2話 焦燥と決意と暗闇
「しおりー、起きなさい」
「もう起きてるよ」
階下から聞こえる母の声に返事をしながら、手元の本を見つめる。
昨日、あの一件のあと、天城さんを家まで送り届けて連絡先を交換し、それぞれ帰路についた。
あのとき本に挟まっていた豆は、夜のあいだにまた湧いてきたようで、今では合計五粒になっていた。
何度見てもただの豆にしか見えないが、何が引き金で発芽するかもわからない。
ひとまずそっと拾い上げて、机の上に置いた小皿に並べて保存してある。
――そもそも、あの狼は何だったのだろう。
あの瞬間、確かに貫いた感触があったのに、跡形もなく消えた。あれは、きっとこの世の生き物じゃない。
「いい加減に起きなさいってば!」
再び階下から声が響く。
リュックに本を入れ、豆は子どものころ使っていた巾着型の財布に丁寧に収めて、制服のポケットへ。
制服に袖を通して階段を降り、いつもより少し余裕のある時間に玄関を出た。
昨日の風で散った桜の花びらが道に舞う。淡く香る春の匂いの中、学校へと歩き出す。
土手沿いの道を通り、いつもの道をたどっていると、前方に見慣れた姿があった。
「しおり君、おはよう」
「天城さん、おはよう。どうしたの?」
土手の入口で、天城さんがこちらを向いていた。
「しおり君を待ってたの。本、持ってきた?」
「うん、一応ね。でも……拾った本だし、持っていていいのかちょっと迷ってる」
「そうだよね。しおり君自身は大丈夫なの?」
「僕は特に何も。ただ、本から豆が出てきて……今は五粒あるんだ。ちょっと気味は悪いけど」
「そっか。ひとまず学校に行こっか」
「うん」
二人並んで、桜の花びらが舞う道を歩く。
風にそよぐ常緑樹の緑が、朝の光にきらめいていた。
不思議な出来事があった翌日でも、朝はちゃんとやってくる。
その当たり前が、ほんの少しだけありがたく感じられた。
学校へ行くまでの道どこかあの出来事を忘れたいかのようにどちらもあの出来事を口にすることもなく他愛のない会話をしていた。
なんだかんだ時間はギリギリになり昨日同様注意する先生を横目に教室の席に着いた。
「席に着けー」
窓から吹き抜ける春風が教室に吹き抜けようやく1日が始まったような気がした。
※ ※ ※
一限目は化学。先生の声が教室に響いているけれど、内容は右から左へ抜けていく。
なんとなく、さっきまでの天城さんとの会話が頭に残っていた。
本当にこの本をもとの場所に戻していいのだろうか。
自分の持ち物ではないから戻すべきなのはわかる。だがこんな危険物をもとの位置に戻していいのだろうか。仮にほかの人が拾ったときに悪用される危険性を考慮すると一概にもどすのが正しいとも言えないような気がしてしまう。
いいや、こんなのは詭弁なのかもしれない。
自分の気持ちに素直になると本を持っていることによってまたあの狼のような化け物と戦うことになるかもしれないことが怖い。
放課後にはこの本を返しに行こう。
ただの高校生が持っていていい力ではない気がした.
決意を固め天城さんのほうに目を見やると、すやすや眠っている。
彼女も何事もなかったように振舞ってはいたが疲れていたのだろう。
先生の心地よい子守歌に惑わされながらもなんとかペンを走らせた。
※ ※ ※
___放課後
「天城さん、ちょっといい?」
「うん?いいよ」
不思議そうな顔の天城さんを連れ図書室へと向かう。
図書室の午後は静かだった。
本棚の陰にある長机に並んで座りながら、しおりはゆっくりと鞄からあの本を取り出す。
机に置いたそれを見つめながら、小さく息を吐いた。
「……この本、返そうと思う」
天城はすぐには返事をしなかった。
視線だけをしおりの手元に落とし、少しの間、何かを考えるように黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「そっか……そう思ったんだね」
しおりは頷く。
「うん。あんなの、また起きたらって思うと……怖いんだ。正直、普通に過ごしたいって、思っちゃう」
天城はその言葉に、うん、と小さく頷いた。
「うん、怖いよね。あんなの、普通じゃなかったもん」
しおりは目を伏せたまま、ぽつりとつぶやく。
「……多分、逃げてるだけなんだろうけどね」
「逃げることが悪いなんて、私は思わないよ」
天城はそう言ってから、少しだけ声を落として続ける。
「ただね、私、あのとき、しおり君があの本を持ってたから、助かったんだと思ってる」
しおりは顔を上げた。
天城の目はまっすぐで、でも押しつけるような色はなかった。
「だから、なんていうか……私は、もう少し、この本のこと考えてみたいなって。すぐに“戻したほうがいい”って言えなくて」
しおりはその言葉を否定するでもなく、ただ静かに本の表紙を見つめていた。
言葉にならない何かが、胸の奥にうずく。
「ごめんね。私が言うことじゃなかったよね……それでも、しおり君が決めたことなら、私はちゃんと受け止めるよ。今から返しに行くの?ついて行ってもいい?」
その言葉は、どこまでも静かで、優しかった。
「うん、いこう」
天城の言葉で揺らぐ言葉を隠すようにしおりは言葉を吐いた。
学校を出て、ゆるやかな坂を下りながら土手へと向かう。
昨日まで風に舞っていた桜の花びらは、もうほとんど地面に落ちていた。
季節は、音もなく次のページをめくろうとしているようだった。
西の空は茜色に染まり、土手の影が長く伸びる。
その影のなかに、二人の足音だけが控えめに響いた。
「ここ……だよね」
「うん」
しおりはリュックの中からそっと本を取り出す。
手にしただけで、あのときの重さが掌に戻ってくる気がした。
どこかに置き忘れてきたはずの、恐怖と、興奮と、責任。
「……ねえ、やっぱり怖かった?」
天城がぽつりと聞いた。
「うん。すごく、怖かった。正直、今だって、ちょっと手が震えてる」
笑いながら言った声は、どこかかすれていた。
「この本を持っていて、誰かを救うことよりも誰かを救えなかったときのことを考えてしまうんだ」
しおりは言いながら、斜面の根元――昨日拾った、あの場所へと足を進める。
リュックから取り出した巾着袋を開き、豆の入った包みと本を木の根元にそっと置いた。
何かが終わったような、また何かが始まりそうな、そんな不思議な静けさに包まれる。
夕焼けがさらに深まり、木の影がふたりを覆いはじめる。
「……じゃあ、帰ろうか」
しおりが呟くように言うと、天城は頷いた。
ふたりの影が、ゆっくりと土手を下る夕日とともに遠ざかっていく。
しおりは一度だけ、そっと後ろを振り返った。
そこにはもう、ただの夕暮れの風景があるだけだった。
※ ※ ※
スマートフォンのアラームが、いつも通りの朝を告げる。
それは、昨日までの不思議な出来事とは無関係のように、ただ当たり前に鳴り響いていた。
制服に袖を通し登校準備を終え、玄関をくぐる。
慣れてきた通学路には気づいたらマップアプリはいらなくなっていた。
少し曇った空からは今にも降りそうな雨を抑え込んでいるように見えた。
昨日土手で待っていた天城さんは今日はいなかった。
土手道を通るも、なるべくあの本を生活から切り離したいという思いでなるべく見ないように意識外に持っていく。
これが意識していないというのは無理があるかもしれないが、必死の抵抗だった。
※ ※ ※
午前の授業は、特に印象に残ることもなく過ぎていった。
昼休みも、友人たちの話題にうなずきながら、どこか心ここにあらずだった。
午後の授業が終わるころには、いつのまにか曇り空から雨が降り始めていて、窓の外を細い水の筋が伝っていた。
チャイムが鳴り、教室にざわめきが戻る。
放課後。
誰とも言葉を交わさず、傘も差し校舎を出た。
帰り道は、なるべく人通りの少ない道を選んだ。
わずかに濡れたアスファルトの匂い。遠くで鳴る自転車のブレーキ音。
日常のすべてが、どこか別の世界の出来事みたいに感じられる。
しばらく歩いて、信号が青に変わるのを待っていたときだった。
――ズキッ。
不意に、頭の奥を針で突かれたような痛みが走る。
「……っ」
思わず足を止め、片手でこめかみを押さえる。
景色が少しだけ滲んで、音が遠のいたような気がした。
あの時と同じだ――
何かが"入り込んでくる"感覚がする。
辺りを見回しても、誰もいない。
でも、誰かに見られているような妙な圧迫感だけが、ぴたりと背後に張りついて離れない。
雨の音が、急に耳に重くのしかかってきた。
鼓膜を叩くような、湿った、濁った音。
傘をその場に捨てて、道を引き返す。
胸の奥を突き動かすような嫌な予感が、体を勝手に動かしていた。
通学路から外れた、誰も通らない細い小道。
濡れた壁に背を預け、そっと顔を覗かせる。
いた。
あのときと同じ、巨大な狼。
湿った空気の中、濡れた毛並みが静かに揺れていた。
目は細く、何かを探しているように、ゆっくりとあたりを見回している。
胸がざわつく。
自分の呼吸の音がうるさいほど大きく感じる。
全身の筋肉が、冷たい風にこわばっていた。
もう一度、恐る恐る視線を向ける。
狼は、小道のさらに奥を凝視していた。
やがて姿勢を低くし、じわりと足を踏み出す。
うなり声が、地面を這うように響いた。
冷たい雨が首筋を伝う。
それが雨なのか、汗なのか、わからない。
(……誰か来てくれる。きっと、誰か……)
震える足。
抜けそうな腰を壁に預けながら、なんとか立ち上がる。
自分じゃない誰か。もっと適した誰かがいるはずだった。
♪
場違いなほど明るいメロディが、濡れた空気を裂いて流れ始めた。
「早く早くー!」
「待ってよー!」
夕焼けの音楽に混ざって、楽しげな子どもの声が近づいてくる。
狼の耳が動く。
一瞬の静寂のあと、ぬかるんだ地面を蹴る音が響いた。
もう間に合わない。
震える唇を噛みしめながら、体を前に出す。
雨の中、足元にあった石を拾い上げ
勢いをつけて、全力で投げつけた。
クルッと体をひねり、こちらをにらみつける狼。
石をもう一度、強く振って投げた。
怯まない。
逆に、地を蹴って突っ込んでくる。
息を吸う間もなく、走り出す。
雨脚が強くなった気がするが、耳に届くのは自分の心音だけ。
人のいない道を選ぶ。
振り返ると、狼はさらに近づいていた。
足音が土を裂く。距離がない。
曲がると、土手が見える。
木の下に本があるはずだ。
息を整える暇もなく、歩幅を広げる。
常緑樹が視界に入る。本は……見えない。
土手に差しかかったとき、左腕に衝撃。
鋭く、深く、何かが食い込む。
狼だ。追いついて、噛みついてきた。
そのまま坂を転げ落ちる。
頭が揺れる。腕が引き裂かれる感覚。
体が地面を打ち、泥が顔に跳ねる。
痛い。熱い。だが、止まっていられない。
腕を振るい、なんとか狼を引き剥がす。
下に着いた時には、狼の足元がぐらついていた。
隙ができた。
腕の痛みを忘れ、足を引きずりながら木の下へ向かう。
指先が震える。
「……あってくれ、本当に……」
そこに、本。
昨日と同じ場所に置かれている。
すぐに拾い、袋を手に取る。豆をつかんで、振り返る。
狼が、こちらをにらんでいる。
豆を思いっきり右腕で投げる。
地に落ちた豆が鈍く音を立て、地面が震える。
次の瞬間、大地を突き破るように太い茎が天を目指して伸び上がった。
さっき石を投げた影響か、狼は警戒したように身を滑らせ、体を横に逸らす。
避けられた——。
残り4粒。
自然と豆を握る手に力がこもる。
狼は怯むことなく再び地を蹴って駆け出してきた。
心臓が跳ねる。だが焦りを悟られぬよう、静かに1粒の豆を投げる。
狼の手前で落ちた豆は、再び地を割って茎を生やし、成長していく。
その勢いは狼の進路を塞ぐ壁となる。
枯れ切った茎の隙間から、狼の鋭い眼光と目が合った。
ぞわりと背筋が粟立つけだつ。
残り3粒。
戦いの行方よりも、どのように使うかを考えなければならない。
息が乱れ、左腕の痛みが先ほどより鋭くなった気がする。
雨が背を伝い、冷えた身体にさらに冷や汗が混じる。
寒気。焦燥。恐怖。すべての感情がいっぺんに押し寄せてきた。
枯れた茎の向こうで、狼が再び駆け出してくる。
――やばい。やばい。やばい。やばい。
「しおりくん!」
土手の上から天城さんの声が響いた。
狼が咄嗟に振り返る。
___今しかない。
背中を見せた狼へ向かって、2粒の豆を立て続けに投げる。
地に触れた豆は、今度はやや細い茎を複数本伸ばし、交錯しながら成長する。
勢いよく伸びた茎は、狼の身体をいくつも貫き、地面から引き剥がすように持ち上げた。
狼は足をばたつかせ、しばらく暴れるも……やがて力を失い、先ほどと同じく霧のように消えていった。
安堵が一気に押し寄せ、全身の力が抜ける。
張り詰めていた足が弛緩し、そのまま
膝から崩れ落ちた。
「しおりくん、大丈夫!?」
草をかき分け、土手を駆け下りる天城さんが見える。
「大丈夫……いや、正直、大丈夫じゃないかも」
そう言って笑ってみせる。
安心させるために。
「天城さん、なんでここに?」
「走ってるしおり君が見えたの。生えた茎も見えて……もしかしてと思って。腕、出して」
天城さんはバッグからタオルを取り出し、腕にきつく巻きつけてくれた。
その手は震えていたけど、真剣だった。
「天城さん、本は返さないことにするよ。これが何か、あいつらが何なのか、まだ分からない。でも……手の届く範囲の人は、全部救いたい」
「うん、しおり君がそう思うなら……それでいい。私も手伝う。君がひとりで背負わないように」
気づけば、雨は小降りになっていた。
だが背筋を撫でる感覚は、雨のせいだけじゃなかった。
ズキン________。
頭の奥に鋭い痛みが走る。
嫌な予感が胸の奥をよぎる。視界がチカチカと揺れ、眩暈のような感覚に襲われた。
「天城さん、逃げて。ここは危ない」
霞む視界が晴れたその先——
空気中に黒い粉のようなものが舞い、それがひとつの塊へと集まっていく。
再び、狼が形を成していた。
「わかった。けど、逃げない。私は応援すると決めたから」
天城さんは震える両手を組み、しおりを見据える。
その目に、恐怖と、それでも逃げないという決意が宿っていた。
狼はふわりと地面に着地すると、殺気を孕んだまなざしをこちらへ向けた。
残り、1粒。
豆を強く、強く握る。
「しおり君、後ろ!!」
頭の奥が引っ張られるようにぐらりと揺れ、視界が歪む。
地面が傾いた。立っていられない。
――2匹、いる。
自分でも気づかぬうちに、膝が崩れた。
耳の奥で、誰かの叫び声が聞こえたような気がした。
天城さん……?
でもそれもすぐに、闇と霧のなかに溶けていった。
意識が、沈んでいく。
◆ ◇ ◆ ◇
「しおりくん、大丈夫!?」
彼の身体が大きく浮かび、蹴り飛ばされたようにして地面に叩きつけられた。
膝から崩れ落ちるように倒れたしおり君に、私は無我夢中で駆け寄る。
「しおりくん、ダメ……! 起きてよ!」
彼の身体を抱き上げた腕に伝わるのは、徐々に冷えゆく体温。
目は虚ろで焦点が合っていない。声をかけても、返事はなかった。
「……うそ、でしょ……」
低く唸るような音が耳を打つ。
顔を上げると、今度は二匹の狼がこちらを睨んでいた。
鋭い牙を覗かせた口元が、どこか嘲笑っているようにも見える。
しおり君の手に握られていた豆を引き抜き、強く握る。
「せめて……これだけでも」
豆を思いきり投げつけた。
風を裂き、一直線に飛ぶ豆。だが
...
それは地に落ちただけで、何の反応も示さない。
大地が裂けることも、天に向かって芽吹くこともなかった。
狼たちは一瞬だけ怯んだが、すぐに構え直し、地を蹴る音を響かせて再び走り出す。
「なんで……なんでよ……っ!」
しおり君の冷えた手を握りしめたまま、震える声が漏れる。
二体の狼が弧を描くように走り出し、交錯しながら迫ってくる。
その足音は、どこか私の心音と重なり合っていた。
——もう、駄目だ。
身体が動かない。
うつむき、目を閉じた。
……
…
ドッ——
「……え?」
音がした。けれど、牙は私の肉を裂いていない。
恐る恐る顔を上げると、そこにあったのは——
私たちと同じ制服に、真っ赤な靴を履いた少年の姿だった。
彼の背後には、一匹の狼が地面に転がり、体が霧のように薄れていっている。
もう一匹は、よだれを垂らしてその少年と睨み合っていた。
「だれ……?」
その問いに答えるように、少年が走った。
無駄な力みのない動き。狼が飛びかかる寸前、彼はわずかに身体をひねり、舞うようにすれ違う。
そしてそのまま、振り向きざまに鋭く膝を叩き込んだ。
狼の顔面が跳ね上がり、怯んだ隙を見逃さず、少年は一歩踏み込み回し蹴りを叩き込む。
狼の身体が宙を舞い、霧散するように消えていった。
残ったのは夕焼けに照らされた少年と、しおり君を抱き締めた私だけだった。
少年は荒い息を整えながらこちらを振り返る。
「——息、してるんか!?」
さっきまでの戦闘の顔から一転、今にも泣きそうなほど焦った表情で叫ぶ。
私の方に駆け寄る動作は、大きく、不器用で、けれど必死だった。
気がつけば、雨は止んでいた。
雲の隙間からこぼれた夕焼けが、温かく私たちを包んでいた。