52話 「それぞれの思い」
業火の球が発火する瞬間、キュイスは悪寒を感じ取った。
(なんだこれは)
窮鼠猫を噛む。
戦闘力、しいては魔術戦においては圧倒的に自分が優勢だ。
そう思っていた。
しかし眼前に小さな火花が迸ったとき、死神が自分の肩に手をかけたことを察知してしまった。
(詠唱破棄?)
違う。
なにかを言った。
しかしそれがなんの言語だったのかはわからない。
(新しい詠唱法でも生み出したのか)
魔力に意志を充填するための言霊。
自己暗示に近いとも言われるが、詠唱は言ってしまえば魔力という得体のしれないものに実体を与える技術の一つに過ぎない。
魔術そのものにいまだ未知の部分が多いからこそ、その技術にも発展の余地はいくらでもある。
(ダメだ、考えるのはあとだ)
すぐに防護魔術を発動させる。
(間に合え――)
しかし土の壁が自分を完全に包み込む前に、宙に現れた火球が明滅した。
「くそッ!!」
炸裂する。
「こんなところで死んでたまるか!!」
――私はまだ、世界が滅びる瞬間を見ていない。
◆◆◆
「いい加減にしてよね。君たちはいつでも僕に無理ばかりさせるんだから」
これは幻聴だろうか。
キュイスは反射的に閉じていた目を再び開けた。
「マーレ君?」
「そうだよ、マーレだよ」
広がる景色が切り替わっている。
高所。
「木の……上?」
大きな大樹の半ば。
人が一人寝れるくらいの場所に、寝転がっていた。
「ああ、さっき動けるようになったばかりなのに、またあとで『止まる』はめになる」
目の前に肩を落とす栗色の髪の少年がいる。
「なるほど」
なるほど、なるほど。
どうやら自分は紙一重で生き残ったらしい。
現状を理解したとき、不意に腹の底から笑いたくなった。
否、笑った。
「あっはっはっは!」
「あれ? どこか壊れた? 間にあったと思ったんだけどなぁ……」
「そうですかそうですか、なるほど、マーレ君には一本取られた」
「一本取った覚えはないけど」
「ああいえ、こちらの話です。それにしても、近くにいたなら加勢して欲しかったのですがね」
「馬鹿を言わないでくれ。君だって僕の能力の欠点は知っているだろう。君を時術で転移させることだってギリギリだったのに」
栗色の髪の少年はため息をついた。
「というか、ヨハンは生きてるの?」
「ええ、もちろん。私の優秀な手駒がそんな簡単に壊れるわけないじゃないですか」
キュイスは隣の枝に同じく転移させられて寝転がっているヨハンを見た。
まだ目を覚ましてはいないが、息はしている。
「ふーん。……まあ、君たちの関係をとやかく言うつもりないけど、あんまりヨハンを道具として見ない方がいいよ」
少年――マーレは栗色のくせ毛を人差し指でくるくると巻きながらボーイソプラノの声で忠告した。
キュイスはその忠告に微笑で応える。
「まあいいや。たぶん僕はあと十分くらいで止まるから、これからどうするにしても担いで行って欲しいんだけど」
「そうですね。それは構いませんよ」
「ちなみにこれからどうするの?」
キュイスはそこで少し考える素振りを見せる。
「……とりあえずはマズールに帰りましょうかね。少し遠出が過ぎました」
「そっか。ヨハンもこの状態だし、今回はその方がいいかもね」
「ハルメント様にも伝書を送っておきましょう」
「そのへんの細かいことも全部キュイスに任せるよ。じゃ、あとはよろしく」
「任されました、命の恩人さん」
「なんか皮肉に聞こえるなぁ」
そう言ってマーレは目を閉じた。
「生きているなら、また機会はあるでしょう」
動く者がいなくなった気の上で、キュイスはつぶやく。
「次こそ、必ず」
エスクードの息の根を、止めて見せる。
◆◆◆
見つからない。
見つからない。
いったいどこに行ってしまったんだ。
「はあ……はあ……」
ユーリの心臓は今にも不安で押しつぶされそうだった。
辺りをくまなく探すがリリアーヌは見つからない。
――くそう。
相手方にいる奇特な能力者を呪った。
「はあ……はあ……」
最初にユーリの異変に気付いたのはイシュメルだった。
「ユーリ?」
あたりを休まず駆け回ってリリアーヌを探しているが、ユーリは普段、この程度では息を上げない。
「くそ……」
重そうな足取りでひたすらに前へ歩くその姿は痛々しく、イシュメルはとっさにユーリの肩を支えた。
「いない……いない……」
この体調不良は肉体的な要因から来るものではない。
イシュメルは判断する。
――ユーリの精神状態が不安定過ぎる。
この状態に対する特効薬は知っている。
けれどそれはすぐには手に入らない。
――しかたない。
ゆえにイシュメルは決断した。
「ゼクシオン、手は出さないでね」
イシュメルはユーリに見えないように手を瞬時に氷の魔術で覆った。
そして――
「っ――」
その氷の手刀でユーリの首の後ろを打つ。
ゼクシオンによる防御もなく、氷の手刀はすんなりとユーリの意識を奪った。
アガサとメイレンが一様に愕然とする中、イシュメルはユーリの体を背負う。
「起きて過剰な気力を使うよりは眠っていた方が良い。……このままでは埒が明かない。いったんヴェールに戻ろう」
ユーリを自分の馬に乗せると、イシュメルは言った。
「わかった」
「御意」
こうすることしか出来ない自分が憎らしかった。
イシュメルは手綱を握りながら、自分に悪態をついた。
◆◆◆
(逃げ……きったか?)
どれだけの距離を走り抜けただろうか。
背後からの気配がないもので、ケーネは立ち止まって呼吸を整えつつ、ようやく後ろを振り向いた。
見えるのは道についた自分の足跡と、両脇に茂っている無数の木々。
十数分そこで後方の様子を窺ってみるが、あの敵が追ってくる様子はない。
「はあ……まったく最初から重労働だ」
思わず愚痴をこぼしてしまう。
自分から首を突っ込んだことではあるが、なんとも理不尽だ。
半自動的に決められた任務が、おそらく今年最高の難度と危険度を孕んでいたのだから。
ケーネはリリアーヌを脇の草むらにそっと寝かせる。
それから自分も倒れるように地面に座り込んだ。
「馬は……とっくに逃げてるか。はてさて、ヴェールまであとどれくらい歩けばいいのだろうか」
そういえば、とケーネは自分の手のひらを見つめた。
自分が発動した魔術について思い返したからだった。
(夢中だったが、わりに大変なことをしてしまった気がする)
魔力はからっぽだ。
あれだけの魔術を発動させたのだから当然だと思うが、問題はその過程にある。
(意味のない言葉……しかしたしかに詠唱の役割を果たした)
本来であればもっと長い詠唱を必要とするような大魔術。
しかしそれを無理やりに短縮した。
代替、あるいはまったく別の方式。
(自分でもよくわからない)
「まあ、あとで考えればいい」
ひとまず危難は去った。
「エマはもうエスクードに到着しているだろうか」
ふと、別個にエスクードへ向かっている伴侶に想いを馳せる。
「エマってだぁれ?」
「うぉうッ!」
そのときだった。
隣で気絶していたはずのリリアーヌが目を開け、体を起こす。
きょとんとしているが、それでもなお美しさは際立っていた。
「こ、これはリリアーヌ様、お目覚めのようでなによりです」
「……様?」
なんと呼べばいいのだろうか。
実際のところ、リリアーヌにはエスクードにおける地位がない。
だがユーリに最も寵愛されていることは確かで、しかし――妃ではない。
(なにを悩んでいる、ケーネ。今はリリアーヌ様に現状を報告するのが先だ)
「私はユーリ様の臣下です。ですので、一応敬称を略さずに呼ばせて頂きます。――リリアーヌ様、あなたはご自分が曲者に攫われたことを覚えていらっしゃいますか?」
「んー………あっ!」
と、短い声を出して周りをきょろきょろと見回すリリアーヌ。
「大丈夫です、もう追っては来ません」
「そうなの!? もしかしてあなたが助けてくれたの?」
「助ける、というほど格好のいいものではありませんでしたが、まあ、敵からあなたを連れて逃げることはできました」
「ありがとう!」
「うぉうっ」
愛らしい笑みを浮かべて抱きついて来るリリアーヌを、ケーネは焦った様子で受け止める。
長い金髪が頬に当たってくすぐったい。
(これは殺人的だ)
愛らしいという言葉はこの娘のためにあるのだろうと思った。
「お、落ち着いてください、リリアーヌ様」
「あ、ごめん……」
「い、いえ……ゴホン」
どうも調子が狂う。
明確な地位がないのと、少女であることが、どうにも邪魔になっていつもの調子で言葉が出てこない。
ケーネは無礼と思いつつ、一度大きく咳払いをして襟を正した。
「あ、名前聞いてなかったね」
「ケーネ・ヴァスカンドと申します」
「ケーネ?」
「一度、マズール王国でお目見えしました」
「あ!」
どうやら思い出したようだ。
渋い顔でもされるのかと思ったが――
「そっか! あのときの人! 今度は私を助けてくれたんだね」
彼女は笑った。
(聡明な人だ)
なぜだか強く、そう思った。
「あ、ケーネさん。ユーリたちは?」
と、油断していたところで一気に話題が負の方向へと飛ぶ。
ケーネはどう答えたものかと思った。
(まだ少女だ)
彼女にとってユーリという存在がどういう位置にあるのかはわからないが、今までずっと一緒にいたくらいである。
はぐれた、と伝えただけで動揺はするかもしれない。
「もしかして、はぐれたの?」
そう思っていたら確信を突かれた。
ケーネは咄嗟にうなずくことしか出来なかった。
「……そっか!」
しかし彼女は笑った。
その笑顔に、ケーネは違和感を覚えた。
(なんだ……?)
当初の予想が裏切られたことに対するあてつけではない。
率直な感想だ。
(なぜ、悲しまない?)
いや、悲しんでいるのか?
それにしてもおかしい。
微塵たりともそう思わせない笑顔が明らかに異質だ。
そう考えた瞬間、ケーネはリリアーヌの心の背景を半ば本能的に察知してしまった。
(この娘は……悲しみを隠すことに慣れてしまっている)
なんと切なく、なんと恐ろしいことか。
あってはならない。
正確にはあってほしくない。
こんなにも即座に悲しみを隠せてしまう。
いったいどのくらいの間、彼女はそうして生きてきたのだろうか。
そしてなぜ、そんな生き方をしなければならなかったのか。
「……泣かないのですね」
ついケーネはそんなことを口にしてしまった。
「泣いたらいけないの。少しでもユーリの負担を減らしてあげなきゃ」
(ああ……やはり)
健気。
どこまでも健気なゆえの――
「っ」
ケーネは自分の頬から落ちた雫を見て、そのときようやく自分が泣いていることに気づいた。
そして衝動的に、リリアーヌを抱きしめた。
「あれ? どうしたの?」
愛らしい笑みを浮かべて困ったように言うリリアーヌ。
「あなたはもう少し自分のために泣いていい」
「……ふふ、なんだか難しいね」
◆◆◆
泣いてはいけない。
涙を流してはいけない。
ユーリが心配してしまうから――
◆◆◆