30話 「決着の代償」
エンデは心底畏怖していた。
自分の持つ剣がエスパダでなければおそらく腹部をばっさりと斬られていた。
自分の体が反応しきれない速力。
意志に反応するエスパダだからこそ、なんとか間に合った。
対するユーリの方は斬撃が受け止められた事になんの不満も抱いていないようで、主だった反応は見られなかった。
両手に持つ二本の剣は力なく地面を擦っている。
体と腕が左右にふらふらと漂っていた。
そしてそこから一気に最高速に達し――
エンデはユーリを見失う。
先が読めない。
「くっ!」
エンデは自分に向けられる殺意とその気配、足音のみで方向を知り、エスパダに命令して対応する。
ユーリの速力は異常の一言に尽きた。
逐一的確にエンデの視界の死角に潜り込んでいる事が、その神速の如き速度に拍車をかけていた。
むしろ後者によってユーリの速力が凄まじいものに見えているのかもしれない。
しかし、それに気付いたとてエンデに反撃の術はなかった。
防戦一方。
エンデは、エスパダの自立行動がなければ三度は殺されていただろうこと自覚する。
対するユーリは徐々に攻撃速度を増していった。
一撃、一度後退し、高速で動きだす。
そしてまた一撃。
その一撃一撃の感覚が短くなってくる。
斬撃の鋭さは増す一方で、尋常でない速力が上乗せされた斬撃は言うまでもなく重い。
王剣による横一線。
逆側から黒剣が袈裟に斬りかかり、時折双剣を交差させて突きを繰り出してくる。
それら斬撃はもう一歩の所で大剣エスパダに遮られるが、ついにエスパダがユーリの動きに追いつかなくなる。
とはいえ、ユーリの方にも限界の兆候が表れていた。
「――――」
ユーリの口から血が溢れ出た。
おそらくエンデの一撃が腹部に叩きこまれた時に、その身体の内部に何らかの傷を与えて行ったのだろう。
骨が折れて内臓に突き刺さったか。
しかしユーリのあの時笑みだけを浮かべ、何も言わなかった。
吐血によって生まれた隙はわずかだったが、エンデはそれを目ざとく見つけ、ついに反撃の一手を差しこむ。
「ここだ!」
袈裟掛けの大ぶり。
ユーリにはよく見えていた。
それを最小の動きで避けようとした時――ユーリはようやく自分の身体が悲鳴を上げている事に気付いた。
足が、上がらなかった。
獣のような遠吠えを、ユーリが上げる。
言葉にならない何かを。
◆◆◆
まだ間に合う。
もっと速く、ただひたすらに速く。
◆◆◆
大剣がユーリに突き刺さる事を確信したエンデが目を閉じる。
(終わった……)
内心に浮かべ、だが、手ごたえがいつまでたっても伝わらない事に気付き、とっさに目を開けた。
ユーリの姿が目の前になかった。
動けるわけがない。吐血の量は相当であったし、その直後の動きの鈍りも確かだった。
だが、ユーリの気配を背後に感じる。
「なんでッ!」
叫びながら振り向くと、そこには右眼から溢れる金色の魔力を『身体に纏っている』ユーリの姿があった。
エンデは唖然とすると同時に、諦念を感じ取る。
そういえばそうだったと、エンデは思った。
「そういえば――君は『魔術』を使っていなかったな」
「エスクード人は魔術を使えないんだけどな」
「そんなところまで……一緒か。でも君は使えているじゃないか」
「――」
エンデの言葉に対する答えはユーリの口から紡がれなかった。
次の瞬間、今度こそ確実にユーリの姿が目の前から消える。
死角うんぬんじゃない。
単純で純粋な速力のみによる超速度移動。
そしてエンデは、
(ああ……敵わないな)
首元に冷えた感触を得た。
エンデは死を覚悟する。
後ろから、エンデの首元に剣が突きつけられていた。
「――負けだよ。僕の負けだ。今一瞬でも諦観を抱いてしまった僕に、もはや戦場を進む資格はない」
「――そうか」
「だから……僕の負けだ」
エンデはエスパダを地に置き、肩を落とした。
ユーリはそんなエンデの首に刀身を掛けながら、
「そうだな。――『今回は』俺の勝ちだ」
ただ一言。
ユーリが返す。
その含んだ意味をエンデは即座に理解した。
「今回は、だって?」
「次があるかもしれない。――エンデ、兵を退かせろ。俺は俺のわがままで、お前の命を取らないことに決めた」
「ここは戦場だよ、ユーリ。僕はルシウル本国に戻れば処罰を受けるだろう。僕は元シーク人だ。因縁もあるから安い処罰は受けないだろう。実際のところ、今の僕は捕虜に近いから――死もありうる。どうせ死ぬなら君に殺された方がマシだ。だからそんなことを言わないでくれ」
「――エンデ」
◆◆◆
「やるだけやってみろ」
◆◆◆
「死ぬのは楽だ。それにいつだってできる。血管を切る小さな刃物でも身体に仕込みながら、それで行けるところまで生きて見ろ。お前には母国を復活させようという意気はあるか?」
「こんなルシウル兵のいる前でそれを言わせるのかい」
「そうだな。――なら、もしあるのなら、『やってみろ』」
「――『先を行く者』の助言かな」
エンデは膝をつきながら笑った。
そのあたりで、呆気にとられていた周りの兵達がどよめきはじめる。
そして、信じがたい光景を目の当たりにした近衛兵達のうち一人が、槍を手にユーリに近づいた。
攻撃するつもりだ。
それを視界の端に捉えたエンデはとっさに叫んだ。
「やめろ! お前では敵わない!」
エンデの制止。
「しかしっ! あなたとてこのまま本国に帰るわけにはいかないでしょう!」
その近衛兵の言葉は、まるでエンデを気遣うかのようだった。
そこでユーリは理解する。
自分の後ろから近づいてきた近衛兵が、エンデの味方であることを。
シーク公国からの使いか、それとも後にエンデに感化されたのかはわからない。
ただ、その近衛兵が確かにエンデの身を気遣っていた。
「いいんだ。いいんだよ。――ありがとう。……兵を退かせてくれ」
「エンデ。――いずれまた、会える事を祈っている」
ユーリはそれ以上を言わない。
踵を返し、姿を消す。
もうそこにいる意味もなかった。
エンデに掛ける言葉も持ち合わせていなかった。
あとは彼が自分の足で再起するのを心の中で祈っていることしか。
膝をついたまま物想いに耽っているようなエンデを振り向きざまに視界に捉え、
(いずれまた……)
心の言葉を浮かべたあと、ユーリは前を見据えた。
◆◆◆
エンデは確かにヴェール兵の命を奪った。
それは覆しようのない事実。
されど、それは戦において仕方のない事だと、そう簡単に割りきれてしまう自分が『異常』であることに、ユーリは一片の疑問も持たなかった。
◆◆◆
(エンピ姉がいなくて良かったな)
ユーリは体をいたわりながらも駆けた。
先ほどのエンデとの勝負の最中に、自分の身体を魔力が覆ったのを覚えている。
おそらくアレは意図せず発動した魔術だ。
ユーリは確信していた。
(右眼の魔力のせいか……)
魔力にはもともと術式を解さずとも人の願いに応える性質があるという。
術式と意志の力によって魔術は成るが、ユーリには前者、術式を編む能力がほとんどない。
だが、それでも魔術が発動した。
あの時の身体速力は自分の素の肉体だけでは出せないだろうことは、ユーリにも分かっていた。
あの時『もっと速く』と強く願った意志に右眼の莫大な魔力が反応して――魔術となった。
(代償は――)
しかし、その魔術の代償をユーリは体内に感じていた。
エンピオネたちのところに戻るべく、ユーリは駆ける。
途中、エンデの号令を受けて渋々引き返すルシウル兵達を見た。
(ちゃんと従ったか)
安堵を得ながらデルサスの街中へ駆け入り、イシュメル達を探す。
◆◆◆
臥する数々の死体を乗り越えて、ユーリはようやく仲間たちの元へ辿りついた。
イシュメル、アガサ、リリアーヌ、エンピオネ。
皆の体に傷はなく、ひとまずは安心する。
だが、イシュメルに話しかけようとしたところでユーリは彼の異変に気付いた。
茫然と、定まらない焦点で虚空を見つめる友。
(嗚呼――そうか……)
それもユーリは割り切る。
割りきらず乗り越えられるわけがなかった。
「『使った』か」
「……ああ」
イシュメルの代わりにアガサが答えた。
すると直後、不意にイシュメルが前方に倒れ込む。
ユーリとアガサがイシュメルの身体を受け止めた。
イシュメルは皆を守るために、忌避していた攻撃魔術を使ったのだ。
そして恐らく、多量のルシウル兵の命を奪った。
通らなければならなかった道。
ユーリと共に行くならば、イシュメルが避けては通れぬ道。
それをユーリ自信察しながらも、やはりユーリはイシュメルの顔を長い間直視することは出来なかった。
(再起……してくれよ)
ユーリは呆然としているイシュメルの肩を叩く。
しかしそんなユーリも、その瞬間に身体の力が抜けて、ふと前に倒れ込んでしまった。
身体を激痛が襲い、眼の前が真っ暗になる。
(思いのほかあの加速魔術は身体に効くようだな……)
アガサが呼ぶ声。
リリアーヌの叫ぶ声。
エンピオネが呼ぶ声。
心地よい音色に身を任せながら、ユーリは気を失った。
◆◆◆
両軍の激突は離れて行く。ルシウルの軍団は再びジュラール森林へと姿を消し、生き残ったヴェールの兵達も皇都デルサスの中央部へと撤退する。遭遇戦が終わりを告げた。
防衛は成功した。
だが犠牲は多かった。
当初北部から来ると思われたルシウル軍は実際には姿を現さなかった。南部戦線での撤退を知ってか、それとも最初から架空であったか。真実は分からないが、それによってヴェール救われる。
リングスの内部撹乱には思いのほか頼っていたようで、それが未然に防いだ状態で挑んだヴェールに一応の軍配が上がった。
ヴェール皇国もこの戦を経て、再び軍事力育成に力を入れるだろう。
そうなればルシウル王国とて楽には攻略できない。
犠牲は払ったが、エンピオネの懸念はようやく消えかけていた。
◆◆◆
軍の撤退を進め、ついにエンピオネが皇城に帰り着く。
「エンピオネ様! よくぞご無事で!」
「ああ、待たせたな、カージュ」
城に到着するや否や、城門で待ち構えていたカージュがエンピオネに近づき、感極まった様子で話しかける。
「こちらも大事はないか?」
「はい」
そこでカージュはユーリ達の方を向き直る。
アガサに支えられながら茫然自失としているイシュメル。
そして――
「ユーリ……様?」
二人の兵士に抱えられながらぐったりとしているユーリ。
その隣で泣き続けているリリアーヌ。
「犠牲は大きかった。ユーリの方は怪我による気絶だろう。早々に医者を呼べ」
エンピオネも疲れているようで、時折辛そうな顔を見せるが、ヴェールを防衛できたという事実が多少の緩衝材になっていた。
「ユーリ様……! ユーリ様ッ!!」
だが、カージュの取り乱す様子を見てエンピオネは顔を顰める。
死んでいるわけではないのに、何故こうもカージュは取り乱すのだろうか。
そんな考えをふと浮かべた途端、エンピオネの思考は悪い方向に傾き始めた。
エンピオネは疲労から気を持ち直し、我に返ってカージュに訊ねる。
「どうしたのじゃ。ユーリは死んではおらんぞ?」
その声にカージュが物凄い形相で振り返った。
「このままでは死んでしまいますよ!!」
一同が唖然とした。
「どういうことじゃ! カージュ!!」
「見てわからないんですか!? 一見ユーリ様は大した怪我をしていないように見えますが、この腹部の凹み……内部が……!」
カージュがユーリの腹部にそっと触れ、そして触れた場所が嫌に変にべこりと凹んだことに、その場にいた皆が気付いた。
血の気が引く。
「内臓が潰れているんですよッ!!」
カージュが叫んだ瞬間、同時にエンピオネも叫んでいた。
「早く医者を呼べッ! 早くッ!!」
リリアーヌの泣き声が、皇城の敷地内に木霊した。
◆◆◆
――嗚呼、どうして皆そんなに慌てているのだろう。
◆◆◆
「――ル。イ――メル。――イシュメルッ!!」
アガサの呼ぶ声。凛としていて、力強い呼び声。
イシュメルはその声で意識を覚醒させた。起きてはいた。起きてはいたが、自我は遠く霞に消えてしまっているような状態だった。
そこから覚醒する。
そしてイシュメルが覚醒した時、彼の目の前に信じられない光景が広がっていた。
土気色の顔をした『最愛の友』の姿が――そこにはあった。
――なぜ、彼は倒れているのだろう。
幼い頃に誓った。
一緒に国を守ろうと。
なのになぜ――
「こんなところで……死にかけているんだ……!」
イシュメルは完全に自我を取り戻す。記憶が巻き戻り、状況を理解する。
同時に、現状を理解して背筋が凍った。
血の気が引くのを感じた。
「――ユーリッ!!」
「イシュメル! 落ち着け!」
「放してくれ! ユーリが……! ユーリがッ!!」
アガサの制止。
力なく地面に臥しているユーリの傍らには二人のヴェール兵がいて、額から冷や汗を流しながら必死にユーリの体を探っている。
「臓器の損傷が酷い……! なんだこれは……! どんな事をすればこうなるんだ!」
彼らはユーリの腹部に手をかざしている。
淡く光る手元。――魔術。おそらく治癒系統の魔術だろう。
「早く治せ!!」
イシュメルは自分と同じように、カージュに制止されているエンピオネの姿を見た。
とめどない涙を流しながら、「治せ」と叫ぶエンピオネの姿を。
「駄目だ! 臓器の位置がめちゃくちゃだ! 腹部を切開する! 止血しろ!」
「はい!」
二人のヴェール兵が何かを叫んでいる。
最初は言語の形を成していた言葉たちが、混乱に紛れて音の羅列に変容していく。
イシュメルの意識がまた霞に消えそうになる。状況への処理が追い付かなくなる。逃げ出してしまいたくなる。
目の前に広がる悪夢から、逃げたくなる。
しかし――
「お願い! 兄様!! ユーリを助けて!!」
イシュメルは自分の傍らで泣き叫ぶリリアーヌの姿を捉えて、我に返った。
――何をしているんだ、僕は。
今僕は、僕が為すべき事を――為さねばならない。
「アガサ、放しておくれ。――僕が治す」
イシュメルは落ち着いた様子で言った。
アガサはイシュメルが落ち着いた事を確認して、その手を放した。
イシュメルはすぐに力ない足取りでユーリに近づく。
治癒魔術を駆使するヴェール兵がイシュメルの存在に気付いて注意を投げかけた。
「今触ってはいけません!」
「どいてくれ。僕なら治せる」
イシュメルの声と表情は、有無を言わさぬ迫力に彩られていた。
とっさに答えを返せない二人のヴェール兵を、押し出すようにしてどかす。
「イシュメル様!」
「大丈夫。僕なら――やれる」
制止を振り切る。
ユーリの体に両手をかざし、イシュメルは最高度の集中を引きだした。
そうして魔術に対する理性を発揮させながら、同時にイシュメルは願った。
◆◆◆
死ぬな……! 死なないでくれ……! ユーリッ!!
◆◆◆
願いと叫びは届くのだろうか。