31話 「白い竜の名前」
真っ暗な部屋の中。ユーリは自分がその場所にたった一人で立ち竦んでいることに気付いた。
何も見えない。
何も聴こえない。
何も――分からない。
そうして無想へ沈む意識の中で、ふと自分の体の違和感にだけ気付いた。
右眼に触れる。
右眼が――なかった。
なんだ、これは。
違和感が確信に変わった時、ユーリの前にある一つの存在が姿を現した。
鮮明に、はっきりと、輪郭をなす存在。
顔だった。それなみでユーリの体躯の大きさを超える、巨大な顔だ。
しかしその顔は人間の顔ではなかった。
――竜族。
ユーリは「ああ、そうか」と納得の声を紡いだ。右眼がない理由にも気付いていた。
「俺の右眼は、お前が持っていったからな」
目の前の竜が、その目蓋を押し開けた。
竜の左眼は竜族特有の金色で、そして右眼は――ユーリの真紅の眼と同じ色をしていた。
まるで眼を交換したかのような、左右対称のオッドアイ。
竜は語らない。
その双眸でユーリを見つめ続ける。
ユーリは竜の視線を受け、ふと昔のことを思い出した。
昔もそんな目つきで、この竜に視線を叩きつけられたことがあったな、と。
◆◆◆
エスクードの離れの森に、かつて竜が住んでいた。
そしてその森にはエルフも住んでいた。
どちらが先であったかは分からないが、住み着いていたのはエルフの方だ。
竜もそこに長い時間いるが、決して住み着いているわけではなかった。
当時、エルフとその竜は友好的な盟約を交わしていた。
森に住まうエルフ種と、たった一頭の竜による盟約。
そして、エルフとの共存を望んだエスクードが、その盟約に加わろうとした。
エルフ、竜、共に反対があった。
どちらも人間を好いてはいなかった。
だが、エルフは後に折れた。
当時のエスクード王――〈シャル・デルニエ・エスクード〉の頑固さに、エルフはついに譲歩した。
その瞬間から、エスクード王とエルフ王の親交はすさまじい勢いで深くなっていった。
互いの人柄もあっただろう。
根深く張った忌まわしき慣習を取っ払ってしまえば、エルフと人間が分かり合うのは意外にも容易いのだと、その時誰もが思った。
過去を押さえる意志の強さを必要としたが、お互いがその強さを持った時、架け橋は瞬く間に出来上がった。
盟約が成立して以後、エルフの森に姿を現さなくなったその竜は、エスクードとエルフが同盟を結んだ数年後に姿を現した。
その時にはエスクード王族に限定ではあるが、エルフとエスクードは当初からは考えられないほどに親しくなっていた。
竜はそれを憂いた。
過去の戦乱の記憶を忘れたのか、と。
エルフ王は答えた。
時が経ち、変わらないモノなどない、と。
両者は一歩も引かなかったが、ついに竜が折れた。
エスクード側に代償を要求することで、エスクードの盟約加盟を認めようと、そう言った。
竜の言うその代償は――
エスクード直系王家の末子、〈ユーリ・ロード・エスクード〉の右眼だった。
ユーリの右眼がエルフ種との同盟の代償。
エルフ王も反対したが、エスクード王の反対のしようも凄まじかった。
事実、竜に飛びかかったほどだ。
だが、敗れた。
相手が悪かったのだ。
人間として単体で最上位に位置すると言われた、〈戦神〉シャル・デルニエ・エスクードでも、その竜には敵わなかった。
その竜は、竜族の中でも頂点と謳われる存在だったから。
そして奪われた。
◆◆◆
――俺の右眼は。
◆◆◆
だが、数年してエスクード王がレザール戦争を予期した時、エルフ王がある物を差しだしてきた。
それは――あの竜の右眼だった。
幼心ながら「なるほど」と感心したのを覚えている。
その贈り物こそ、竜が自分の眼を奪うにあたって差しだした対価、代償なのだと理解した。
彼も譲歩していたのだ。
エルフと同じように。
あまりに長い生を生き、数々の歴史を目の当たりにしてきたからこそ、エルフを気にかけ、あえて反対したのだ。
エルフのために。
だが、知っていた。
エスクード王族とエルフが上手くやっていることは。
そして気付いた。
エスクードに肩入れし始めてきた自分に。
このまま自分もエスクードを認めれば、過去の人間種の犯した過ちまで認めてしまうようで、竜はなんともいたたまれなかったという。
されど、エスクードは信頼に足る。
どうするか。
竜は悩んだ。
世界の情勢を知りえていた竜は、エスクードがレザール鉱山を発見したことで後々戦争に巻き込まれる事も予期していた。
エスクードが戦争に敗れれば、エスクードの西端の土地に住むエルフも無事では済まない。
過ちを認めてしまいたいという安易な考えもあった。
そうなればエスクードに味方し、戦を治める事も出来る。
だが竜は安易に走らなかった。
歴史を知っているからこそ、たとえ信頼していも、人間種に味方することはしたくなかった。
【だから私は種としてではなく、たった一人に力を貸すことにした】
真っ黒な部屋で、ユーリと無言で相対していた竜がついに口を開いた。
◆◆◆
ユーリがエルフの森でイシュメルと遊んでいた頃、偶然に竜を探し当ててしまったことがある。
真っ白な表皮。
巨大な体躯。
頭から生えている二本の大きな角。
広げれば体を軽々と覆い尽くす翼。
そして――黄金の瞳。
不思議と恐れはなかった。
初めてエルフと会談の席を持った時、一度目にしていた。
その時の圧倒的な自己に対する『敵意』を感じていながら、ユーリに恐れはなかった。
◆◆◆
【なぜあの時、お前は私を恐れなかった】
◆◆◆
「迷っているような顔をしていたから」
◆◆◆
噛みつけば殺せる。
翼で打てば殺せる。
踏みつぶせば殺せる。
竜族と比べればあまりにも矮小な存在であったユーリ。
だが恐れなかった。
ゆえに――
会話をなすだけの余裕も生まれた。
それからの日々はエルフ王、エスクード王すら知らない。
エルフの森に来れば、毎日イシュメルと共に竜の住処へ走っていき、話す。
竜は様々なことを知っていた。
それはまだユーリが右眼を奪われる前の話。
何かに苦悩している竜と、ユーリは様々な話をした。
歴史に纏わる壮大な話から、今日捕まえた森の生き物の話まで、様々な事を。
◆◆◆
【私に人間に対する敵意がないとは言えなかっただろう。だのに、なぜお前は笑みを浮かべて私と話すことができた】
◆◆◆
「お前はユーリである俺個人と話をしていた。少なくとも、その時に敵意を感じたことはなかったから」
◆◆◆
そんな日々が続き、そして転機の日が訪れる。
右眼を差しだす日。
なぜ代償を自分に求めたのか、ユーリは分かったような気がした。だから父とは反対に潔く了承した。
それで構わない、と。
【理不尽を感じなかったか】
「自分が生まれる前の業までもを被った点については、少し理不尽は感じる。だけど、それ以上に、苦悩しているお前を見ているのが嫌だった。お前だって限りなく譲歩したのだろう」
【……】
「俺が右眼を差しだすことで、お前個人のこれまでの苦悩が振り払われるなら、別に構わないと思った」
【――私が人に同情されるとはな……】
竜はユーリの右眼を奪い、そして飛び去った。
ユーリはそれ以来、あの住処には行っていない。
行ったところで、そこに彼はいないような気がしたから。
◆◆◆
「お前は本当に不器用なやつだよ。俺の右眼を奪って、その代わりに自分の右眼を差し出したのも、全部エスクードのためなんだろう。ああやってわざとらしく対価を求めて見せて、本当に不器用なやつだ」
【『印』が必要だった。印なくしてすべてを霧散させてしまうのは、数々の歴史を見てきた私には耐えられない。印なき歴史はいずれ忘れ去られる】
「その印を俺に求めたのか」
【そうともいえるし、同時に私自身にも印を求めた。――お前はどうせ死ぬ。人間の寿命は短い。だからお前の右眼に印があったとて、いずれ消える】
「俺がエスクードを再興させるという大きな世界的印を残せば、俺の容姿は歴史に残るだろう。右眼の金色も、きっと残る」
【然り。だが失敗すればどうなる。その場合やはりお前は死ぬ。しかし私はまだまだ生きるだろう。だから、私の右眼にお前の真紅が刻まれていれば、印は残り続ける】
「そうかもな。でもそれなら父さんに――当時のエスクード王シャル・デルニエ・エスクードに眼を渡せば良かったのに」
【私は人をありのままで判断する。私はお前と会話した。もちろんシャル・デルニエ・エスクードとも盟約の場で会話したが、それ以上に私はお前と会話した。お前が私の住処に迷い込んできたからな】
「そうだな。良く分からない難しい話から、くだらない話まで、いろいろしたな」
【だから私はお前を選んだ。その右眼は私の眼だ。竜の眼だ。大事な私の一部を、認められない者には渡せない】
「お前を俺に何を見たんだ」
【何も。そして何もかもを】
「難しいよ」
【お前は私に人間種への嫌悪を感じさせなかった。最初はそうではなかった。しかし、会話を重ねて行くうちに、私はお前を純粋なユーリとして見るようになった。人間種の枠が取り払われ、ユーリ・ロード・エスクードが私の目に映った。それがすべてだ】
「……」
【私はお前を認めてしまったのだ】
「――そうか」
【不満か?】
「そんなことないよ。嬉しいさ。少し面と向かって言われるのが恥ずかしいだけだ」
【そうか】
「そういえば、あれだけいろいろ話したのに、お前の名前を訊いたことがなかったな。みんなお前を『白竜様』と呼ぶ。本当の名前を知らない。きっと名前を訊ねるのも、恐れ多くて出来なかったんだろうさ」
【今思い出してみると、そのとおりだな】
「俺がお前に名を訊ねたら、答えてくれるか? お前ばかり俺の名前を知っていて、ずるいじゃないか」
【はは、それも然り。――ああ、いいだろう。教えてやる。我が名は――】
―――
――
―
◆◆◆
ユーリが再び目覚めた時、竜は姿を消していた。
代わりに目に入るのは石造りの天井。
暖色の明かりを灯すランプ。
心配そうに自分の顔を見下ろす――リリアーヌ。
「ユーリッ!」
不意に視界の下の方に映ったリリアーヌが抱きついてきて、反射的にリリアーヌを受け止めた。
「――ここはどこだ」
「皇城の医務室だ」
アガサが答える。
彼女の返答を聞きながら、ユーリはぼんやりと天井を見つめた。
思考が巡る。
意識が徐々に覚醒していく。
「――状況は?」
「万事ぬかりない。戦の火種は去り、門周辺の復旧に勤しんでいる次第じゃよ」
ふとまた視界の横から別の女が姿を現した。健康的な美しさを湛えるアガサと違って、どこか超俗的な美を放つ天鵞絨髪の女。――エンピオネ・ヴェール。
エンピオネはホっとしたような安堵の色と、嬉しげな色を合わせたような笑みで、横になっているユーリを見下ろしていた。
そのあたりでユーリの意識が完全に覚醒し――直後、自分を見下ろす仲間達の中に〈イシュメル〉がいない事に気付いて、すぐさま体を起こした。
「ユーリ! すぐに起きちゃだめだよ!」
そんなユーリをリリアーヌがベッドに押しつけようとする。
だが弾かれたユーリの身体が止まらなかった。
身体が起き上がり、目線が皆と同じ位置にまで昇る。
そうして視界が広がって、部屋の中を見回した。
すると、
「――」
部屋の一角。
椅子にもたれ掛けながら寝ている最愛の友。〈イシュメル〉の姿がユーリの視界に入った。
「――良かった」
ユーリの口からとっさの言葉が出て、また力が抜けたように身体をベッドに倒す。
ユーリを押さえていたリリアーヌも、ユーリがまたベッドに寝なおしたことに安堵して、「ふう」と軽い息を吐いていた。
そんなリリアーヌがユーリに説明を施していく。
「兄様がユーリの傷を治してくれたの。それですごく疲れて、ああやって寝てるんだよ。隣の部屋にベッドがあるから、そっちで寝ればって言ったんだけど……。『ユーリが目を覚ますまでは』って言って聞かなかったの」
「――そうか」
ユーリは多くを言わなかった。
ただ、納得するような頷きと、優しげな光の灯った視線をほんの少しだけイシュメルに向けて、すぐにいつもの雰囲気に戻る。
五分の超然性と、五分の人間性を宿し、ユーリは姿勢を正した。
そうして少しだけ微笑を浮かべ、ユーリは自分の手を握ったままでいるリリアーヌに問う。
「リリィ、お前も無事だったか?」
「当然だよ。ユーリと兄様が守ってくれたんだから。怪我なんて出来ないよ」
リリアーヌの目から涙が零れ落ちた。
ユーリはその涙を指で拭いとって、リリアーヌの頭を数度撫でた。
そんな二人の様子を見ていたエンピオネが、軽く鼻で息を吐いて、
「はっ、女子を泣かせるなどユーリは色男の風上にもおけぬ男じゃの」
「色男の風上に立った覚えはないけどな」
「ぬあっ! 一語多かった! い、今のはつまり――た、たとえじゃ!」
「はいはい」
エンピオネの慌てふためく様子が滑稽で、皆が口を揃えて笑った。
◆◆◆
自分の知らぬうちに、自分の身体が思いのほか傷を負っていたことを知らされ、ユーリは大人しくその日いっぱいを睡眠休養に努めた。
次の日。
眼が覚めると部屋にはいまだ椅子に座って寝ているイシュメルだけで、
「本当に頑固だな、イシュメルは」
ユーリは笑いながら、ついに身体を起こした。
ベッドから降り、イシュメルの座っている椅子の近くまで歩いて行って、ほんのわずかの間だけ物想いに耽りながらも、ようやくイシュメルに声をかけた。
いつものように、軽い口調で。
「――イシュメル、朝だぞ」
その声に反応したイシュメルが、窓から差しこむ日光を手で遮りながらゆっくりと目を開ける。
一二度瞼をこすって、ようやくイシュメルは目の前にユーリが立っていることに気付いたようだった。
「――美人のモーニングコールじゃないのかい。最高に疲れたあとの目覚めなんだから、少しくらい気を遣ってよ」
「それだけ軽口が叩ければ気遣いなんていらないだろ」
「そうでもないんだなぁ。――せめてユーリが女装とかしてくれたら、少しもマシだったかもしれない」
「冗談はよせ」
「マシはマシさ。――笑えそうだからね」
イシュメルはくすりと笑って、ユーリの姿を上から下に眺めていった。
「身体の調子は?」
「――おかげ様で」
「そ、なら良かった」
あっけない返答。
それでお互いの間の事実確認は終わった。
しかし、今度はふと、イシュメルが悪戯気な笑みを浮かべる。
「逃げられると思ってるでしょ。自分で使った魔術について、追及されずに済むなんて、今少し思ったでしょ」
「――思ってない」
「本当に?」
「何度も言わせるな。俺だってさすがに言い逃れできるとは思ってないさ」
「よろしい。どうやったら『あんな風』になるのか、ちゃんと聞いておかないとね。今後同じようなことされると君の命もそうだが何より僕の命も削れる。――ストレスで」
「分かってるよ。あんまり皮肉るな」
ユーリが軽く手を振ってイシュメルを制止する。
対するイシュメルはまだ悪戯気な笑みを浮かべていたが、最終的には「分かったよ」と頷きを返していた。
「アガサ達が来たようだし、説教は後にしよう」
「説教か……ごく自然に聴取が説教に変わったな」
「どっちも似たようなもんさ」
肩をすくめるイシュメル。
その言葉のあとに、仲間たちが朝食の知らせを伝えに部屋の中へ入ってきた。