1話 文字と栞と豆
「しおり~、今日から授業なんでしょ。早く起きなさい!」
カーテンの隙間から差し込む朝日が、まぶた越しに光のカーテンを落としてくる。ぼんやりと目を擦りながら、枕元のスマホに手を伸ばす。
「……7時40分!?」
瞬間、眠気が吹き飛んだ。飛び起き、ベッドから転がるように降りる。
何の授業があるのかわからないため、無意識に教科書を片っ端からリュックに詰め込む。制服に袖を通しながら階段を駆け下り、洗面所で冷たい水を顔に浴びて目を覚ます。鏡に映る自分に一瞬戸惑いながらも、歯を磨き、リビングを横切って玄関へ。
「いってきまーす!」
まだ硬さの残るローファーを急いで履きながら、玄関の扉を勢いよく開けて外に飛び出す。爽やかな朝の空気が頬をかすめ、少し冷たさを感じる。
始業は8時30分。現在の時刻は8時ちょうど。間に合う、たぶん——。
昨日入学したばかりの校舎。まだ通い慣れない通学路。スマホのマップとにらめっこしながら、一歩ずつ前へ進んでいく。
雨上がりの舗道には、桜の花びらが点々と舞っていた。水たまりに浮かぶ薄桃色の花びらが、空と地面を曖昧に溶かしていく。見上げても、見下ろしても、視界は桜に包まれていた。
——まるで、春が上下から押し寄せてくるような、そんな景色。
少し風の強い、河川敷の土手道。向こうに見える校舎の屋根が、家々の隙間からちらりと顔を覗かせる。
「8時15分……よし、間に合う」
安心したそのとき、不意に誰かが横を駆け抜けていった。
黒髪を風になびかせた女子生徒。イヤフォンをつけ、リズムに乗っているようにも見えるけれど、走り慣れていないのか、どこかぎこちないフォームだった。
その姿に、一瞬だけ目を奪われた——。
そして、次の瞬間。
踏み出した足の先に、地面がなかった。
「うわっ——!」
思わず声を上げる暇もなく、足元の土手が急に消えたかのように感じ、重力に引き寄せられていった。周囲の風景が一気に回転し、冷たい空気が顔を打つ。体が無力に宙を舞い、土手を転がり落ちていった。
そのまま、地面に叩きつけられる感覚が広がり——。
***
「いたた……」
頬に鈍い痛み。腰をさすりながら体を起こす。視界がまだ少し揺れている。頭の中で、ほんの一瞬、何が起こったのかが整理されるまで時間がかかった。
ふと見上げると、あの少女の姿は、もうどこにもなかった。足元には、リュックの中身が散らばっている。
ああ、落ちた拍子に全部飛び出したのか。
しゃがみ込むと、風が一瞬、落ちた紙のページを舞わせる。桜の花びらが空からちらついているのが、妙に静かで美しかった。教科書を拾い集める手を止め、少しだけその光景に見惚れた。
濃い緑の常緑樹の根元。桜の季節には不釣り合いなその木の下で、紙のページが風に揺れていた。どこか儚く、どこか忘れられたような静けさが漂っている。
キーンコーンカーンコーン——。
5分前の予鈴が、空に響く。突如として目を覚ます。急いで教科書をリュックに押し込み、地面に落ちていた土を払って立ち上がると、再び走り出した。慌ただしく、焦る気持ちが胸をかき立てる。
「急いで教室に行けよー」
昇降口で待ち構えていた先生を横目に、靴を履き替えながらその場を駆け抜ける。息が上がりながらも、なんとか教室のあるフロアへ駆け込んだ。時計を見ると、始業にはギリギリ間に合った。
ぎこちない空気の流れるまだみんなどこか距離を感じる新しいクラス。
「HR始めるぞー。席に着けー」
担任の先生が教室に入ってくると、空気が一気に引き締まる。
「おはよう、今日もギリギリだね」
隣の席の女子生徒——さっき土手で見かけた黒髪の少女、天城久遠あまぎ くおんが、小声で笑いかけてきた。
「おはよう。天城さんは走ったおかげで間に合ってよかったね」
「えっ!? なんで走ってたの知ってるの!?」
思わず大きな声を出してしまい、担任からすぐに注意が飛ぶ。
「そこ、うるさい」
「ごめんなさい……。でも、なんで分かったの?」
「なんとなく、そんな感じがしただけだよ」
「……あ、頬っぺた、怪我してる。ちょっと待ってね」
天城さんはカバンを探り始め、しばらくして小さな絆創膏を差し出してきた。転げ落ちたときに、頬を切っていたようだ。
「ありがとう」
受け取って、そっと頬に貼る。ほんの少し、痛みが和らぐ気がした。
「1限目は俺の授業だからそのまま始めるぞー。数学の教科書を出してー」
パンパンに詰め込んだリュックから教科書を探す。手探りで、必死に中身を確認していると—
「あれ……?」
その中に、ひときわ目を引く本があった。教科書よりも分厚く、年季の入った皮のカバー。触れた瞬間に、重みと、かすかに香る古い紙の匂いが鼻をくすぐる。
「なんだこの本……?」
表紙を確認しようと、本を引き抜きかけたその時——。
「教科書忘れちゃったの?」
「いや、見覚えがない本が入ってて……」
「どうした栞。教科書忘れたのか?」
「いえ、大丈夫です」
慌てて本をしまい、代わりに数学の教科書を取り出す。けれど、どうしてもその本が気になって仕方なかった。きっと、あの木の下で拾い集めたときに混ざってしまったのだろう。誰かの忘れ物なのだろうか。
「よし、じゃあ6ページからやっていくぞー」
***
「気を付けて帰れよー」
1日の授業が終わる。春の風が、校庭に差し込む陽光と混じり合いながら、廊下を吹き抜けていった。ロッカーにいれた教科書により軽くなったリュックから、すぐに土手に置いていけるよう本を取り手に持つ。
「じゃあね、栞くん」
「じゃあね、また明日」
挨拶を交わし、学校をあとにする。部活動の勧誘を避けて、校門を出て、朝の土手下へと向かう。取り出した本には、表紙はおろか中にも何も書かれていなかった。年季は入っているが、まるで白紙のノートのようだ。
——誰のものだろう。いずれにしても、自分の持ち物ではないものを持ち歩くのは気が引ける。
朝とはまた違う、夕暮れ色の土手を歩いていくと、前方に天城さんの姿が見える。坂道を下りかけたその時——。
ずきんっ。
鋭い頭痛が、脳の奥を撃ち抜いた。意識が一瞬、暗転しかける。胸が激しく鼓動し、空気がざわめく。視界の端で、何かが歪んで—
「キャー!!!!!」
天城さんの悲鳴が辺りに響き渡った。
足で草をかき分けながら、急ぎ足で駆け上がると、目の前に現れたのは、毛を逆立てた巨大な白い獣だった。その体躯は犬のそれではなく、まるでオオカミのように獰猛で、鋭い牙をむき出しにしながら、天城さんに迫ろうとしていた。息を呑む間もなく、その獣は獰猛な低い唸り声を上げ、臨戦態勢を取っている。
「天城さん!大丈夫!?」
その声が届いたのか、振り返った天城さんの顔が見えた。彼女は恐怖に目を見開き、口を震わせながら必死に言葉を絞り出す。
「しおりくん!さっきまで何もいなかったの!本当だよ!? 桜を見てたら、どこからともなく出てきて……本当だって!」
「疑ってないよ。ケガはない?」
その言葉とともに、獣が再び低く唸りながら飛びかかってきた。瞬間、しおりは反射的に体を動かし、リュックからあの謎の本を引き抜いて、まるで盾のように突き出した。
「あ…拾い物なのに!」
本が獣の牙にかみつかれ、その衝撃がしおりの腕に伝わる。すると、少しヌメヌメとした感触を覚えたが、本の表面には傷一つついていなかった。それどころか、何事もなかったように本は無傷のままだ。
「ありがとう、栞くん」
天城さんの声が安堵に満ちて響くが、しおりはすぐに本の状態を確認しながら答える。
「それどころじゃないけど、どういたしまして」
手にした本を改めて見てみると、最初のページにはいつの間にかしおりが挟まれていた。しおりがふと視線を落とし、異変に気づく。
「しおりくん、その本、何か挟まってない?膨らんでるけど…?」
「え…? なんだこれ…?」
驚きながら、しおりは本のページを開いてみると、そこには小さな『豆』が挟まっているのが見えた。その豆は今までのページにはなかったものだ。しおりは少し戸惑いながらも、その豆を手に取った。
「さっきまでこんなのなかったと思うんだけど…?」
その時、揺れ動く犬のような獣が再び間合いを詰め、よだれを垂らしながら威圧的に近づいてくる。獣は再度、しおりに向かって飛びかかろうとしていた。
しおりは急いで本を前に突き出し、再び獣を受け止めようとする。しかし、先ほどとは違い、今度は距離を取られていたこともあり、強い衝撃が本に伝わり、しおりの手から豆が零れ落ちた。
その豆が地面に落ちた瞬間、地面が激しく揺れ、まるで何かが目覚めるような音が響いた。すぐに、足元から突如として伸びた茎が勢いよく成長を始め、あっという間に巨大な蔓が空を突き刺すように伸びていく。茎は無慈悲に獣を貫き、その獣はその力に抗うことなく、黒い煤のような煙を撒き散らしながら、消え去っていった。
しばらくの沈黙が続いた。周囲の空気が静まり返り、ただ風の音だけが響いていた。茎は急激に枯れ、地面に残った跡を残して、土手の風に吹かれながら消え去っていく。
「今の、栞くんがやったの…?」
天城さんが震えた声で尋ねる。しおりは本を見つめ、少し考えながら答える。
「わかんないけど、多分…?」
再び強く吹く土手の風が、桜の花びらを舞い散らせ、その優雅な姿とは裏腹に、何かしらの終わりを告げるような不安定な感覚がしおりの胸に広がった。日常が少しずつ終わりを迎え、違う世界の扉が開いたような、そんな不思議な感覚が彼を包み込んでいた。