どうか、わたしの腕の中で(1)
――一〇五三年十二月。
「学校」内、講義棟エリア、ペデストリアンデッキの植え込み前ベンチ。
この街の十二月としては珍しい、雲一つない青空。
その下で、ルイーゼは煙草の煙が揺らぐのを眺めていた。
ウルリカが吸っているものと同じ銘柄。街の煙草店を、赤毛交じりの白髪の女の子が来たことがないか、と尋ねて回り、同じ銘柄のものを買ったもの。それだけのことに二日もかかった。
何口か吸ってはみたものの、ひどくむせて、自分には煙草というものは合わないな、とルイーゼは思った。けれど、ゆらゆらと立ち昇る煙と、手をかざすと仄かに光る火を見るのは、案外好きかもしれない、と思い始めてもいた。火が消えてしまわないように、ときおり優しく揺らしてみたり、息を吹きかけてみたりする。思った以上に煙草は繊細な扱いが必要なのかもしれない。
この空の向こうでは、いまウルリカやリルが戦っている。
大災厄とも表現できるケモノを倒すための前哨戦で、ある意味では決戦より重大な作戦。
一緒に戦えないことは残念だが、今回の作戦の主導は「学校」ではなく「師団」にあり、通常の「法石」回収任務ではなく、殲滅戦のため、火力支援部隊との連携の経験のないルイーゼは、いても邪魔になるだけだった。不満がないといえば嘘になるが、先輩たちも全員がこの作戦に参加できているわけでもない。
いままでは自分の休養中に誰かが出撃していても、帰りを待つという感覚はなかったが、今日ばかりは待つのがつらい、と思ってしまっている。
「はぁー」無意識に溜息が零れた。
「なんなの? 当てつけ?」
傍らにやってきたクラウディアが、別の女へ意識を向けるルイーゼに、日傘を揺らしながら不満を零した。
先日の、観察室での会談後、この二週間ほどの間、ルイーゼは何度かウルリカやリルと訓練をする機会があった。クラウディアもだ。クラウディアとウルリカは、表面上は、何かの趣味が合うらしいし、ルイーゼから見てもこの短期間でずいぶんと親しくなったように見える。
クラウディアが不機嫌なのは、貴重な休みを二日も消費したこともそうだが、いままで一度も煙草を吸ったこともなく、吸おうとしたこともなかったルイーゼが、ウルリカと同じ銘柄を彼女が懇意にしている店で買うという、ある種のストーカーじみた、惚れた相手の好みに合わせるような行動をしたからだった。
クラウディア自身、ウルリカのことを嫌っているわけではないが、いまこの場にいない人を想起させられるのが嫌でもあったし、ルイーゼにウルリカの匂いが上書きされるようで気持ち悪くもあった。こうした考え方をしてしまう自分は、面倒くさい女だということをクラウディアは自覚している。
そして、どんなに面倒くさい女になったとしても、ルイーゼは自分を嫌うことはないだろうことも。自分がそんな彼女に甘えていることもだ。
「違うよ。試しに買ってみたけど、やっぱり、わたしには合わないな。でも、もったいないから火を点けてあげようかなって」
「それなら、誰かにあげちゃえばいいじゃない。それこそせ・ん・ぱ・いに」
「言い方。ま、ただ火をつけてるだけだと全然燃えないし、捨てちゃうよ」
「……、それなら、わたしに頂戴」
「え、あ、うん」
思いもしなかった反応に戸惑いを見せるルイーゼをよそに、クラウディアは日傘を少し後ろに傾けると、パッケージを拾い上げて煙草を取り出し、口に咥えた。
マフラーを外し、煙草に火を点ける。
煙を吐き出す。
「ホントに吸ったことないの?」ルイーゼは尋ねた。クラウディアの姿があまりにもサマになっていたからだった。
「ないよ。うん、そんなに悪く、なぇほ、ごほ」余裕を見せるも、咳き込んでしまった。「うん、よくないわね」
「だね」
ルイーゼは用意しておいた携帯灰皿を差し出す。クラウディアは、もう一口だけ吸うと、灰皿にポイと放り込んだ。それを煙草のパッケージと一緒に小さな紙袋に収めると、ルイーゼは防寒着をまくり上げ、ずるずるとマフラーを取り出し、首に巻いた。
「どこから出すの、それ」
クラウディアも外していたマフラーを巻きなおす。同じ柄の色違い。
「失くさないように」子供っぽいような、モジモジした様子で答える。
だからといって、外している間、お腹に隠すというのはどうなんだろうか、クラウディアにはちょっとおかしくも思えた。
そして、用事を一つ、マフラーで思い出した。
別にいま、この場でする必要もないが、タイミングを逃してしまうようで気持ちがよくない。
「そうだ、来週のさ、プレゼントは何がいい?」
十二月の終わりから、次の年にかけてのお祭り。
この都市で最も重要で重大な催し物。
この時期になると、街は夜が来ないとも表現されるほどの煌びやかな装飾が施され、真冬だというのに熱気が溢れ、普段人通りの少ない路地でさえ、おめかしし通りかかった人を楽しませる。広場にはたくさんの出店が集まり、特設のステージでは個人から楽団まで様々な人が芸を披露したり、〇時には年明けまでの毎日花火が上がり、街中が大賑わいになる。
そして、家族や友人、親しい間柄でプレゼントを贈るのが、この祝祭週の慣習の一つでもあった。
「学校」内でも、街中と同じように賑やかな装いがなされ、すでに何ヶ所かで、真昼だというのに電飾や蝋燭が灯っている。
今年は、今日の作戦も含め、最終決戦ともいえる大規模な作戦が予定されているため、例年どおりにみんながみんな街の空気に酔い、浮かれているわけではなかったが、それでもできる限り、祝祭を楽しもうというささやかな気遣いに満ちていた。ある意味では祝勝の前借りのような気楽さ、勝利への絶対の信頼すら感じられる。
しかし、ルイーゼは今日こそ休みではあるものの、来週は出撃待機指令が下っており、昨年のように、クラウディアやカレンと一緒に街のちょっとお高いレストランへ行ったり、劇場や移動遊園地へ足を運ぶことはできそうになかった。
実は、この年末の祝祭週を一番楽しみにしていたのはルイーゼである。そのことは、クラウディアもよくわかっている。
「ディアがくれるなら、なんでも嬉しいよ」
「また、そういうこと言ってさ。じゃあ、また、お揃いのね」
クラウディアは、何かイベントがあるたびに、二人で同じものを贈りたがる。いままでもお揃いのネックレス、お揃いのマグカップ、お揃いの香水、お揃いのマフラー、お揃いの靴とパーティードレス。結局、香水はほとんど使わないし、靴とドレスに至っては、一度、自室で見せ合っただけだった。だとしても、それはそれで思い出になる。
「それなら、一緒に行こう。今日申請すれば明後日、もしかしたら明日には行けるかも」
今回のプレゼントは、時計にでもしよう、懐中時計がいいな、とクラウディアは、ルイーゼの横顔を見、傘をくるくると回しながら考えた。
しかし、彼女たちが、ショーウインドウでたくさんの商品からお気に入りを探すことも、それを買い、プレゼントし合うことも、二人で時間を確かめ合うこともない。
二人の、ささやかで密やかなる幸福な未来は、訪れなかった。
◆
ルイーゼはクラウディア、カレンと一緒に少し早めの昼食を済ませたあと、講義棟エリアのデッキに面したテラス席で一人コーヒーを飲みながら、ゆっくりとしていた。クラウディアは技術部で用事、カレンは警備部と装備課を回って武器の調達交渉や新装備のウインドウショッピングをしに行っている。
少し雲は増えてきたものの、いまだ快晴と呼べる範囲の天気で日差しが温かい。
この日、行われている「師団」主導の作戦も、順調に進んでおり、ほとんど終結状態にあるらしかった。
コーヒーを飲み終わり、うとうととしながらも、図書館に行くか、眠気覚ましに散歩でもしようかと席を立つ。
――そのとき、警報が鳴った。
非常事態。
ルイーゼはこの警報を聞くのは初めてだった。
それどころか、この場にいるほとんどの人間が初めてだろう。そもそも警報の存在を知らない者もいる可能性すらある。待機中の聖女であれば、街の警戒域に近づくケモノがいるというアナウンスを受けることもあるが、それも防衛任務にあたっている人員に向けてのもの。ラインを突破したとしても、警備担当の神器兵や車両部隊によって処理されることが多く、応援が必要な場合は早い段階で連絡がなされる。もし仮に敵が即応部隊の手に負えない規模だったとしても、段階と手順を飛ばしていきなり非常事態の警報というのは、限りなくゼロに近い。ケモノの足が航空機より速いのであれば話は別だが。
それゆえに最初に疑うのは、誤報だった。しかし、この可能性はすぐに低くなった。
街の方からも警報の音が、波のように時間差で押し寄せてきたからだ。
ケモノが都市の防衛ライン内に侵入したという内容に続いて、ほとんど間を置くことなく、外壁が突破され緊急事態が発生したことを示す警報が重ねられた。警報に混じって爆発音も聞こえ、雲とは異なる影が空にかかるのが見えた。市民に避難を呼びかける勧告や、緊急車両のサイレンの音が、「学校」まで届いている。
構内も俄かに慌ただしくなった。
放送によって、警備部や聖女の招集、講師や技術者の避難が促される。
その直後「学校」の敷地内にもケモノが侵入したことを告げる自動警報が発せられ、同時に特別行動規定も発令された。構内での武器の無制限使用許可。
さらには市内全域に、「学校」および「師団」による特別令の限定的発動が宣言された。これは、破局的な緊急事態時に現場へほぼすべての権限が委託されるもので、都市の意思決定機構がすでに機能喪失、または短時間で機能を失う可能性が極めて高いことを示していた。
構内の人々は「何が起きている」、「(ケモノの構内侵入が)早すぎる」などと、状況を飲み込みきれないものの、自分たちのすべきことの為に行動し始めていた。
誤報の可能性も否定できないが、誤報なら誤報でその原因を探さなければならない。
ルイーゼも早く集合し、適切な指示を受ける必要があった。しかし、低学年組はどうすればよいのだろうか。ウロウロと辺りを見回す後輩たちを見かねて避難を促しつつ、通りがかった講師や施設スタッフも一緒に行動させ、避難する際にばらばらにならないようにさせる。
一行の後ろにつく形で、講義棟エリアの北側にあるバンカーと中央棟に向かおうとしたとき。
ルイーゼから見て後方で、悲鳴があがった。
声のした方へ向くと、そこには奇妙な人型実体が立っていた。ケモノだった。
ルイーゼは、その近くで尻もちをつき怯えている悲鳴の主を引き摺り、ケモノから引き離し、後輩と近くにいた講師に任せる。
その間もケモノはふらふらとその場に揺れるだけだった。こちらの様子を窺っているのか、それとも動けないのか。
目の前の存在は、ルイーゼにとって、初めて見るタイプのケモノだった。
人型で二足歩行し、白く濁った皮膚は鉛のような鈍い光沢で、見るからにブヨブヨした触感だろうと想像できる。手足には長い爪が生えているが、足のものは歩行の邪魔になっているように見える。頭部にあたる部位は、形こそ人間の頭だが、口と思われる大きな穴が一つあるのみで、通常の生物のように脳などの器官があるとは思えない。総じて、奇妙で気持ちの悪い見た目。加えて、皮膚はところどころ爛れて腐り落ち、体液が滴ってもいる。
この状態では、それほどの脅威とは思えないが、ミシミシと音を立て体表が裂け、そこから新たに触手状のものが生えたり、手足が徐々に太く筋肉質になっていく様子が確認できる。時間を置くと、成長して手がつけられなくなる可能性もゼロではない。
ルイーゼは拳銃を抜くと、ケモノに向けて素早く全弾を撃ち放った。胸部を中心に着弾し、ケモノはよろよろと数歩、進んだあと、倒れた。
死んだようにも見えるが、微かに痙攣し、声のような音を発している。完全にトドメを刺そうにも、拳銃は予備の弾倉はないし、倒れているといっても不用意に近づくのは、未知の相手に対しリスクが大きすぎる。そもそも、相手の性質が不明の状況で発砲するのでさえ、本来は危険な行動だった。
そこへクラウディアが、ケースを背負い、散弾銃を手に駆けつけた。
倒れているケモノを見下ろすと、無言で散弾銃を向け、発砲。頭部から股下まで、順々に計四発を撃ち込んでいく。釘打ち機で板を留めるかのような、小気味よい念入りな所作。
もの言いたげなルイーゼを横目に、淡々と消費した分の弾薬を装填しなおす。それから、無線機と散弾銃、シェルホルダー付きベルトをルイーゼに手渡すと、背のケースを降ろした。一緒に持ってきた制服のジャケットを羽織る。
「ちょっと、それ」
「放送は聞いてたでしょ、急いで」
樹脂ケースから神器を取り出す。刃が外向きについた大鋏。一メートルほどのブレードは角度によっては青や紫にも見え、刃の中ほどからグリップにかけて睡蓮の花の彫刻が刻まれている。
それを不安そうにルイーゼは見ている。
「大丈夫だよ」クラウディアは自分とルイーゼに言い聞かせるように言った。彼女自身、自分でも驚くくらいに、いままでの人生で一番優しく穏やかな口調だった。
「わたしは、こっち。ルーちゃんは早く集合を」
「それなら、わたしも」
「ダメ。ルイーゼはこんなところで力を出すべきじゃない。無線と銃は渡したけど、それでもちゃんと、神器も持って、体勢を立て直すべき」
敵は外からやってくる、自分がここで食い止めれば、構内のバンカーへ人員は避難できるし、有力な聖女たちや首脳陣が体勢を整えられるうえ、彼女らの不必要な消耗も避けられる。無線で警備部の保安員と連絡も取れる。実動部隊が状況を把握して動き出すまでの時間稼ぎと情報収集の助けができればいい。クラウディアはそう考えた。
「でも」
「全部言わせないで。わたしが『聖女』として役に立てるのは、いまくらいしかないの」
「……わかった」
「うん、外周を回って、敵を倒して、逃げ遅れたり、街から逃げてきた人を助けるだけだから。すぐ、そっちに行くよ」
「こっちも、済んだらそっちに行くから」
互いに頷き合い、ルイーゼは駆けていった。
「さて、と」
クラウディアは建物へ逃げ込もうとする人々を縫って、彼らとは反対方向へ進んでいく。
叫び声や怒声、警報に混じり、引き摺るような音と水音が聞こえる。さきほど倒したケモノと同種の異形が群がり、人間だったモノを弄んでいた。
彼らにも予感や恐怖というものがあるのだろうか、クラウディアが近づくと頭部をもたげ、ギィギィと声をあげ始めた。怯えに似た感情を含んだ声音。
クラウディアは、下段に大鋏を構えると、一息に手近な一体に詰め、胸に突き入れた。刃はケモノの躰を貫き、それ自体が致命の一撃。しかし、これはただの剣による刺突ではなく、大鋏によるもの。次なる暴力がケモノに加わる。
ゆっくりと、鋏を開いていく。外向きの刃が腹を裂き、骨をへし折り、その肉を、内臓を、ボトボトと零れ落ちさせる。
ケモノはすでに絶命していたが、肺や胃にあたる臓器を圧迫されたことで、叫びともとれる音がその口から漏れた。
「あはっ」思わず、笑いが零れた。
大鋏を閉じ、大剣のように構え、次々とその場にいるケモノに斬りかかっていく。ケモノたちは為す術なく、その身が裂かれ、砕かれるのを待つしかできなかった。
自分の神器に触れるのは、およそ八ヶ月ぶりだった。
〈蒼き導きの誓花〉。
この光がわたしを導いてくれる。そんな安心感に高揚感、底知れぬ仄暗い不安感。そして飢餓感。
クラウディアは肉塊を見下ろしながら、真っ赤に染まった手を舐めた。
「あ、どうしよう。最悪」
マフラーが血で汚れたことに気付く。マフラーのみならず、ほぼ全身が返り血で赤黒く染まっているが、マフラーが汚れてしまったことがなによりショックだった。
腹いせなのか、地面に倒れるバラバラの死体を突き刺す。
周囲を見回すと、見える範囲には、敵も味方もいないようだった。あちこちから銃声が聞こえてくる。無線の報告と銃声の位置を比べ、警備員のいない場所をカバーすべきだろう、とクラウディアは考えた。
そこへ、近場から二連射の独特な銃声が聞こえてきた。銃声から、おそらく聖女が交戦しているものと思われる。警備員なら無線機を常時携帯しているからなんらかの報告があるはずだし、この銃声の銃は警備員の標準装備ではないからだった。
クラウディアは、死体に突き刺さった神器を引き抜き、走り出した。
聖女が二人、ケモノの群れから逃げながら、銃を撃っている。
クラウディアはその二人に見覚えがあった、クラウディアと同じ年に〝入学〟した聖女だ。名前は知らない。たぶん、あまり好きではないタイプの人たちだが、生き残る意思を見せる者を助けないわけにはいかない。
一人がつまずき転んだところに、ケモノが襲いかかる。そのタイミングで、割って入る形で斬りかかった。胴体を横薙ぎに、真っ二つ。
しかし、もう一人が襲われる一人を助けるべく撃った弾が、運悪くクラウディアに中ってしまっていた。弾は背から胸に抜け、射出口側の衣服が大きく裂けている。
「あ……」
撃たれたことに気付いたクラウディアが、裂けた部分をつまんでその下を覗いたときには、すでに傷は塞がっていた。
「ク、クラウディア――」
少女たちは、クラウディアを見るなり、怯えた表情で去っていった。
「ま、そうなるよね」
クラウディアは、ルイーゼとカレン以外の同期から快く思われていない。その原因は自分にあるのだが、それでもここまで怖がられると、どうでもいい相手とはいえ少し寂しく感じてしまう。
吸血鬼クラウディア。
彼女がそうあだ名され、一部から疎まれている所以は、彼女の神器と固有異能にあった。
彼女の神器〈蒼き導きの誓花〉は、対象の血を神器に吸わせる、または対象の血肉を適合者が摂取したり浴びることで、生命力を蓄積する機能を持つ。たとえ、致命傷を負ったとしても、充分な命の蓄えがあれば、即時回復できる。
そして、食べたものの経験や知識を得る、というのが彼女の固有異能。ケモノや人間、神器兵を食べることによって効果を発揮する。
彼女が、戦場へ立てないのは、神器が弱かったり、不具合があるからではない。
初出撃時に、ケモノと友軍の死体を損壊した――具体的には、食べた――ことで、その行動が問題視されたためだ。
それだけなら注意で済むはずだったが、彼女の精神診断の結果、大きな脆弱性が発見され、これが最も大きな理由になった。そして、廃棄される予定だったが、実験の被検体として生かされることになるとともに、実力は高かったために表向きは訓練の指導役の一人として、一線を退く形に落ち着いたというわけだ。
そして、ある意味では、クラウディアという名前すら、呪いの一つだったが、それは彼女の知るところではなかった。
◆
講義棟エリア、三号館南棟西側四階。
クラウディアは、踊り場からケモノの下半身を蹴落とした。外から微かに聞こえてくる銃声を除けば、音のしない静かな校舎内にはその音がイヤに響く。
階段を登りきった廊下に椅子や机でバリケードが構築されている。それもケモノによって半壊状態だった。クラウディアが来るのがもう少し遅かったなら突破されていただろう。
「あ、あの、ありがとうございます」声をかけられる。恐る恐るといった様子の声音。
「いえ、それより状況は?」バリケード側からは見えにくい壁の陰に隠れながら尋ねた。血塗れの姿を見せて不必要に怖がらせないため。
生存者の数や、負傷者はいないかを聞き出す。外の様子を尋ねられれば、それも隠さず答える。
「この建物は安全です。いまのところは」匂いを嗅ぎ、言った。
クラウディアは、この短期間で勘を取り戻してきていた。匂いでおおよその判別がつくようになった。いまでは、誰がケモノで誰がケモノでないか、がわかるまでになっていた。
しかし問題もあった。自分の鼻を信じるならば、すでに多くのケモノが構内で発生していることになるからだ。
結局は、自分が外周部に残って、食い止めようという行動は無意味に近いものだった。というのも、倒してきたケモノは、すべて市民や聖女、学校関係者だったからだ。食べたものの情報を得られるクラウディアならではの視点。
感染するケモノ。そうなるとバンカーも必ずしも安全とはいえなくなる。もちろん自分もだ。条件がわからない限り。
だから、「いまのところ」というのは、建物内にケモノが侵入するかもしれない、というだけでなく、バリケードの向こうでケモノが発生する可能性があるという意味合いもあった。
「こちら、ヴィジル68。三号館南に生存者。数は一二。軽傷者一。四階にバリケード。南棟はクリア。応援と確保をお願いします」バリケード内にも聞こえるように、少し大きめの声で報告を入れる。
「ティンバー11、三号南……ロア四。了……」
「教い……本か……交信途ぜ、部隊あ……。コード……BOBの可能性。ちゅ……よ」
無線に混じるノイズや音飛びが増えてきた。こんなことで直るはずもないと、わかってはいるが、トントンと端末を叩く。
「東……ゲート……、……つ」
「ま、いっか」
階段を降りながら、クラウディアはスンスンと鼻を鳴らした。敵の多い方向を嗅ぎ分け、そちらへ向かうことに決める。
「ふふふ~、ふふふん、ふ~」
鼻歌交じりに、足取りは軽く、飛び跳ねるように歩を進める。まるで、遊園地の次のアトラクションへ向かうように。
すでに彼女は、敵を倒すことに暗い悦びを感じ始めていた。
本来であれば、近場の生存者を優先するか、警備部の主要区画奪取に加わるべきで、そうした判断力も鈍りつつあった。
クラウディアは、たちこめる生と死の、血の匂いに酔っていた。




