24話 「それぞれが立つ場所」
「怪我はないか?」
ユーリは両の掌に一本ずつ剣をしまい、エンピオネに近づいた。
「ああ……大丈夫じゃ」
エンピオネは服を掃いつつ答える。
事態が沈静化した所を見計らって、そこへイシュメルが口を開いた。
「これはどういうことなんだい、ユーリ。何がなんだか――」
「計画を中止しなければならなくなった。どうやらルシウル王国はすでにヴェールを奪うために独自で動き出しているらしい。独自っていうのはリングスとは別個で、という意味だ」
「というと?」
イシュメルはユーリに歩み寄りながら首を傾げる。
「軍隊だよ、イシュメル。ルシウル王国の軍事力だ。それがヴェールを最悪暴力で奪うために進軍してきてるらしい。リングスの話ではルシウルからの使者が明日辺りにヴェールに到着すると」
ユーリの説明を聞いてイシュメルは大きく目を見開いた。
「つまり――ルシウル王は最初から自分でヴェールを奪うつもりだった……?」
「おそらくな」
「とすると、リングスの内部からの皇座奪還は『保険』か」
「ああ。リングスが内部からヴェールを手に入れる事が出来ればそれでいいし、出来なくともその後『力』でヴェールを奪えばいい。そういう意味で、リングスはお払い箱に近いわけだ」
二人の会話を聞いているうちに、エンピオネも合点がいったように頷いていた。
「つまり、端的に言って――『戦争』か」
「――ああ」
暗鬱とした表情を浮かべたエンピオネに対し、ユーリは率直な頷きを返した
「だからこそ、ここでエンピ姉を傷つけるわけにはいかない。エンピ姉はヴェール皇国の元首としてルシウルに対抗しなければならないからだ」
エンピオネの表情はさらに痛々しげに曇っていった。
「どうしても……なのかのう……」
「ルシウルはすでに軍隊を送り込んでいるんだ。それに対抗するも、服従するも、エンピ姉次第だが……」
服従は、ありえないだろう。
「服従は当然できぬ。だが――戦争か……」
エンピオネは戦を経験したことがない。
ましてや一国の元首としての立ち振る舞いすら理解しきっていないのに、どうして戦の指示がとれようか。
エンピオネの危惧は戦争そのものの悲惨さにもあったし、同時に自分が背負わなければならない重圧にもあった。
内心の不安は容易に掻き消せるものではなく、見えない重圧はエンピオネにのしかかった。
ユーリとてエンピオネの内心は分かっていた。
だからこそ、すでに自分の身の振り方を決断していた。
「退けないのなら、立ち止まってでも戦うしかない。――だけど、お互い一国の元首としては未熟な身だ。自分が元首として戦に参戦しなければならない重圧は、俺もよく分かる。だから――『俺も手伝うよ』」
ユーリは言い切った。
その言い切りが、エンピオネにとってはなによりもありがたかった。
エスクードとヴェールはまだ正式には同盟を結んでいない。
エスクード現王としての地位をその身に纏っていながら、これほどまでに簡単に事を進めてしまうユーリは、ある意味で異端なのだろう。そうエンピオネは思った。
互いが国家の元首である以上、その一人の身の振り方で国が動く。
それなのに、ユーリはたいした時間もかけずに決断を下した。
奔放。
悪く言えば浅はか。
しかし、ある意味、取り巻く環境に良い意味で振り回されず、己が目とその判断力で道を突き進むこの男は、理想の王になる可能性を秘めているのかもしれない。
その貫いた道が正道であれば、この男は理想の王になる。
しかし貫いた道が真逆の邪道であったなら、この男は愚王になる。
その結果はいずれ分かる。
選択に真実はなく、まして答えもない。
ならば今は、劇的な動きが必要な今は、この男と手を取り合うのも悪くないのかもしれない。
「――『頼む』」
エンピオネは短く、そう答えた。
ユーリはエンピオネの答えを聞き、流麗な笑みを浮かべた。
「ああ、必ず役に立って見せる」
そうしてユーリは気絶しているリングスを片手で持ち上げた。
「さて、そうと決まれば早々に準備しないとな」
時間はない。
ヴェール皇国がこれまでにないほど――大きく脈動した。
◆◆◆
エンピオネの部下たちはリングス派の面々を次々に確保し、皇城地下の牢屋にぶち込んでいった。
同時に、皇国民に現状を伝えるべく使者を各街に遣いやる。
混乱は承知の上。
されど、なんの情報も持たぬ民がルシウルからの軍隊と鉢合わせれば、それ以上の混乱は必至だった。
素早く、ひらすらに早く、国の態勢を整えなければならなかった。
この半世紀、戦に関わることがなかったヴェール人達は、突然の一報にどんな反応をするだろうか。
結果は時間の経過と共に分かるだろう。
◆◆◆
ユーリ達一行は国政に関しては手を出すことが出来ないので、一時エンピオネやカージュと別れ、皇城内の一室に戻っていた。
イシュメルは考え事をしているような表情で佇み、アガサはいつも通り快活な気を纏っていたが、時折ユーリの様子を窺っていた。
リリアーヌは暗い表情のまま、ユーリの服の裾を掴んでいる。
先ほどの光景は、アガサとリリアーヌ、互いに違う意味で重くのしかかっていた。
イシュメルとて、アガサの異変には気付いていた。
彼女にとって、『先ほどのユーリの姿』は刺激が強すぎた。
冷徹にして残酷。
人を躊躇いなく殺す悪魔のような。
イシュメルですら、そんなユーリに戦慄を抱いた。
だから、アガサの場合はなおさらだろう。
ユーリは淀んだ場の空気を察知していた。
そしてふとその脳裏にかつてのイシュメルの言葉が浮かんできて、
「――イシュメル、今ならはっきり答えられる」
ユーリは口を開いていた。
「何にだい?」
イシュメルが不安げな顔で訊ね返す。
「イシュメル、お前が俺に言った言葉にだ」
◆◆◆
「俺は――ここにはいない」
◆◆◆
ユーリは言った。
「俺は、あまりに長い間戦場に居過ぎた。戦場に渦巻く狂気に当てられ続けた。――さっきので確信したよ。俺は『そこ』に居た。そこに置いてきてしまったのかもな。戦場に埋もれる前までの俺を」
ユーリは自分の銀髪に触れながら、自嘲気味に笑ってみせた。
その顔がイシュメルには儚く映った。
だからイシュメルはとっさに言葉を紡いでいた。
「違うよ、ユーリ。それは違う。僕もさっきので確信した。――君は『ここ』にいる。『リリアーヌの傍ら』に、ちゃんといる」
イシュメルはそう言ってユーリに近づいた。
思いもよらない言葉に、ユーリは唖然とする。
リリアーヌの傍らに。
即座に理解することは出来なかった。
ユーリはリリアーヌが強く服の裾を引っ張るのを感じながら、沈黙する。
「リリアーヌの叫びは、君に届いていたからね」
イシュメルが優しくユーリの肩を叩いた。
叫び。
リリアーヌの――叫び。
「君が本当に戦場に自分を取り残してきてしまったのなら、リリアーヌは今ここにはいない。僕の方が浅はかだったよ。リリアーヌの存在が君を証明していた。どうしてすぐに気付かなかったのだろう。君はあの時の君のまま、ここにいるという事に」
イシュメルは白い手をユーリの頬に添えた。
「確かに、君は戦場に長く身を置き過ぎた。狂気が巣食っていないとも言い切れない。でも――大丈夫。僕は君を傍に感じているよ」
イシュメルの言葉はユーリの心に強く響いた。
「大丈夫だよ、『ユーリ』。私はユーリを見てるよ。ユーリがここにいるって、ちゃんと分かってるよ」
ユーリはリリアーヌの声を聞いた。
「俺は――」
◆◆◆
黒い荒野に咲き誇る一輪の花の存在に、ユーリはようやく気付いた気がした。
◆◆◆
「アガサも、分かるだろう?」
ふとイシュメルがアガサの方を振り向いて、俯き気味な彼女に言った。
するとアガサは表情を緩め、イシュメルの言葉に答えた。
「……ああ、分かるよ」
美麗な顔を涙で濡らしているユーリを見たら、アガサの口にはその言葉しか浮かばなかった。
―――
――
―
◆◆◆
翌日、皇都デルサスはユーリ達の予想とは違った表情を見せていた。
混乱。
確かに混乱はあった。
しかし、『些細』だった。
代わりに浮き彫りになってきたのは、ルシウル王国に対する怒りであった。
エンピオネがこれまで積んできた女皇としての信頼が、ここに来て華を咲かせた。
エンピオネを、強いては先代皇帝を裏切ったルシウルに対する皇国民の怒りが、その日爆発した。
ユーリ達はエンピオネに呼ばれ、皇室に足を運んだ。
疲れ切った表情のエンピオネだったが、その瞳にはいつもの強い意志が秘められていた。
「一応の防御姿勢は取れたみたいだな、エンピ姉」
「うむ、わらわも不謹慎ではあるが、今回の民たちの奮起に喜びすら感じる」
「そうだな」
ユーリは笑みと頷きを返した。
「それで、斥候は出したか?」
「ああ、昨夜にな」
しかし、ゆっくりと感慨にふけっている暇もない。
ユーリはすぐに情報を求めた。
「で、状況は?」
「まだ変化はないようじゃ。ルシウル軍が見えたとの報告はない」
「――そうか」
エンピオネの指示はなかなかだ。
即時に斥候を出したのは良い判断だっただろう。
ユーリは一度頷いてさらに続けた。
「今から北の国境線、つまりルシウルとの国境線までどれくらいだ」
その問いに答えたのはいつものようにエンピオネの斜め後方に控えていた茶髪の青年――カージュ・ヴェスピオレだった。
「駿馬を使えば半日と少しで着けます」
「半日か……。ちなみにリングスに尋問をかけたか?」
「はい。しかしルシウル軍を呼び込んだこと以外には何も……」
「たぶんそれ以外について何も教えられていないんだろう。まあ、引きだせた真実がそれだけというのなら、どうあれ、これだけは決まりだ」
ユーリは大きく息を吸って、そして言った。
「――戦争は始まる」
厳然たる予想。
降り懸かるであろう事実。
「戦か……」
エンピオネは悲痛に呟くことしかできなかった。
「俺は最前線に出よう。エンピ姉は――自陣深くで待機していてくれ」
「――っ! わらわも戦える!」
エンピオネはとっさに椅子から立ち上がって抗議したが、ユーリはエンピオネの声を断固として受け入れなかった。
「ダメだ。大将は前へ出るな」
「先代エスクード王は大将でありながら最前線で戦っていたのじゃろう! わらわとてっ――!」
「前言を撤回しよう。『躊躇なく人を斬れない奴』は前へ出るな」
「――っ!」
見抜かれた。
エンピオネは心臓が浮く感覚を得た。
エンピオネの武力は高い。
武術としての強さは女としては一級品だ。
だが、
「戦は競技じゃない。エンピオネ、『お前には無理だ』」
ユーリの鋭い視線に、エンピオネは反抗することができなかった。
すべて、真実なのだったから。
『戦を経験したことがないという事実は、これ程までに枷となるのか』エンピオネは内心に悔しさを得ていた。
そしてその悔しさに紛れて、わずかばかりの安堵が浮かんでいたことに、またエンピオネは悔しさを感じた。
そんな内心の葛藤に苦しむエンピオネを慰めるように、ユーリが言葉を続ける。
「それに、前線に出る事だけが戦じゃない。エンピ姉にはエンピ姉のやるべき事がある。それを理解してくれ」
「……分かった」
エンピオネはついにユーリの声に頷いた。
安堵と苦渋にまみれた、葛藤の末の頷きだった。
◆◆◆
ひとまずエンピオネの身の振り方が決まったところで、今度はユーリがイシュメルに声を掛けていた。
「イシュメル、お前はどうする」
そんなユーリの問いにイシュメルは頼りなさ気な笑みを返す。
「僕は負傷したヴェール兵達を介抱するよ。少しは役に立つ筈さ」
「――」
苦笑。
しかし、それを受けたユーリは少しも笑っていなかった。
いつもなら同じような笑みで「そうか、分かったよ」とでも返しそうだったが、その時ばかりはユーリの顔に笑みなど浮かんでいなかった。
それはユーリが、イシュメルの笑みからとある事実を悟ってしまったからだった。
「お前――まだ逃げているのか」
一言。
その言葉の直後、イシュメルの表情が固まる。
「逃げているわけじゃ――」
「前線に立てる力を持っていながら、なぜそれを拒む」
「――っ! 僕は戦に望んで参加するわけじゃない!!」
アガサは初めて聞き、そして見た。
イシュメルが怒気を露わにするのを。
ユーリはこれまでにないほど冷めた視線を、イシュメルにぶつけた。
しかしその一瞥のあと、まるでイシュメルを見限ったようにして皇室を出て行った。
「――違う、そう言うつもりじゃ……」
イシュメルはうなだれたまま、その後を追ってふらふらと部屋を出て行った。
◆◆◆
イシュメルは人通りの少ないヴェール皇城の廊下の隅で、壁に背を預けて座り込んでいた。
力なくうなだれた顔に、虚ろな瞳。
イシュメルは内心の逡巡を追っていた。
「いつからだろうか……」
――魔術を使うのが怖くなったのは。
◆◆◆
ユーリについて行く事。それは自分で望んだ事。
ユーリを助ける。それは自分で望んだ事。
ユーリが自分の為にヴェール側に加担して戦争に臨もうとしている。
なら、迷う必要なんてない。
共に前線に立つべきだ。
だのに、怖れが足を竦ませる。
――覚悟がないのか。
「殺されるかもしれないという状況にたいしては、覚悟を持っている」
覚悟を常に傍らに置くように父に言われてきた。
エルフは人間と相入れていない。
戦の系譜は長く、多岐に渡る。
現状その敵対関係が変わったという朗報もない。
戦があれば、同胞を守るべく戦う。
「だから覚悟しておけ――死ぬ事を」
そして――
『殺す事』を。
◆◆◆
「僕に足りないのは……殺す覚悟か」
◆◆◆
―――
――
―