記憶の方舟(2)
――式典当日。
緊張した面持ちのアネット。宿から出ていまに至るまでに頻繁にハンカチで手を拭いている。薄っすらと額にも汗が滲み、目も潤んでいる。
普段の仕事に比べれば命の危険はないものの、衆目のある場所での任務。その内容がほとんど立っているだけだとしても、経験の浅い彼女にとっては想像以上の不安や責任感、重圧を感じさせるものだった。前日の巡回で予行演習と下見を行ってはいるが、それが却って任務の現実感をアネットに飲み込ませていた。
さしものウルリカも明らかに緊張しているアネットの様子を見かねて、彼女の肩を叩いた。
アネットは跳び上がり震えた声をあげる。
「ひゃいっ、な、なにっ、どうかしましたか」
「もうすぐ本番の時間です。今日はよろしく頼みますね」
「は、はい、こちらこそお願いします。何事もなければいいんですが」
「ええ、何も起こらないのが普通です。とはいえ何事にも備えは必要。そのためのわたしたち。もっとも、わたしたちが必要になった段階ではもう手遅れに近い状況ですけれど」
「はい……」
「心配しなくても大丈夫です。わたしたちはわたしたちの仕事をすればいいだけですので。なに、昨日と同じです。さすがに買い食いはしちゃいけませんが。……いまならまだ何か飲み食いできますよ。お水がいいでしょうか」
ポーチから金属製の平たい小型水筒を取り出し、キャップを外してからアネットに差し出す。
「えっと、ソレ、お酒入れるやつですよね?」
「安心してください。入っているのは、ただの水ですから」
恐る恐る口をつける。すぐにごくごくと、音を立てて飲み干した。
「落ち着きましたか。これもどうぞ」
飴玉も手渡す。
「ありがとう、ございます。あ、でも、コレ全部飲んじゃって」
「構いませんよ。あなたの様子が朝からおかしかったので、あなたのために用意したものですから」
「そんな」
「本当はお酒を入れておく予定でしたが」小声で付け足す。
はは、と疲れたような、力が抜けたように口元を緩めるアネット。
「気を張りすぎるなとか、休まず真面目に真剣にやりなさいとかは言いません。でも、何も言わずに倒れるとかはやめてください。倒れたあなたを甲斐甲斐しく介抱するほどわたしは優しくありませんので」
アネットの襟を整えてあげるウルリカ。
「調子がよくないのなら休むのもいい選択です。選択肢というよりは休むべきですかね。休むべき時に休まないのは仕事をサボること以上に怠慢なことだと思います」
「すみません」
「仕事なんて、極端なことを言えば外から見て、やっているように見えればいいんですよ。今日なんてお行儀よくニコニコしてればいいんです。そういった意味ではあなたは何もしなくても構わないのですが――」
その言葉にアネットは目を伏せる。それを見て弁解するようにウルリカの声が少し高くなる。
「あ、邪魔だから何もするなってことではないですよ。あなたはそのままで可愛いですし、『聖女』っぽいってことです、はい」
「そんな……」
「無責任な物言いになってしまいますが、あなたは充分『聖女』ですよ。わたしよりもずっと」
可憐で健気な少女という大衆の求める「聖女」像の一つをアネットは満たしている。このような少女が異形の怪物と戦う使命を背負わされている、というのはわかりやすい物語になる。そしてその結末は悲劇が約束されている。
アネットはその役割に苦労もなく殉じることができる人物だと、ウルリカはここ数日で評価した。ある意味では才能があると言い換えできる。そうした〝才能〟のある人物が躓くのはウルリカにとっても気分のよいことではない。たとえ、それが憐憫の情を含んだものであったとしても。
小さく呼吸を整え、自分にも言い聞かせるように言う。
「でも、まあ少し気を引き締めていきましょう、ほどほどに」
「やっぱり、お姉さまだ……」アネットは周囲に聞こえないほど小さく噛みしめるように呟いた。
――――。
式典は不備なく進み、その間ウルリカとアネットは決められた巡回エリアを見回った。街の様子も目立った異常はないように見受けられる。
終戦記念式典が行われている間はつかの間の静けさがあったが、式典終盤あたりから街の賑わいが戻りつつある。今晩からが祭りのある意味での本番。市民や観光客の多くにとって、百年前の戦争は遠い歴史の物語にすぎない。自分がその時代には生きていない以上、百年前も千年前も遠い過去の出来事という点で大差ない。こうした記念日に正体不明の感傷や郷愁に浸り、自分自身や世界について考えを巡らせる一つの都合の合う機会程度の認識。
もう一、二時間もすれば任務は終わる。ウルリカも内心では今夜のことに意識を泳がせている。
さすがに任務中は、先輩の「聖女」であろうといつも以上に気を張っていた。
ウルリカは人前で〝いいひと〟でいるのには慣れていた。生まれるよりも前からそうだった気さえする。それでも、慣れているだけで、疲れるものは疲れる。街を歩き回り、市民たちは自分たちのことを大して気にもかけていないのだとしても、自分が「聖女」としてここにいる以上はそのように振る舞わなければならない。自分の隣にイメージどおりの可愛い「聖女」がいるとなればなおのこと。
もっとも前日までの行いは理想の聖女とは言い難いが、多少の奔放さやお転婆さも少女らしさの演出の一つ。
ウルリカは、小広場の向かいに建つ仕掛け時計を見た。もうすぐ二時。この時計は実際の時刻よりも何分か遅れた時刻を指していた。毎朝には調整されるが、昼過ぎには誰もが遅れているとわかるほどズレが大きくなる、このブロックのちょっとした名物時計。
広場にいる人々の多くが時計の仕掛けが動くのをジィと待っている。そのとき。
全身を揺さぶる音と地響き。
それとほぼ同時に雷鳴にも似た音が耳を貫く。
反射的に両手で耳を塞ぐアネット。
ウルリカは即座に音の方角を確かめた。土煙が上がっている。構造物の崩落によるもの、それも爆発物によるものだと判断。異常事態。
「モニターへ。何があっ――」
指令部へ呼びかけようとすると、通信機に強制連絡が入った。
『緊急事態発生。緊急事態発生。緊急事態発生。こちらモニター。南西部隔離壁が破壊され、対象Tが侵入。即応待機班が現場に急行中。現刻を以て制限を解除。各員は再武装し対象の排除行動に移れ。なお、爆破犯および工作員の存在が確認されているが、対象の対処に専念せよ。協定により対人戦闘は許可されない。繰り返す……』
「ど、どうしよう……」
「あなたは早くキャンプに向かいなさい。街にケモノが浸透する前に神器を」
「ウルリカさんは?」
そこへ地面を突き破ってケモノが跳び出してきた。足のないワーム型のケモノ。大きな口と鋭い牙。
「な――」
アネットが声をあげるよりも先に、ウルリカはケモノへ一瞬のうちに詰め、貫手を打ち込んだ。
叫びをあげるようにのたうつケモノ。
「先輩!」
「いいから早く!」
アネットが走っていくのを見届け、ケモノから腕を引き抜く。手には心臓と思しき臓器。ザラメ糖のような細かな結晶が疎らに表面に張りついている。
大量の血が降りかかるが、それにもかかわらずウルリカの手も服も一切汚れていない。まるで彼女を避けたかのように。
「こちらエクリプセ1。ポイントRN5‐1にて対象の地中からの侵入を確認」無線で連絡を入れる。
周囲に残っていた人間たちは、素手でケモノの心臓を抉り出したウルリカを恐怖の籠った目で見ていた。その異様さと残酷さ、凄惨さから目を逸らすこともできずに。
彼らの想像よりもウルリカという「聖女」はずっと人間離れしていた。
神器という超常の遺物が「聖女」の本質で、武器がなければ暴力装置として機能しないと彼らは考えていたのだろう。ましてや見た目一〇代後半の少女がバケモノを素手で殺せるなど思いもしないことだ。武器を取り上げてしまえば、自分たちと大差ない存在だと思っていた。
神器がなければ、神器兵は身体能力の高い人間でしかないのは事実だ。
しかし、何事にも特別は存在する。「聖女」は本人の固有異能と神器から成る複合兵器で、異能によってはそれだけで〝兵器〟として成立する者もいる。上級の「聖女」はそういったハズレ値を多く含んでいる。
「いまのところは一体だけですか……、でも時間の問題でしょうね」手元の心臓に目を移す。「にしても妙ですね、これ」
結晶の形成と質に違和感。
ウルリカは首を捻ったがすぐにケモノの心臓を無造作に放り捨て、辺りを見回すとツカツカと屋台の方へ歩いていった。
串つきワッフルを提供する屋台。呆然と立ち尽くす店員に声をかける。
「お姉さん、早く逃げたほうがいいですよ。避難場所はわかりますよね。でも、まだお店をやってくれるというのでしたら、これをくださいな」
店員の女性は、怯えながらもウルリカに商品を手渡し、代金はいらないと言い残し、避難していった。
「これでは巻き上げたみたいでイヤね」
そう言いながらもワッフルを口に運び、紙幣を屋台のテーブルの上に飛ばないように石で押さえて置き残した。
もぐもぐと悠長に咀嚼しながらも、周囲の様子を探るように耳を澄ます。
ふいに銃声。警備隊の装備とは異なる銃によるもの。この場には本来であれば存在しない奇妙な銃声。
その音の方向へウルリカは視線を動かした。彼女から見て左側、額の上に親指ほどの大きさの弾丸が浮かんでいた。ゆっくりと、浮かぶ弾丸に顔の正面を向ける。その間にもそれは旋転を続けている。
弾丸を指で弾く。
瞬間、弾頭は爆ぜ、破片が散弾のようにばら撒かれた。
硬質侵徹体と貫通能力を持つ破片、焼夷破片がウルリカを襲う。炸裂焼夷弾、あるいは徹甲焼夷榴弾による狙撃。基本的に対人用途では使われない弾薬。「学校」でも類似の火器が運用されており、軽装甲目標や〝資材の処理〟に使われている。
爆ぜる弾による銃撃を受けたウルリカは少し驚いたような様子を見せるだけで、傷はおろか煤で汚れることもなくその場に立っていた。
弾丸の飛んできた方向へ目を凝らし、素早く狙撃に適した場所を確認していく。開け放たれた窓と暗い室内に目が留まる。ウルリカの目は狙撃犯を捉えた。
「エクリプセ1、狙撃された。大口径の炸裂焼夷。WJのホテル最上階。やりましょうか?」
『それは許可できない』
『こちらドミノ3。何者かに狙撃を受けました。損害一。応援を要請します。敵の狙いは――。ほら、いい加減離れて。泣くのをやめなさい。……すみません、敵の狙いは我々のようです』
いくつかの班から被害が報告されていく。
『モニターより各員。所属部隊が敵性部隊と接触。ポイントを放棄、集結せよ。なお、協定により対人戦闘は許可できない』
「了解。神は我らと共に。――はぁ」溜息。「壁は壊され、ケモノが突然湧いてきたり、おまけに狙撃ですか。まったくどうしたことでしょうか」
ブツブツとぼやきながら、さきのケモノが跳び出してきた穴に近づき、覗き込んだ。
「それにしても、下からか。いくら地面を潜ってきたからといっても警戒網の目も掻い潜れるとは思えませんが。壁の基礎部分もあるでしょうし――。空間がある……。地下道、いや下水か」
降りる気にはならない。ケモノの出処は気になるが、調査は自分の仕事ではない。
周囲に妙な気配を感じる。気付けば無線も沈黙している。
「まあ、そうなりますよね」
両手を上げ、ゆっくりと振り返る。
拘束され涙目のアネット、四人の武装した人間が視界に入る。四人以外にも広場を取り囲むように何人かの襲撃者たち。
フルフェイスのヘルメットと腕や脚までカバーされた全身耐弾装備、自動小銃や散弾銃。市内の警備員よりも攻撃的な装備。
大人しく投降し指示に従えと言わんばかりに、筒先がウルリカへと向いている。
ウルリカは両手を上げたまま両膝を突き、受け入れる姿勢を見せた。
襲撃者たちの二人が彼女に近寄る。片方が手を後ろ手に縛り、それが済むと彼女を立たせた。もう一人は腕を伸ばしても手の届かない距離でウルリカへ意識を割いた待機姿勢。あっさり投降の意を見せたウルリカを警戒してか、慎重かつ念入りな動き。
男たちがウルリカに進むように促すと、
「あまり乱暴にはしないようにお願いしますね」掴みどころのない調子で、ウルリカは言った。
◆
ウルリカとアネットが連れていかれたのは、レンガ倉庫。
一階部分の窓はすべて鎧戸や木板で塞がれている。
長らく使われていないようで、床面には鉄骨の梁から剥がれ落ちた塗膜や土埃が積もり、天窓からの光線に照らされている場所には草花が根を張っている。
ザっと見た限り三〇人ほどの「聖女」や別の都市の神器兵が集められていた。みな拘束されている。その中には先日ウルリカに絡んできた三人組の金髪の少年の姿もあった。
人質以外には武装した襲撃者が九人。
七人が全身を硬質の防弾装備で身を包み、銃火器で武装しており、戦闘員といった様子。ヘルメットを含めた防弾装備は最新鋭のもので、小銃も一世代前のものだが全自動射撃が可能な軍用グレード。そういった装備の様子から大きな支援者がいることが窺える。
残る二人は恰好が異なっていた。一人は飛び抜けて大柄なガスマスクの男で、他の面々とは頭一つ以上大きい。もう一人は顔を晒しており、背に柄の長い剣を担いでいる。
内心で大きく息を吐き、どうしたものかと考えるウルリカ。
見たところ、人質として集められているのは一般人ではなく神器兵ばかり。しかし神器が目当てというわけでもなさそうだ。となると、交渉材料か、あるいは素体自体に目的があると考えられる。
もしかすると、ただの暴力的示威行動ではないのかもしれない。終戦記念式典の日を狙ったのは、〝そういう主張〟の下に行った襲撃だと思わせるためのブラフ的意味合いが強いと思える。だとすれば、多少面倒なことになりそうでもある。そこまで考えを巡らせてから、ウルリカが出した結論。
――暇、退屈。
このあと、自分たちがどうなろうと、襲撃者たちの真意がどうであろうと、拘束された自分たちの状況が動くのはしばらく経ってからのこと。
なら、少しばかり場をかき乱してみようか、と悪戯心が頭をもたげる。
周囲の様子を目と耳で探り、窺う。
ウルリカが座らされた場所の近くにいる武装犯がなにやら話している。
「しっかし、ほんとダンナの言うとおり、大人しく集まったもんだ」
「人間相手だと何もできないってのは本当だったんだな」
神器兵が人間には逆らえない、危害を加えることはできない、というのは厳密ではない。正しくは、対人に特化した訓練や経験を積んでいないのと、対人戦闘を仕事だと教えられていないために適切な行動をとれないといった形。人間は守るべき対象だという教育や、人間に対して危害を加えることへの緩い条件づけもされている。また、対人戦闘の結果に対する精神的な用意もほとんどできていない。
「こうしてみると可愛い子多いよな。男も結構美形多いし」
「逆らえないとは言うけどよ、動かない人形とはわけが違うだろ。下手に手を出して噛まれても知らないぞ」
彼らにウルリカが余所行きの声で呼びかける。
「あのー、ちょっといいですか」
「え、ちょっとウルリカ先輩。何する気ですか」アネットが小声で突っ込む。
声をかけられた武装犯は怪訝そうな目でウルリカを見たあと、ヘルメットのバイザーを下ろし彼女に近づいた。
「あのぉ、少しキツく縛られてしまって、痛いのでなんとかしてもらえませんか。お礼はしますので」上目遣いで身体をくねらす。
武装犯は、まごついたように辺りを見回す。
「おい、何やってる」
背に剣を担いだ武装犯が様子に気付き、声を投げた。
「あ、いや。コイツが縛り方がキツいって言って。どうしたらいいっすか」
「お前は檻に入った猛獣が狭いから出してくれと言ってきたら、言うとおりにするのか」
「しないっす」
「そいつはこっちに連れてこい。注意してな、そいつはそこら辺の犬猫とは違う。縛られていようが、武器がなかろうが危険だ」
「了解」
立たされ、連れられるウルリカ。人質たちの視線が一斉に彼女へ向く。その際、片方の目を瞑ってアネットへ合図をしてみせる。
ここまではウルリカの狙いどおり。
「足も縛っておけ」
指示を受けた武装犯が、新しいロープを取り出しウルリカの足首にそれをかける。
「縛るだけでいいんですか? 何を隠し持っているかわかりませんよ」ウルリカは余裕な態度を見せつけるように、揶揄うように、囁き気味に言った。「もっと強くしてもいいんですよ?」
「なんだコイツ」武装犯は少し困惑したように言った。頭のおかしい人間を前にしたかのような反応。
彼にしてみれば、キツいから緩めてほしいと呼びかけられたのに、もっと強くと言われどうすればいいのか、といったところ。
「こうすりゃあいいんだよ」
もたつく武装犯の横からガスマスクの大男が口を挟んだ。マスク越しでもはっきりと聞こえる声量。声をかけられた武装犯は一瞬竦んだ。大男の手には大柄な裁断鋏とナイフが握られている。
首にナイフを突きつけ、襟へ鋏を入れる。礼服の白いワンピースが、見る見るうちにただの布切れに変わっていく。ポーチやホルスターの革ベルトも裁たれ、腕に切れ端が残らないよう袖も切り開かれる。ウルリカより頭一つ以上背の高い大柄かつ筋骨隆々な見た目、声の大きさからは想像できないほど、器用で素早い仕事。
残ったインナーのカットソーも切り裂かれる。
下着姿にされたウルリカ。紫黒色の上下。
武装犯の何人かが「おお」と感嘆するように声をあげ、手を叩いた。
ウルリカは、ただ薄っすらと笑みを浮かべ、何事もないかのように立っている。
対し人質。すすり泣いたり目を閉じたりしている者もいるが、多くは下を向き地面を睨みつけるように見ることでただ時間が過ぎるのを待っている。
「ほう、ほお」
大男は腕を組んで頷いている。ガスマスクの向こう側の下卑た表情がありありと浮かぶ。
「あら、ヤりたいのなら、そう言えばいいのに」挑発するような声音。「でもいいんですか? わたしは構いませんが、この場にいる全員に見られながらでもできるような根性のある方には見えませんが。ふふ、立派なのは図体だけですか?」
後ろ手に縛られ、身に着けていたものをほとんど脱がされているとは思えない態度。
安い挑発に乗って手を上げる大男。
頬を打たれたウルリカ。表情を変えず、ただ男を見上げている。
「ほどほどにしてくれよ。生死は問わないとは言われているが、好き勝手していいということではないからな」リーダー格の男が呆れたように顔を背けて言った。
「ちょっと楽しむだけさ、コイツもそうみたいだしな」
大男はグローブを外し、ウルリカに向き直り、首から下を舐め回すように見る。ついと乱暴に胸をわしづかみ、こねくり回す。しばらく弄ぶと、今度はブラを正面から引きちぎり、放り投げた。
ウルリカの周囲をゆっくりと回りながら、腰や胸に指を這わせる。先ほどとは打って変わったねちっこい手つき。
顔色一つ変えず、声もあげないウルリカ。
一周すると、ウルリカの顎を指で持ち上げた。
「なにが『聖女』だ、人間兵器だ。さっきまでの威勢はどうした。喋ってみろよ」
「ヘタクソ。あなたモテないでしょ。マスクを脱いだらどうですか、確かめてあげましょうか。これで顔も悪かったらモテないのも当ぜ――」
ウルリカが言い終わらないうちに、大男は彼女を突き飛ばした。一瞬予想外というようにきょとんとするウルリカ。
ウルリカの身に着けていたものの中から拳銃を持ち出し、倒れた彼女に近づく。
男が馬乗りになり、ウルリカの首に左手をかけ、開いた口に拳銃の先をねじ込んだ。身体をくねらせるウルリカ。
「か、ぁ……」
しばらくし、男は身を起こし、ウルリカを持ち上げるように立たせた。
唾液を垂らし、顔を赤らめ、浅い呼吸のウルリカ。
「いい面になったじゃねぇか」
「……つまらない趣味してますね」
「言うじゃねえか」平静を装い続けるウルリカに苛立っている。「じゃあ、別のヤツを選ぶとするか」
「それはダメ」
急に真面目な口調で反応したウルリカを見て、鼻から息を漏らす大男。ガスマスクの奥で、大きく顔を歪めているのが透けて見えるような態度。
「ほお、じゃあどうすればいいか、わかるよなぁ?」
拳銃が下着越しに押しつけられる。
吐息が漏れる。
小さく頷くウルリカ。目に涙が溜まっている。
大男は拳銃を腰のベルトに差すと、またウルリカの身体を触り始めた。
執拗に、より直接的に。
男の手が左胸の傷痕をなぞる。俄かにウルリカが顔を歪める。それに気付いたのか、重点的にそこに触れ続ける。
「やめ、ろ」嫌悪感に満ちた声音。これだけは本音。獣のような目で男を見上げる。
跳びついて喉笛を噛み切らんばかりの殺気が漏れる。
大男の手が止まった。自分が猛獣の気まぐれで触らせてもらっていることに俄かに気付いた。とんでもない女に手を出してしまったのではないかと、頭に悔いが浮かびかける。
「あら、女の子にやめろって言われて、本当にやめるなんてちっちゃいのね」男にしか聞こえほどの小声で囁いた。
「このクソ女が」耳打ち。
再び、手が動き出す。
嫌悪感溢れる表情を作って応えるウルリカ。
手が下へと移動していく。
下着の中に入る。かき分ける。
「やだっ」声をあげる。
力なく、足を閉じようとする。阻まれる。
弄る手の力が強くなる。
「っん、やっ」
「嫌なら抵抗してみろよ。ああそうだった、聖女サマは人間様には手ェ出せないようにできてんだったよなぁ!」
吹っ切れたように声を張る大男。
「やめ……て」
「やめろっていう割にはよ、誘うような声出しやがってよ。慣れてんなぁ、おい」
二人だけで妙な盛り上がり。
観衆の武装犯たちも手を叩いて歓声のような声をあげている。
リーダー格の男は茶番に背を向けている。彼は自分たちがウルリカの相手をさせられていると勘づいていた。人質側に主導権を半分握られているのは不都合ではあるが、想定していた〝暇つぶし〟の方法の中では比較的平和に事が済んでいる。そうした意味では、この頭のおかしい人質には感謝していた。
人質のおよそ半数ほどもウルリカの意図に気付いていた。気付いたところで、彼らには、ただ状況を眺めたり床を睨みつけ、いつ来るかわからない助けを待つことしかできずにいた。
アネットもウルリカが時間稼ぎをしていることを察してはいるが、この状況は精神の健康にとってあまりよいものではなかった。拘束を解こうと、力を込めたり手足や身体を捻って隙間を作ろうとささやかな抵抗を試み続けている。この場の意識がウルリカに向いているいまならば、多少動いても気付かれないだろうと。拘束から逃れた後のことも考えずに。
大男の手が下着にかかる。
「それだけはお願い、やっ」強く抵抗。
場に緊張が走る。
そんな中。
「や、やめろっ!」
人質の列から声があがった。少年の声。
武装犯らが一斉に声のした方を向く。声の主は視線に耐えきれずよろよろと立ち上がった。
金髪の少年、アロイス。ウルリカに絡んできたルクシュテルン校の生徒。
「ち、余計なことを……」小声で毒づくウルリカ。
自分が彼らの遊び道具になっていれば、誰も大きな被害を受けずこの場を凌ぐことができる。「異能」によって、彼らにどんなにいたぶられようと傷を負うことのない自分が耐えていれば、救援までの時間稼ぎになる。そうウルリカは考えていた。
誤算があるとすれば、彼女の意図が人質全員に伝わらなかったことと、堂に入った演技が人質の正義感を煽ってしまったことだった。
大男もウルリカに弄ばれていることは百も承知だった。それも彼の怒りを買う類の行動ではあったが、思った以上に楽しんでもいた。そのお楽しみに水を差されたことは、どうしようもなく癇に障った。
「男は別に要らねぇって話だったよな」身体を揺らしながら大男は言った。
返答を口にするのも面倒といった様子で頷くリーダー。
大男は、ふん、と鼻を鳴らし、人質に近い位置に立つ仲間にアロイスを連れてくるように指示。
「好きにしろ。だが、責任は取れよ」
「わかってるって」
アロイスは布を噛まされたうえで、引き摺られるように椅子に座らされ、さらに縄で縛り留められた。
短い間、抵抗し縛めから逃れようとしたが、すぐに諦めたのかぐったりと項垂れた。力ない目で、ウルリカを見ている。
それを見て、ウルリカは心の中で溜息と悪態を吐きそうになった。
しかし、こうなってしまった以上、何もしないわけにもいかない。このままでは襲撃犯と戯れた挙句、余所の人員を目の前で見殺しにしたという誹りを免れない。最悪はイキり散らして仲間を売った尻軽女などと侮蔑されかねない。
「これから起こることをあなたは見なかった。いいですね?」
ウルリカが目配せし、小さく呟いた。その言葉が聞こえてか否か、アロイスはわずかに顔を振った。
「……憐れみたまえ」
ぶつぶつと、この場にいる誰もが知らない言語で呟き始めるウルリカ。
「祓いたまえ、清めたまえ――」
それに構わず、アロイスの首を落とそうと大男が大鉈を振り上げる。
「お仲間に祈りでも捧げようってか。薄情なんだか、信心深いんだか、壊れちまってるのか、わからねえ女だな」武装犯の一人が呟いた。
リーダー格の男は、ウルリカの呪文を聞き、何か考えているのか顎を触り軽く首を傾げている。
彼女の顔を、全身を見回す。
違和感。
目立った汚れも傷もない。頬を叩かれ、床にも転がされたはず。
謎の詠唱が、東方の古い言語に似ていると思い至る。
「朝の御霧、夕の御霧を、朝風夕風の吹き払うことの如く――」
背後の死の気配にアロイスは思わず目を瞑った。
振り下ろそう、というとき。
「おい待て、その女を黙らせ――」
ハッとした様子でリーダー格の男が口を開き、ウルリカに詰め寄ろうと手を伸ばした。
それとほぼ同時に、振り上げられた大鉈と大男の頭が砕け飛んだ。




