40話 「魔性の金眼」
「そういえば名を聞いていなかったな」
「名など無い」
最後尾を歩く女先導者に向かってユーリが大きめの声で訊ねていた。
だが、返ってきた言葉はこれでもかと素っ気ない。
「そうなのか?」
しかし、ユーリはユーリで簡単には引き下がらなかった。
「……ちっ」
女先導者がわざとらしい舌打ちを放つが、それすら大して気にした様子もなく、あっけらかんとして女を見つめている。
すると、
「……メイ・レンだ」
視線にまとわりつかれるのを嫌がったのか、女先導者が名を口に乗せていた。
ユーリの顔にわずかな微笑が浮かぶ。
「良い名だ。その切れ目のような鋭さを感じる」
「――ッ! お、お前はッ! その減らず口をたたかずにはいられないのか!」
ユーリが放った褒め言葉に、メイ・レンは顔を赤らめていた。
さきほどまでの冷淡な雰囲気に、徐々に人間味が混じっていく。
ユーリはそんな彼女の様子を見て、満足げにからからと笑っていた。
「ユーリ、からかってはいけないよ」
「別にからかってるわけじゃないさ、本心だよ」
イシュメルの諭しに手で応えながら、ユーリはまた笑った。
そんなこんなで暗い通路を歩いていると、ついにユーリの前方に開けた広間が姿を現した。
狭い通路の出口から赤い絨毯が一直線に伸びていて、その両脇には悪趣味な壺が並べられている。
その壺から数本のたいまつが伸びていて、赤い光を灯していた。
「わかりやすく悪趣味だな」
ユーリの口から即座に呆れたような声があがる。
――と、
「それはそれは、お褒めにあずかり光栄です、閣下?」
そんなユーリの言葉に反応する声が一つ。
イシュメルたちの声でもなく、メイ・レンの声でもない。
どこからの声だろうかと周囲を窺っていると、声の主は部屋に規則正しく並び立っていた柱の裏から、音も無く姿を現した。
汚れ一つない純白のシャツに、紺色のベスト。銀製の楕円形ペンダントを胸元に留め、優雅な雰囲気を漂わせてユーリの方へ歩を進めてくる――男だった。
その男の七三でしっかりと分けられた金髪は、いかにも几帳面そうだという印象を見る者に抱かせる。
しかし、ユーリが真っ先に抱いた印象はそれではなかった。
その者が尋常ならざる『技術』を持っているだろうという確信。
ユーリの中に一番最初に浮かんだのは、『油断ならない奴』という印象だった。
その男には足音がなかった。
靴は履いている。底のしっかりした革靴だ。
地面は石造り。
なのに足音がない。
それは密偵としても、暗殺者としても、並の者とは一線を画すだろうというほどの静かさであった。
そのわりに歩き方に不自然な点がなくて、そのことがよりいっそうユーリを驚かせた。
「すごい。足音がしない」
リリアーヌも同じことを思ったらしく、そう呟いていた。
「再度お褒めにあずかり光栄です、お嬢さん」
男は再びの優雅な一礼を見せつつ、着実に距離を詰めてくる。
そうしてついに先頭のユーリから数歩という距離にまで進み出でてきて、改めて男は襟を正し、口を開いた。
「初めまして、閣下。私はサベジの長である〈ハイゼル・フォン・ベルンガー〉と申します。以後お見知りおきを」
ユーリは品定めするかのように男の顔をじっと見つめ、自分の名を名乗るよりも先に訊ねた。
「当然、偽名だな?」
「バレましたか」
くっくと含むように笑いながら、しかしハイゼルは名を訂正しなかった。
「確かに偽名ではあります。しかし私は『ここ』ではハイゼルなのです。この意味がおわかりいただけますか?」
「ああ、とかくはいわんさ」
一息置いて、ユーリは了承の意を示す。
サベジという組織が密偵国家ナレリアを起源とすることは知っていたし、同様にその密偵国家ナレリアのなんともドロドロとした文化についてもカージュから聞いてある程度知っていた。
周辺が密偵だらけ。油断も隙もないという点で、たしかにおそろしい文化であるとも思うが、一方でユーリはもっとストレートにおそろしいレザール戦争を経てきている。
そんなユーリは、最終的に「まあ、そういうこともあるか」と適当に納得してしまった。
深く追求せず、さらりとハイゼルの言葉を受け流したユーリを見て、ハイゼルはまた含むように笑っていた。
次いで、そんなハイゼルがユーリたちの裏に控えていたメイレンに言う。
「机と人数分の椅子を用意してくれるかな?」
「かしこまりました」
「返事が堅いね。いつものじゃじゃ馬のような威勢はどこにいったのやら」
「っ! じゃじゃ馬じゃありませんっ!」
「それでよろしい」
ハイゼルはまた笑った。
◆◆◆
メイレンはきびきびとした動きで机と椅子を運んできた。
それを設置する間に、ハイゼルがユーリの顔をまじまじと見て思わず口ずさむ。
「綺麗な髪と眼ですねぇ。きっと顔を切り取って売ったらこの上ない値段で売れるでしょうに」
「物騒なことを言うな」
不気味な言葉に対して、ユーリはハイゼルの期待を易々と裏切るほどに淡白な表情で言葉を返した。
「――ふむ、なるほど、この程度の言葉では動揺しませんか。これは残念。
せめてそちらの、褐色のマドモアゼルなら動揺していただけると思ったのですが」
「実際に見せられたらあれだが、生い立ちが原因でそういう不気味な言葉だけなら聞きなれてるのさ」
意外にもアガサはハイゼルの言葉に動揺していなかった。
彼女はそういう不気味な言葉を奴隷であった頃に頻繁に聞いていた。
そう長い奴隷生活ではなかったが、人売りにつれられてほかの奴隷と一緒に過ごしていた時間はたしかにあったから、まったくそういう暗い世界を知らないわけではなかった。
そのあともいくらか短い門答をして、ついにメイレンが全ての椅子を設置し終えた。
「さて、話し合いに移ろうか」
ユーリが真っ先にその椅子に腰を下ろす。
憮然とし、早くしろと言わんばかりにハイゼルを急かす。
その態度にハイゼルは内心で驚いていた。
いまだサベジとユーリの間には確たる信頼関係もなければ、強固な利害関係もない。
なぜこうも憮然とした態度で交渉に臨めるのか。
「別に、俺たちがお前たちに対して一方的な信頼を抱いているというわけじゃないぞ。なぜこうも憮然としていられるかと訊ねられれば……そうだな、たとえ敵対しても俺は一向に構わないと思っているからだ。そして俺の意志をここにいる仲間たちは尊重してくれている。別段、体裁を気にする必要もないということだ」
ハイゼルはまたも驚く。
ユーリはハイゼルの質問を予期したように先に言葉を述べていた。
加え、まるで挑発するような口ぶりである。
サベジが暗殺者集団であることを知っての挑発であれば、ずいぶんと『気の強い』やり方だと思った。
ハイゼルは今まで浮かべていた微笑を削り、少し真剣な表情で口を開いていた。
「閣下は、現状で自分が何人の暗殺者に狙われているかご存知ですか? 今、この瞬間に、です」
ハイゼルは暗にユーリがサベジの暗殺者に狙われていることを知らせる。
暗殺者に狙われている状況は、常人ならば冷や汗ものだろう。
だがそれに対してユーリは、まず笑った。
ハイゼルはその時点でユーリを異常者として見なしはじめていた。少なくとも自分の予想よりはるかにどうかしている人物だと思った。
「四人だな。俺の真後ろの柱の陰に一人。天井裏に一人。さっき椅子を設置し終えて別の部屋に戻った――と見せかけて、実は通ってきた通路の暗闇に潜み、虎視淡々としているメイ・レン。そして最後に――目の前のお前だ」
ユーリはハイゼルを指差して妖しい笑みを浮かべた。
「……」
ハイゼルは動かず、紡がず。
ただじっとユーリを見ていた。
険悪な雰囲気が一気に広がったようにも見えた。
ハイゼルも、ユーリも、一向に動かない。
視線の応酬が十数秒の間続いていたが、そのやりとりを外側から息を潜めて見ていたイシュメルたちからすれば、それが何分にも引き伸ばして感じられた。
だが、ついに、参ったと言わんばかりにハイゼルが大きく息を吐いた。
「参りました。降参です。ご名答、私を含め、四人です。――ですが、どうにも敵いそうにない。あなたの目はたいそうおそろしいし、どこにも隙がありませんでした。
閣下に無礼を働いたことを代表して謝らせて頂きます」
「別にいいさ。謝礼が欲しいわけじゃない。俺は交渉しに来たんだ」
「ええ、わかりました。伺いましょう」
ハイゼルがまた微笑を浮かべて言ったのをきっかけに、イシュメルたちも大きく息を吐いて、ようやく用意された椅子に座ることができた。
◆◆◆
「それで、閣下は私たちに何をお求めになるのでしょうか」
「単刀直入に言おう。――エスクードの傘下に入れ」
「これはまた――」
ハイゼルは苦笑したが、その目だけは鋭さを保ったままだった。まるで商談にのぞむ商人のそれだ。
「答えを出す前に、いくつか質問しておきましょう」
「いいだろう」
「第一に、私たちサベジが閣下の傘下に下るとして、私たちに何の利益がございましょう?」
「そうだな、なにが欲しい?」
ユーリのあっけらかんとした言葉は、ハイゼルを再び驚愕させた。
ユーリはハイゼルに白紙の契約用紙を渡したようなものだったからだ。
だが一方で、『それくらいお前たちを買っている』と表現するのに、実に的確な誘い文句でもあった。
さすがにユーリとてこの短い間でサベジの実力のすべてを窺えたわけではないだろう。
しかし、ナレリアという国家を相手に小集団でやり合っているという話も聞いてはいたし、ユーリ自身の直感はハイゼルに可能性を見ていた。
だから正確には、『それくらいお前たちには期待している』という言葉でもあった。
ハイゼルもそのことに気づいて、なんだかんだと悪くない気分になる。
この有無をいわさぬ声には、不思議な力が宿っているようにも思えた。
従わせる、なにより従うことが心地よいと思わせる、不思議な声。
自分よりはるか上層の存在から褒められて舞い上がるときのような、そんな気分がハイゼルの中にあった。
「っ――」
しかしハイゼルはそんな自分の感情に気づいて、即刻自分を叱咤する。
理性を取り戻し、冷静さを再び手元に呼び戻した。
「危なかった」と、ハイゼルは一人で胸中にこぼしていた。
「どうした、なにが欲しい?」
再度そうやって問うてくるユーリ。
ふとハイゼルがユーリの顔を見上げると、
その右眼が金色に輝いていた。
おそろしく美しい輝きを放つ、金色の瞳だった。