44話 「束の間の休息」
エンピオネがケーネ・ヴァスカンドとの面会を許可したのは、まだユーリがヴェール皇国に居たときに話を聞いたことがあったからだった。
『面白い人材だ。若く、多方面の才覚に優れ、なにより人柄がいい。俺が知る中で彼は五本指に入る根っからの善人だ。数々の戦に加担していながら、その狂気に飲まれず、答えの出ない矛盾と常に戦っている。彼の矜持は一目置くに足る』
エンピオネは謁見の間ではなく客室にケーネを呼び、そして相対した。
「お初にお目にかかります、エンピオネ陛下」
エンピオネはケーネと相対して、なるほど、と心の中で思った。
好成年と呼ぶにふさわしい相貌に声色。
そして強烈な意志を秘めた鋭い目。
「掛けてくれ。事は性急に動かしたいが、それで正確さを失っては困る。今はゆっくりと話すことにしよう」
エンピオネはケーネに座るよう勧めると、自らも早々に椅子に座った。
「わらわから先に訊ねてもいいか」
「お心のままに」
「うむ。ケーネ、と言ったか。……いや、あたかも名を聞くのが初めてのような物言いはやめよう。実を言うとわらわはお主のことをユーリから聞いておる」
ケーネはその言葉を聞いて少し目を丸くした。
まさかあの亡国の末裔が自分の噂をしているなど思わなかった。
「端的に訊く。なぜここにいる?」
ケーネの身分はマズール王国の騎士団長。マズールの軍事を司っていた男だ。
マズール王が死んだ今、そんな要職にいる男が国を離れている状況はそもそもがおかしい。
「私は、マズールから離反しました」
ケーネはエンピオネの問いに端的に答えた。
灰色の短髪は微動だにしない。
自分の言葉に覚悟をもっているからこその不動だと、エンピオネは気づいた。
「マズール王が死んだという話は知っているか?」
「……ええ。私が言えた義理ではないですが、残念です。あの方は『商国』の王としては立派でした。特に商才に関してはマズールでも五本指に入るほどでしょう。――しかし、マズール王は軍事的才覚に関しては平民同然でした」
「そうかもしれぬな」
エンピオネが重くうなずく。
「幼い頃、私には夢がありました。母国の兵士たちや、無辜の民たちを、これ以上無駄に死なせないために騎士団長になって、このつたない軍策を止めさせようと。しかし、いざ騎士団長にまで上り詰めたとき、現実を思い知らされました。マズール王国において騎士団長は王の傀儡で、そして王は――もっと大きな組織の傀儡に過ぎないのだと」
ケーネは思い出す。
マズール騎士の一人が、とある村で老婆を切ってしまったことを。
あの暴虐にはマズール王の独断が絡んでいた。
のちのちわかったことだが、騎士の中には特別に王の息が掛かった者がいたのだ。
どれだけ自分が厳しく指導したところで、あの暴虐的な征服と命の略奪は行われた。
「私は、形ばかりの騎士団長だったのです。なんの罪もなかった村人が、私の力が足りないせいで死んだ」
「その村人はお前の立場からすれば『敵』だったのだろう? マズールと、エスクードだ」
「それでも、あの命は摘まれるべきものではなかった。あの老婆は兵士ではない。逆らってもいない。殺される理由などなかった」
「ユーリがお前を矛盾を抱えた聖人と言いたくなる気持ちが今わかったよ」
エンピオネは困ったふうに笑った。
その笑みにはわずかに慈しむような色が混じっていた。
「私は軍人です。戦争の中で生きてきました。だからこそ、戦そのものを否定はしません。しかし、たとえそれが立場上敵対する者のものであっても――命だけは、無駄に散らされるべきではないと思います」
「マズールでは、お前のその信念を実現することができなかったか」
「私は、おそらくヴァンガード協定連合以上に、ある意味で悪辣としている人間でしょう。己の中の矛盾のために、国を捨てたのですから」
「その信念を実現させてくれる場所を求めたか。馬鹿だな、お前も。この世界を生きるのには不便な性質だ」
しかし、エンピオネはなぜユーリがこの男を好いたのかわかった気がした。
「……ユーリは、お前のその矜持を羨ましく思ったのだろうな」
「え?」
「いや、なんでもない。――話を戻そう。ケーネ、お前はこれからどうするつもりだ」
「ユーリ様を追います」
エンピオネはその答えに目を丸くした。
「その言い草だと――」
「はい、今度はあの方に仕えようと思っています。恐縮ながら、あの方が私に興味を示したように、私もあの方に興味がある。許されるのであれば、あの方のもとでもう一度私の矜持を追おうと思います」
「愚直だな。おそろしく愚直だ。お前はこの世界一般の国家というものには属さない方がいいのかもしれん。その愚直な聖人思想は、争いの絶えないこの世界に見合わん」
「そうかもしれません」
「それでも、その矜持を追うには国家に属するのがもっとも手っ取り早いか。戦の中で無駄に流れる血を止めようなど、個人ではどうしようもないものな」
エンピオネはわずかに沈黙した。
そしてなにかを決断したようにうなずく。
「わかった。好きにするといい。これ以上はユーリの判断に委ねる」
「恩に着ます」
「馬をやる。ユーリに仕えるつもりがあるというのなら、ユーリに伝えるべきこともわかるな?」
「ええ」
「ならば行け。その身でもう一度この戦乱の世界を駆けるがいい。いつかお前の矛盾が解消されることを祈っている」
ケーネが深く頭を垂れた。
◆◆◆
ユーリたちはサベジの隠れ家を出たあと、行くあてを決めていなかったので近場の村へ立ちよった。
ナレリアからの密偵はあれから姿を見せていない。
「清々しい村だな」
ユーリが村の景色を眺めながら言った。
田舎と呼ぶのがふさわしいかもしれない。
緑に溢れるその村は休息を貪るにはうってつけの場所だった。
「ユーリ! 村を見て回ろうよ!」
「ああ、いいよ」
適当な宿を取って部屋の中で荷物を下ろすと、リリアーヌが目を輝かせて言った。
ユーリはそれを快く承諾し、イシュメルに目配せをする。
イシュメルは笑顔で一度うなずき、今度はアガサに声をかけた。
「僕たちもそのへんを散策してみようか、アガサ」
「そうだな」
最近はなにかと慌ただしかった。
イシュメルとアガサは二人きりになることが少なく、またユーリもリリアーヌの相手をしてやれる時間があまりなかった。
丁度いい機会だ。
四人はそれぞれ二人組で別行動することにした。
◆◆◆
リリアーヌはユーリに買ってもらった帽子を被って、村から少し離れた場所にある森の中を走り回った。
日光が木々の隙間から燦然と降り注いでいる。
ユーリはその森の中で、イシュメルと走り回った幼少のころを思い出した。
「リリィ、あの大木まで競争しようか」
「いいよ! 勝った方がなんでも言うことを聞くって条件で!」
「言ったな」
「言ったよ!」
瞬間、ユーリもまた走り出す。
剣を握らず、殺意も持たず、暗い過去も背負わずに。――ただ無心で。無邪気に。
銀の髪と金の髪が新緑の中を舞った。
◆◆◆
「アガサ?」
「ん?」
「キスしていい?」
「あっ!?」
ユーリたちのいる森とは反対側の森で、イシュメルは微笑を浮かべながらアガサに言った。
対するアガサはイシュメルの唐突な提案におろおろと慌てふためく。
「ダメかい?」
「だ、ダメとは言ってないがいきなりすぎやしないか!」
「僕はせっかちなんだよ」
「少しは雰囲気とかをだな……」
ごにょごにょと語尾を濁らせるアガサを見て、イシュメルは「じゃあもう少ししてからにしようかな」とわざとらしく退いてみせる。
その様子を見たアガサは、少し安心したような、それでいて少し残念そうな顔をした。
「アガサ、一つ訊くけど」
すると、近場の木陰に座り込みながらイシュメルが言った。
「後悔はしていない?」
「なににだ?」
「僕に、ついてきたことに」
アガサは心底驚いたような表情を浮かべた。
イシュメルの隣に同じく座り込み、ややあってから空を仰ぐ。
清々しいほどに真っ青な空が目に映った。
「後悔する権利なんて、私にはない」
「そんなこと……」
「いや、悪かった、ちょっと意地の悪い言い方をしたな。――あたしは後悔なんてしてないぞ。あたしはお前に拾われて幸福だ」
「本当に?」
「くどいぞ、イシュメル」
「あ、今の言い方ユーリに似てたね」
イシュメルは心底安心したように笑った。
それから彼女のことが急に今まで以上に愛しくなって、その褐色の手を握る。
アガサは頬を染めながらもその手を握り返した。
「ユーリ……か。思えばあたしは随分と不似合いな境遇に身を置くことになっているなぁ」
「そうかい?」
「生まれたときからユーリと同等の立場にいるお前にはわからないさ」
「そんなものなのかな」
「ああ。……今の境遇を振り返ると、少し、怖くなるときがある」
急にアガサは声のトーンを落として言った。
「このまま順調に旅が進んで、ユーリが正式にエスクードの玉座に舞い戻ったとする。イシュメル、お前はユーリの傍にいなくてはならない存在だ。あたしはそう思っている。たぶん他の者たちもそう思うだろう」
「買いかぶりだよ」
「いや、本当のことだ。たぶんあのベルマールって人の代わりに王国宰相にでもなるんじゃないかな」
「宰相にはベルマールさんがいる。あの人以上に王の補佐としての能力が高い人はいない」
「でも、たぶんあの人は宰相を引退するぞ」
アガサの声は力強かった。
そのことになんの疑問も持っていないというほどの。
「まさか」
「周りの評価がどうであれ、たぶんあの人はそうする。あたしは初めて会ったときにそう思った。あの人は――無理をしているんだ」
なんとなく、イシュメルにもアガサの言わんとしていることがわかった。
「たぶん、先王と共に逝けなかったことを悔いている。無論、あたしの直感でしかないと言われればそのとおりだが」
イシュメルはアガサの思惑に対して小さくうなずく。
言われてみればそうかもしれないと、今さらながらに納得が腑に落ちた。
「そうなると跡を継ぐのはイシュメル、お前だ」
「僕はエルフだ。純粋なエスクード人じゃない」
「そんなことは関係ない。ユーリは既存の価値観を破壊するよ。エルフだから要職から外すなんてこと、まずしないだろう」
「なにを言っても君は引き下がりそうにないね。時として君はとても頑固だ」
イシュメルは困ったふうな笑みを浮かべて、小さくため息をついた。
「それで、リリアーヌはきっとユーリの傍を離れようとしないだろう」
ふと話題がリリアーヌに移る。
「それはどういう理由で?」
「お前があたしの手を握るのと同じ理由で、だ」
「――なるほど」
イシュメルはまた困った笑みを見せた。
「それで、最後にあたしだ。あたしは――」
アガサが再び空を見上げ、そのままぼうっと視線を漂わせながら言った。
「どこにいればいいのだろうか。お前たちがエスクードに戻ったとき、あたしの居場所があるのか。……ときどき不安になる。あたしはお前たちと共にいていいのか」
アガサの口からそんな言葉がこぼれた瞬間、イシュメルは黙って彼女の手を握る手に力を込めた。
「君は僕の隣にいればいい。僕の隣が君の居場所だ。たとえどんな状況にあっても、君の帰る場所はここにある。だから、心配しなくていいさ。それにユーリとて、君をむげにはしないよ」
「そんなもんかね」
「そんなもんさ。僕だってリリアーヌの次にユーリと長く付き合っているんだ。それくらいわかる。――大丈夫、君は彼に必要とされているから」
イシュメルにそう言われ、アガサは照れたように顔をうつむけた。
その、次の瞬間。
イシュメルがアガサの頬に手を添え――
「――」
唇を重ねた。
それからはなにも言わず、ただ穏やかな時が過ぎるのを満喫した。
◆◆◆
夕方頃、先に宿に帰ったイシュメルとアガサはユーリたちの帰りを待った。
ほどなくして二人が宿に姿を現す。
ユーリがリリアーヌを肩車した状態で。
リリアーヌは満面の笑みで。
ユーリは少し悔しそうな、それでいて少し嬉しそうな顔をしていた。
「なにかあったのかい?」
「ユーリに勝った!」
「なにで?」
「駆けっこ!」
イシュメルは目を丸くしてユーリに問いかけた。
「ホントに負けたの?」
「うるさい」
「あ、負けたんだね!!」
イシュメルはわざとらしく声を張り上げた。
対するユーリは恥ずかしそうに顔をうつむける。
「まさかあんな近道があるなんて思わなかったさ……。森じゃなかったら勝ってた」
「ひどい負けず嫌いさだ。それに、森の中のエルフを舐めちゃダメだよ」
「わかってるよ」
と、そうやって四人が雑談している最中、ふいに部屋の扉が開いた。
ユーリは即座に身構えたが、姿を現したのが見覚えのある人物だったことに気づいてすぐに力を抜く。
それから今度は悪戯気な笑みを浮かべた。
「ハイゼルの指示か?」
扉の向こうから姿を現したのは、可愛らしい普段着を着こなした〈メイレン〉だった。
黒い髪の毛先を指先で落ち着きなさげにいじる彼女は、もじもじと恥ずかしそうに顔をうつむける。
「似合うじゃないか」
「っ! だ、黙れ! 装束だと目立つからとハイゼル様が……!!」
普通の服を着るのが苦手なのか、メイレンは終始恥ずかしそうにしていた。
「それで、なにか言いたいことがあるようだが?」
「お、お前ら! いきなり二手に分かれるのはやめろ! どっちを追っていいかわからなくなる! ハイゼル様から護衛をしろとの命を受けたからしかたなく見ててやるのに!」
なるほど、とユーリはにやにや笑いを浮かべながらうなずいた。
すると、突然アガサが声を張り上げる。
「おい、メイレン!」
「えぅッ!?」
「お前あたしたちが二手に分かれたときどっちを追った!?」
鬼気迫る様相にメイレンは気圧され、微妙にどもりながら答える。
「…………も、もちろん陛下の方だ」
ユーリとリリアーヌはアガサの様子を見て首をかしげている。
唯一アガサが慌てる理由に気づいていたイシュメルは、一人けらけらと笑っていた。
「本当だな!? 絶対だな!?」
「お、ぉぉぅ、ほ、本当だ」
「そうか……良かった」
アガサはようやくほっとして椅子に座りなおした。
「と、ともかくだな。一応私がいることにも考えを巡らせておいてくれ」
「ああ、わかったよ」
「では、私は別室に……」
「メイちゃんもこっちの部屋にくればいいのに?」
リリアーヌが心底疑問といった表情でメイレンに言った。
「い、いや、私は一人でいい」
「ホントに? 寂しくない?」
「ああ、問題ないとも」
「そっかぁ……。じゃあ、寂しくなったら私を呼んでね!」
「わかった、了解した、御意」
焦りすぎだろ、とユーリが笑いながら言った。
それからメイレンが部屋を出て、扉を閉めようとする。
すると、扉が閉まる間際の隙間からイシュメルがひょっこり顔を出し、彼女に訊ねた。
「本当は僕たちの方を追ってきてたでしょ」
「ッ! ……へ、陛下は一人でも安全だからと思い――」
「いや、別に責めてるわけじゃないんだ。僕はアガサの慌てふためく顔が見れたから満足さ」
「す、すまない! 勝手に見るつもりじゃ――」
「あはは、だから別にいいんだよ」
イシュメルは優しくメイレンの頭を撫でて、ゆっくりと扉を閉めた。
「ぜ、前途多難な任務だ…」
メイレンは廊下に立ちすくみながら一人ぼそりとつぶやいた。