、こちらをにらみつける。
「なに、あんた達に関係ないでしょ!」
低めの怒声が被服室に響く。
その声には、拒絶と焦りが入り混じっていた。
「人形とかの服っすか? かわいいっすね」
緋月くんが怯まずに、にこやかに追撃を放つ。
けれど、それが火に油を注ぐ結果になった。
「うるさい! どっか行って!!」
少女の声がさらに跳ね、場の空気が張りつめる。
その声に気づいたのか、奥から部長さんが走ってきて、小声で囁くように僕たちに言った。
「ごめんねー、一年生。あの子ちょっと職人気質っていうか……気難しいところがあるの。自由に見学してって言ったけど、そっとしておいてもらえると助かるな」
「うす、了解です」
少女は、ふんっと鼻を鳴らすと、再びミシンに視線を戻し、針を走らせ始めた。
その後、僕たちは調理実習班の作業を見学しながら時間を過ごした。
見学時間はおよそ1時間。その間、あの少女が誰かと言葉を交わす姿は一度もなかった。
「はーい、今日の見学会・体験会はこれでおしまいです。興味がある人はぜひ入部してくださいね〜」
「ありがとうございました!」
荷物置き場からバッグを取り、廊下へと出る。
「お疲れ様ー、楽しかったー! これしおり君の! これは緋月君の!」
天城さんが駆け寄ってきて、ラッピングされた小袋を手渡してくれる。
包装からはふんわり甘い香りが漂ってきた。
「ありがとう! いただきます」
袋から一枚、クッキーを取り出して口に入れる。
ほろりと崩れたそれは、やさしい甘みを残しながらすっと溶けた。
「おいしいよ! 毎日食べたいくらい」
「ほんと! 良かった〜!」
天城さんは満面の笑みを浮かべてぴょんと弾んだ。
その横で、緋月くんは「うまっ、うまっ」と呟きながらもそもそと頬張っていた。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん!」
家庭科室の前を通り過ぎながら、僕たちは学校を後にした。
その時──
ズキンッと、脳に鋭い痛みが走った。
「しおり、今のって……」
「うん、久しぶりに来たね。行こう」
走り出していた背中を追うように背後からは天城さんの足音が、少し遅れてついてくる。
緋月くんは迷いなく本を取り出し、手を重ねる。
その瞬間、スニーカーがじわりと赤く染まった。
曲がり角を越えた先、よだれを垂らした狼が一匹、うろついていた。
虚ろな目で周囲を彷徨い、まるで“何か”を探しているようだった。
「よーし、やったりますか」
「がんばって!」
僕はバッグを開き...
「あれ……?」
探していた“あの袋”がない。
「どうした、しおり」
「……豆の入った袋が、ない」
一瞬だけ、時間が止まったように感じた。
緋月くんは一拍遅れて笑い、こちらに親指を立てる。
「任せとけ」
言い終えるやいなや、地面を蹴って走り出す。
狼の目がこちらを捉えた瞬間、牙を剥いて飛びかかってきた。
だが緋月くんはわずかに身を沈め、そのまま滑り込むように下へ潜る。
下から勢いよく蹴り上げ、狼の腹を打ち抜く。
空中で跳ねた狼が落ちてくるのを待ち回し蹴りが追い打ちのように加えられる。
そのまま空気に溶けるようにして、狼は霧散していった。
「いったぁ……背中擦った……」
「ありがとう、助かったよ」
地面に置かれていた荷物を拾い後ろから天城さんが駆け寄ってくる。
「どこに置いてきちゃったんだろうね…」
「ちょっと、学校に戻って探してくるよ」
「俺たちもついてく?」
「いや、大丈夫。なにがあるかわからないし、天城さんを送ってあげて」
「了解、また明日な!」
ふたりと別れ、僕は夕焼け色に染まる通学路を駆け出した。
何かの拍子で芽吹いたりはしないだろうけど、あの袋を失えば新しい豆はもう生成されなくなる。
校門をくぐり、昇降口で靴を履き替える。
足音が響く人気のない廊下を、僕はまっすぐ家庭科室へ向かった。
扉を開けると、夕暮れの光が差し込む中、どこかひんやりとした空気が流れ込んでくる。
荷物置き場へ駆け寄ると、机の下に見慣れた、小さな袋が転がっていた。
「……あった」
安堵と共に、全身の力が抜けた。
冷や汗を拭いながら拾いあげると、静かな室内に“カタカタ”とミシンの音が響いていることに気づく。
「……あれ?」
誰かが使っている?
そう思って見渡しても、人影は見えない。
それでも、間違いなくミシンの針は動いていた。
消し忘れたまま……じゃない。
近づいて見ると、ミシンの周りで、小さな影が動いていた。
目を凝らす。
それは、まるで
……人形?
いや、違う。
小さな“人間”のような何かが、ミシンを操作していた。
豆袋から一粒を取り出し、慎重に近づく。
「あれ……なんだあれ……?」
ミシンの前の席の下には、先ほどの高圧的な少女が丸まって眠っていた。
「先輩、起きてください!」
恐る恐る肩に触れると、その小柄な体が軽く揺れた。
「んッ……!」
少女は勢いよく起き上がり、振り上げた頭が僕の顔にクリーンヒットした。
髪の隙間から覗いた目はうっすらと涙を滲ませていた。
当たったことにより滲んだ目を擦る。
その時、僕の目に飛び込んできたのは
ミシンの間から顔を覗かせる、小さな少女だった。
それは、あの少女自身をミニチュアにしたような姿。
他にも──
足元のペダルを踏んでいる子。
布を抑えている子が二人。
他にも、道具を運んでいる影がいくつも動いている。
「──あんた、見たわね! 今見たこと、全部忘れなさい!!」
現実を把握した少女が絶叫し、次の瞬間椅子を掴んでこちらに全力で投げてきた。
「ちょ、ちょっと待って!!」
鋭く回転する椅子の脚が、すぐそばをかすめて壁に激突する。
静まり返った家庭科室に、怒鳴り声と反響音がこだましていた。