25話 「決意」
その日、イシュメルはエンピオネに与えられた一室に帰ってこなかった。
ユーリは部屋の中で黙って椅子に座っていた。
しかし、物言いたげなアガサを見て、ついに自ずから口を開いた。
「なぜイシュメルが声を荒げたか――知りたいか?」
そんなユーリの言葉と視線を真っ向から受け止めて、アガサは言った。
「……私はあいつの事を知らな過ぎる。いまさらながらそう思ったよ。私に伝えてもいいと思うなら、教えてくれ」
神妙な顔つきでそう言うアガサを見て、ユーリは少し微笑を浮かべた。
「アガサは優しいな。イシュメルが好きになるわけだ。それでいて――強いな。人の心に踏み込むのは、俺だっていつも怖いよ」
「私だって怖いさ。でも、イシュメルの心だから。放ってはおけないんだ」
ユーリはアガサのその言葉に、感謝の念を抱いた。
迫害されることの多いエルフであるイシュメルにとって、きっと彼女の存在は暖かくすべてを照らす太陽のようであったのだろう。
「あいつは……イシュメルは――優しすぎるんだ。そしてその優しさがイシュメルの重荷にもなっているんだよ。そのせいで揺らめく決心、中途半端にならざるを得ない状態。――昔から何一つ変わっていない」
ユーリはついに話を切り出した。
「〈グラン聖戦〉は知っているか?」
「ああ」
「そうか」とユーリは軽く手で答え、また話を続ける。
「俺とイシュメルがまだ一緒にエスクードの西端にある〈エルフの森〉で遊んでいた頃、グラン聖戦の残党がそのエルフの森に攻め入ってきた事があった」
「――なぜだ? グラン聖戦はそんな直近の戦争じゃない。その時に戦争は終結していたんじゃないのか?」
「していたさ。残党と言ったろう。彼らはある意味被害者でもあるんだ。戦争の狂気にあてられて、歯止めが利かなくなった者達。『エルフを狩る』、ただそれだけを心の寄り代に、エルフの森を襲撃した。俺はその場に居たから鮮明に覚えている。リリアーヌは……どうだろうな。小さかったから、覚えていないかもな」
ユーリは虚ろな視線をリリアーヌに投げかける。
リリアーヌは悲しげな色を湛えた視線をユーリに返すだけで、声はあげなかった。
「俺達はその時野外で遊んでいた。それでイシュメルがエルフ特有の感覚器で宮殿方向に気配を感じ、俺はイシュメルに連れられて大急ぎでエルフ王の宮殿に戻った。その時――ちょうどイシュメルの母上が残党に襲われようとしているところだった」
ユーリの言葉にアガサが目を見開いた。
「運が、悪かったんだ。まっさきに残党と出くわしてしまったのがイシュメルの母上だった。病弱だったイシュメルの母上に、残党と相対するだけの力もなかった。呆然とするイシュメルを横に、俺は剣を抜き放って飛びかかった。だがいくら身体能力に優れるエスクード人でもあの時の俺は幼すぎた。敵わなかったよ。相手はグラン聖戦を生き抜いた兵だ」
ユーリの瞳に悲しげな揺蕩いが起こる。
「返り打ちにあった。殺されると思った。そして次の瞬間、残党の剣が俺の頬を掠め――『地に落ちた』。力なく、その手から落ちたんだ。俺に振り下ろされることなく。理由は単純だった」
◆◆◆
「残党が、イシュメルによって殺されていたからだ」
◆◆◆
「残党の腹部に空いた巨大な穴。空洞だ。イシュメルが放った魔術が残党の腹部を抉っていたんだ。――震えたよ。イシュメルは俺よりも早く侵してしまったんだ……踏み込むべきではない、その領域を」
「殺し……たのか……」
「ああ、やったのは間違いなくイシュメルだよ」
ユーリは確信を告げる。
「無意識だったろうさ。母の危機、俺の危機。イシュメルの掌に浮く古代エルフ文字の呪文。そして呆けたようなイシュメルの顔」
ユーリが虚ろな視線を宙に浮かべた。
「――それからだ、イシュメルが攻撃系の魔術をえらく忌避するようになったのは。誰よりも優しかった男が、今でもなお、己の所業を悔いている。仕方なかったと、何度も言い聞かせた。イシュメルがやらなければイシュメルの母上も俺も……死んでいた。仕方……なかったんだ……」
ユーリが自分の拳を強く握りしめている事に、アガサは気付いた。
「俺があの時もっと強ければッ! イシュメルが重荷を背負う事もなかったッ!! ――っ! なかったんだ……っ!」
ユーリは後悔していた。
ただひたすらに、イシュメルを想うがゆえに――
―――
――
―
◆◆◆
深夜だった。
ユーリ達がいる一室にカージュが駆けこんできた。
「ユーリ様! ルシウル軍が見えたと斥候から報告がありました!」
その知らせを聞いてユーリはゆっくりと立ちあがった。
「――来たか」
「行くの?」
「ああ、リリィには悪い事をするよ。また待たせることになって――」
ユーリが苦笑してリリアーヌに言った直後、そこへ声が舞い込んできた。
「ダメだよ、ユーリ。リリアーヌも連れて行くんだ」
皆が振り向く。
『イシュメル』。
イシュメルがカージュの後に部屋の扉をくぐってきて、声をあげていた。
「イシュメル! どこに行っていたんだ!」
アガサがまっさきにイシュメルに飛びついた。
ユーリは一瞬ホっとしたような表情を浮かべたが、すぐにそれを憮然としたものに戻す。その変化にリリアーヌだけが気付いていた。
「どういう意味だ、イシュメル。戦場になるかもしれない場所に、リリィを連れていけというのか」
「リリアーヌは君に必要なんだよ。リリアーヌに君が必要なんじゃない。『君にはリリアーヌが必要なんだ』。『歯止め』としての、リリアーヌが――」
ユーリも薄々は気付いていた。
幾度狂気に飲まれても、いつもリリアーヌの声で覚醒することに。
一種の病かもしれない。
戦の狂気に巻き込まれることで、一時自我を失う。
常人には測り知れぬユーリの狂気の顕れ。
ユーリも自身のそれになんとなく勘付いていた。
ただ、認めるのも少し、難しかった。
「だが戦場は危険だ。俺は俺がエルフ王に課された誓約と、そして俺自身の想いのためにリリィを守る。だから、戦場には当然連れて行きたくない」
「なら――」
そんなユーリの言葉に対し、イシュメルは強い意志の籠った声を返した。力強い声だった。
「『僕が守る』。ルシウル兵を――殺してでも」
「穏やかじゃないな」
「でも、そのとおりだろう?」
「お前はそれで……いいのか」
ユーリはあの時イシュメルを責めたが、今のユーリの声にはイシュメルに対する気遣いが強く表れていた。
そんなユーリの声に応えるように、イシュメルが少し自嘲するような笑みを浮かべ、
「僕は……大丈夫。守る為なら、耐えられるから」
そう言った。
イシュメルの決意は、確かにユーリに伝わっていた。
二人の沈黙と、その中での視線の交差があって、
「――分かったよ。なら、行こう」
ユーリが言った。
そこへ、
「ちょっと待ちな。あたしも行くからね」
突如として割り込んできたアガサに、皆が目を丸める。
アガサの言葉を聞いたイシュメルは彼女をなだめようとした。
「アガサ――でも――」
「言うなイシュメル。お前がユーリを助けるために傍らにいたいのと同じように、あたしはお前を助けるためにお前の傍にいたいんだ」
後に続いたアガサの言葉を聞いて、イシュメルは口を噤んだ。
その言葉に並々ならぬ決意が込められているように感ぜられて、余計口を出せなくなった。
対するアガサはさらに口を動かしていく。
「あたしは――」
決意に劣らぬ実力を示さなければならない。
臨むのは戦だ。
だから、助けたいとワガママを言っても、それが本当に役に立たなければ意味がない。
足を引っ張りたいわけじゃない。
助けられると、そう確信しているからついて行くと告げた。
ただ傍にいたいからと駄々をこねるほど、自分は子供ではない。そんな何かを求めるだけのような女にはなりたくなかった。
そしてアガサは切り出す。
持って生まれた、自分の力の秘密を。
「あたしは〈ラ・シーク〉だから――ちゃんとイシュメルの役に立てる。そう信じてる」
ラ・シーク。
通称、『完全なる馬との交信者』。
ある古代遊牧民の一族に稀に現れると言う異端者を指す名前。
遊牧民の中では英雄と讃えられるその能力者は、つまり――
『馬と話す事が出来た』。
種族の垣根を越えた能力。
ゆえに讃えられもすれば――虐げられもする。
「黙っていて悪かった。気持ち悪がられると思って……言いづらかったんだ……」
アガサは自分のことを話すのに、多大な勇気を消費した。
かつてそれによって虐げられた過去も、彼女にはあった。
だからせっかく築いたユーリやイシュメルやリリアーヌとの絆が壊れてしまわないかと、不安に思っていた。
しかし、
「そんなことない! 凄い力だよ! まさか実在するなんて!」
「心底驚いたな」
「えっ! 馬さんと話せる人!?」
アガサの懸念は早々に霧散した。
気持ち悪がる。――違う。
少なくとも、この仲間たちはそんなこと微塵も思っていなかった。
「お、おう。――だから、あたしがリリアーヌと一緒に馬に乗れば、リリアーヌの安全は絶対に保障する。リリアーヌが戦場に出る必要があるなら、あたしもリリアーヌを守るために、そしてイシュメルを手伝うために、前に出るよ」
アガサはユーリに言った。
ついてこさせるか否かは最終的にユーリが決めるだろう。
それもアガサは分かっていた。
均整の取れた健康的な小麦色の身体を伸ばし、アガサは立つ。
まっすぐにユーリを見据え、返事を待った。
「リリィを守り切る自信はあるか? 仮に軍馬とやり合っても、自分の身とリリィの身を守る自信はあるか?」
「舐めるんじゃないよ、あたしを捕まえられるのはあたしより優れた〈ラ・シーク〉くらいさ。それにあたしはあたしで、同じ〈ラ・シーク〉にも負けるつもりはない。どんな馬でも乗りこなして見せるし、その上でたとえ軍人相手でも騎馬能力だけは負けない」
ユーリはふと笑ってアガサに近づいた。
そうして彼女の肩をぽんと叩く。
「なら、『頼む』」
その言葉の重みが、アガサにも理解できた。