27話 「ルシウル軍の足音」
一通りの武具を揃えたあと、ユーリ達はカージュに案内されてとある場所へ向かっていた。
広いヴェールの敷地内にあって、さらに特異な場所。
そこは人のための場所ではなかった。
「こちらがヴェール皇国最速の駿馬、その名も〈フィオレ〉です」
厩だ。
ユーリ達はカージュと共に厩に来ていた。
目的は戦場に連れて行く馬の選別だ。
カージュに言われ、アガサが率先してその〈フィオレ〉に近づく。
フィオレと呼ばれた大きな馬は、黒色の見事な毛並みをしていた。
全身の筋肉は適度に隆起し、無駄がないと人間の眼から見ても分かるほどである。
「しかし気性が荒いので気を付けてください」
「大丈夫だ、あたしは〈ラ・シーク〉だからな」
アガサが近づくと、フィオレが大きく嘶いた。
それを見たアガサが顔に笑みを浮かべて言う。
「確かに気性は荒いな。――どうも厩の環境が気に食わないらしい」
「そういえばいつもフィオレは厩に入る時に嫌がる素振りを見せていましたね……なるほど、そういう訳ですか」
アガサが馬と話せるという事実はカージュとのやりとりで説得力を持ち始める。
次いでフィオレは後ろ脚でもどかしげに地面を蹴りながら、アガサの方を向いた。
一人と一頭の間に視線のやり取りがあった。
「――ふん、なるほど。どの馬よりも速いという自負、それと周りの馬の不甲斐無さ、諸々気に食わんとさ。はっ、とんだナルシストだね。――実に、実に『戦場に適した馬』だ」
アガサが言うと、フィオレが自慢げに一度後ろ足で立ちあがった。巨大な体躯が影を作る。
そんな黒馬を前にして、アガサはまた笑みを浮かべて言った。にやりとした笑みだ。
「フィオレ、あたしたちは戦場に行くんだけどさ――あんたついて来るかい? 自分が一番速く強い馬だって披露したいんだろう?」
直後、フィオレが鼻で大きく息を吐いた。
「そうかそうか。ああ、それでいい。お前はいっそ野に出た方が幸せになれるタイプの馬だ。他の『強い馬』と競う場をあたしたちが与えてやる。だからお前はあたしたちを乗せて一番を証明してみせろ」
アガサはそう言ってからユーリ達の方を振り向いた。
「――行くってさ」
「知らぬ間に会話が成立しているらしいな」
「アガサすごい! フィーちゃんもよろしくね!」
ユーリは目を丸めながら肩をすくめ、リリアーヌは細い身をぴょんぴょんと跳ねさせた。
そんなリリアーヌが今度はフィオレに近づき、その身体を撫でようとする。
しかし――次の瞬間にアガサの叫びが厩に響いた。
「っ! リリアーヌ! 近づくな!」
咄嗟の叫びだった。
誰よりも早くその叫びの意図に気付いたのはユーリで、反射のごとくその体が弾かれていた。
リリアーヌが近づいた瞬間、フィオレが後ろ足を大きく踏ん張り――『蹴り』を繰り出していたのだ。
「え?」
リリアーヌの呆けたような声が出て、馬の足がリリアーヌに凄まじい速度で近づく。直撃すれば彼女の小さな頭は潰れるだろう。容易にその予想を抱かせるほどの強烈な馬の蹴り。
「っ――!」
間一髪、ユーリが覆いかぶさるようにしてリリアーヌを守った。
フィオレの足はユーリの髪の毛をかすり、残りは空を叩く。
シンとした沈黙が一瞬蔓延って、すぐにユーリの焦燥を含んだ声が鳴った。
「リリィ! 大丈夫か!?」
「う、うん――ちょっとビックリしたかな?」
はは、とリリアーヌはきょとんとしながら笑いを紡いだ。
対するフィオレが、その直後に得意げに鼻を鳴らす。まるで「仕留めそこなった」とせせら笑うように、鼻を鳴らしていた。
その音にユーリがぴくりと反応した。
リリアーヌの華奢な身体を抱き寄せたまま、わずかにフィオレの方を振り向いて、ドスの利いた低い声で呟く。
その右眼はいつのまにか『金色』に輝いていた。
『図に乗るなよ、三下』
その声が重い響きを含んでいた。
響く。耳を穿ち、脳裏を貫き、がんがんと頭の中で響くのだ。
音に囚われる。
本能に響く声。
そしてその声は、怖じ気を誘発させた。
フィオレの怖気づきようは凄まじかった。
綱で繋がれていながら、ユーリから離れようとひたすらにもがきはじめる。その場から逃げ出そうと必死に身体を踏ん張っている。
そしてまたイシュメル達も、ユーリから一歩後ずさっていた。
生物の本能に訴えかける迫力に、足が震えていた。
時間と共にユーリの体から放たれる見えざる威圧が強くなり、空間を支配していく。
「――ユーリ、もう大丈夫だよ」
「――そうか」
しかし、そんな異常な空気もリリアーヌの一声によって霧散する。
ユーリの身体から放たれていた威圧の波動が失せ、平穏が戻ってきた。
「すまない! フィオレは気が立っているんだ!」
その後、アガサがフィオレと話し込み――ラ・シークである事を考慮してそう表記する――結果、ひとまずは丸く収まった。
◆◆◆
事態の急変があったのはそんなことがあってからさらに数時間後だった。
ユーリ達が荷を整え、ヴェール皇城を出ようとしていた。先行する斥候のやや後尾に陣取るべく、進軍しようとしていたのだ。
ヴェール皇城の門付近でエンピオネと言葉を交わしていたユーリたちのもとへ、ふと軽装のヴェール兵が飛び込んできた。
息を切らし、露骨に不穏な表情を浮かべる若い士官。
ユーリ達の見送りに来ていたエンピオネはその兵の顔を見て内心に緊張を敷き、そのヴェール兵が息を整えるのを見計らって訊ねた。
「どうした。なにかあったのか?」
「陛下! 陛下っ!! ジュ、ジュラール森林からっ!!」
ヴェール兵は言葉に詰まる。
「落ち着け、ジュラール森林がどうした」
エンピオネはそんな兵士の肩を軽く叩き、落ち着けと言い聞かせる。
そうして兵士は大きな唾を嚥下したあと、ついに重要な事実を紡いだ。
「ジュラール森林からルシウルの紋章旗を掲げた軍隊がっ!!」
「――なんじゃと?」
大きな動きで首を傾げるエンピオネを横目に、ユーリは思っていた。
甘かった、と。
北から来ると思われたルシウルの軍隊は、あろうことか皇都デルサス南部の〈ジュラール森林〉から姿を現した。
本来最も安全であるはずの方向から、ルシウルの紋章旗が。
――予想しておくべきだった。
ルシウルはかなり早い段階からこの軍隊派遣を考えていた。それはリングスの話からも分かる。
そんなルシウルが、馬鹿正直にまっすぐ攻めてくるだろうか。ヴェールがルシウル王国に面している北側に防衛線を張ることは馬鹿でも予想できるではないか。
それを知っていてわざわざまっすぐ来るだろうか。
いくらでも準備する時間はあった。
自分ならどうするか。
ユーリは即座に答えを出す。
――最もヴェール皇城に近い南側へ回り込むだろう……!
ジュラール森林は確かに深いが、時間を掛ければ回り込むことは可能だ。
ただコストが見合わないのだ。
『同時に開戦をした場合』は。
本来の戦争ならお互いに元首のいる王城や皇城、本拠地を守る。つまり自国と敵国の間に防衛線を敷く。
戦力に莫大な差があるのならまだしも、回り込んでいる時間などない。
回り込んでいるうちに薄くなったその防衛線を、破られないとも限らないからだ。
だが、先手を確実に打てるとしたら?
守る必要などない。
その先手の一撃で仕留めればいいのだから。
周到な用意。
完全に有利な状態からの開戦。
一手も二手も先手を取られた。
南部の一手が本命であるとすれば、
「――北からのルシウルの軍団は囮か!!」
ユーリが叫んだ。
こうなれば自分たちが北に行く意味はない。
一刻も早く南部に向かい、ルシウル軍の進撃を止めなければ。
ユーリの胸中には一計を見舞われた屈辱と、そして焦燥が蔓延していた。
「カージュ! 即座に兵達に伝令を送れ! デルサスの皇国民を出来るだけデルサス中央部に避難させるのじゃ!」
「御意!」
エンピオネの命を受けてカージュが皇城内に駆け込んでいく。
「エンピオネ、北からルシウル軍がまったく来ないとも限らない。北からの侵攻にも抵抗できるよう最低限の兵力は残すんだ」
「分かっている!」
ユーリの助言にエンピオネは荒々しく答える。誰よりも焦っていたのはエンピオネだった。
分かっている。分かっているのだ。
だが現にデルサスの皇国民が危険に晒されている。
焦らずにはいられなかった。
「俺達はすぐに出る。援軍は後発で良い。――おい、お前! 南に出現したルシウル軍の規模はどれほどだ!」
ユーリが伝令を伝えにきた兵士に問う。
「わ、分かりません……! ただし旗は十旗ほど……」
「さすがに旗だけじゃ詳しくは分からないが、一中隊か一大隊につき一個と考えると――」
加えて、森に身を隠しておける程度の人数であること加味する。
「いや、変に予想するのはやめるか。数を誤解させるのも策の一つかもしれない」
ユーリにはある程度の予想があったが、明確な数を規定することを避けた。
「見た方が早いな。――イシュメル! 行くぞ!」
「ああ!」
ユーリはイシュメルに声を掛け、そして馬の横腹を踵で小突いた。
◆◆◆
ユーリ達は南部から逃げてくる皇国民を器用に避けながら、馬を駆った。
彼らの表情を見れば、ジュラール森林側から攻め入ったルシウル軍がすでにデルサスの門を潜っているだろう事は容易に窺えた。同時に、それを見て馬の腹をより強く蹴ることしか出来ない自分達がひどくもどかしく思えた。
皇城からデルサスの南門までならばそれほど距離があるわけでもなく、アガサが自信を持って推薦した馬を駆れば、たいした時間もなく戦場部に到着できる。
だが、この時ばかりは門までの時間が長く感じられた。
三頭の馬が堅い石床の大地を駆けて行く。
ユーリは馬上でエスクード王剣を抜き去り、片手で手綱を握って馬を誘導する。
イシュメルもすでに片手に弓を持っていた。
アガサはリリアーヌを守るように抱きながら、やはり片手で剣を握っている。
手綱を握らずに〈荒馬フィオレ〉を乗りこなす様は、確かに〈ラ・シーク〉にしか出来ない芸当に見えた。世界で最もうまく馬を乗りこなす者〈ラ・シーク〉。まさしくその姿が伝説の証明であった。
そんなアガサを横目に、ユーリは再び前方に目を凝らす。
「早く――」
早く南門へ。
三頭の馬のいななきがデルサスの路地に木霊した。
◆◆◆
そしてついにユーリは捉える。
わずかばかり南部の警備割いていたヴェール兵の斥候と、その数を遥かに凌ぐルシウルの兵士が、剣を交えている状況を。
始まっている。――戦だ。
「イシュメル! アガサ! 激戦部には近づくな! リリィを守れ!」
ユーリが自分の後ろを走るイシュメル達の方を振り向いて叫んだ。
イシュメルとアガサがその言葉に大きく頷き、手綱を引いて馬の足を止める。
そして一人足を止めずに前方奥に見えている激戦部に突っ込んで行くユーリの背を見て――最後にリリアーヌが叫んでいた。
「ユーリ!!」
その名だけを。
対するユーリは背を向けたままで片腕を天に掲げ、「大丈夫だ」と力強くリリアーヌの言葉に応えて見せる。
リリアーヌはその後姿をいつまでも見ていた。
◆◆◆
ここからは戦場。
血なまぐさい最低の場所。
ユーリは馬上で意識を切り替える。
徐々に激戦部の人影がハッキリと見えるようになってきて、その戦闘の趨勢をユーリに予想させた。
――分が悪いな。
当然と言えば当然。
少しの希望を抱いてはいたが、そもそも数が違いすぎる。
ただし、兵士個別で見た時に大きな錬度の差がないように見えたのが、ユーリにとって唯一の救いだった。
――行くぞ、ユーリ・ロード・エスクード。戦場だ。
ここは戦場だ。
思い出せ。あの戦場を。かつて生き抜いた〈レザール戦争〉を。
――敵は斬れ。斬らないとお前の望みは消えるのだ。
いつだってそうだった。
この世界は戦乱の匂いが鼻につく。
平和な時代があったかもしれない。
でも今は――戦に彩られた世界だ。
――お前の望みは誰かの犠牲を必然とする。
だから――
「斬れ。邪魔なものは殺してしまえ」
そしてついに、ユーリの乗っていた馬が一人のルシウル兵の寸前にまで迫った。
◆◆◆
馬の蹄が地を蹴る音に気付いたルシウル兵は、即座にユーリに視線を向ける。
ユーリの行動に迷いはなかった。
ルシウル兵がユーリに気付いて剣を掲げるより早く、馬から飛び降りて石床に着地する。
同時、手綱を放したもう一方の手に、右の掌からさらなる剣を引き抜く。
〈黒剣ゼムナール〉。
右手に〈エスクード王剣〉を、左手に〈黒剣ゼムナール〉を握り、金と紅の三白眼を前方のルシウル兵に向けた。
ルシウル兵はこちらに走ってきている。
それを見たユーリは、一つの行動原理のみを頭の中に思い描き、力強く地を蹴った。
身体が高速で弾け、ルシウル兵へと一本の矢の如く進んで行く。
行動原理、すなわち――敵対者への『殺戮衝動』。
ユーリは戦場で修羅になった。
◆◆◆
忌まわしい戦乱の記憶が嬌声をあげて蘇る。
◆◆◆
一歩、二歩、三歩。
跳躍に近い歩幅で、凄まじい速度を保ちながらユーリはルシウル兵に近づいた。
目に映るのは兵士の鎧の左胸に刻まれた見慣れない紋章。天馬の肖像と、その下に文字が描いてある。――『ルシウル』と。
間違いない。
「――」
ユーリは目の前にルシウル兵に敵性の印を見つける。
対してルシウル兵はユーリの異常な身体速力に気付いて戦慄を抱いていた。
生物としての本能が危険を察知したのだ。
『アレ』と相対してはいけない。
だが、そのルシウル兵が危険を察知するのはあまりに遅すぎた。
残り十歩。跳躍染みた歩幅でその距離。
ユーリの身体速力を見れば、その距離はたいして余裕のある距離ではないことは容易に察せられた。
すると、残り数歩というところで不意にユーリの体が左右にぶれる。
ギャリ、と剣が地面を削る不気味な音を残し、一瞬のうちにその場から姿が消えた。
ルシウル兵は頬がヒクつくのを感じながらとっさに歩を止めてぐるりと辺りを見回す。
次の瞬間、少し離れたところでヴェール兵と鍔迫り合いをしていた『他のルシウル兵たち』から叫びがあがっていた。
アレは目の前の自分を後回しに、『もっと獲物が多くいる場所』を見つけて――方向を変えたのだ。
ルシウル兵はそのことに気付く、叫びをあげていた。
「後ろだ!!」
仲間に報せる。
しかし、その叫びを聞いた他のルシウル兵たちにはすでに残された時間がなかった。
彼らの背部に、銀色の髪を揺らす化け物が身を低く回りこんでいた。
◆◆◆
「逃げろ!」
一番最初にユーリを見つけたルシウル兵が二度目の叫びをあげる。
向こう側にいる仲間たちが次々と背中側から剣を突きこまれ、鎧ごと腹部を貫通させられていく様を見ていられなかった。
駆ける。
近づくが、あの化物はすぐに姿を消す。
「なんなんだッ!!」
そしてまた現れ、まるで薄っぺらい紙を刺し貫くかのようにルシウル兵の体を剣でぶち抜き――消える。
幽霊の方がずっとマシだと思えた。
物理的に身体を残骸にしていくあの化物より、幽霊の方がずっとマシだ。
その頃にはその場にいたルシウル兵たち全てが、ユーリが『いる』ことを認識していたが、どこにいるかは知覚できていなかった。
そしてまた、ユーリを同じ生物だとは認識していなかった。
「ああ……ああああああ!!」
仲間が次々と血にまみれている様子を見ながら、最初にユーリと見つけたルシウル兵が膝を折る。
意気が――折れた。
そして、
「ああああああ――っ」
彼の口から漏れていた叫びが唐突に途切れる。
彼は自分の腹から二本の剣が突き出ているのを見た。
「――――」
声が途切れ、意識が途切れ。
最後に彼が聞いた言葉は、
『いつかあの世で会おう』
そんな言葉だった。
そして暗くなった視界を最後に、彼の意識は途切れた。