23話 「修羅の残像」
次の日。
ユーリはリングスに連れられてエンピオネ派との会談の場所へと歩いている最中だった。
しばらく歩き、皇城の通路を幾度も曲がって、ようやくリングスが足を止める。
引き連れている部下はユーリを除いて二人。
どちらも黒装束を身にまとっていて、目深にかぶられたフードのせいで顔を見ることも叶わなかった。
その二人に嫌な気配を感じながら、ユーリは遂に会談の一室へと足を踏み入れる。
エンピオネたちが待っているであろう、偽りの会議場へ。
◆◆◆
「遅かったな、リングス」
部屋に入って早々、そんな声が宙を舞った。
声が飛んできた方向に目を向ける。
緑の髪を背中で一本に結んだエンピオネが長机の奥に座っていた。
その美しさはさることながら、赤紫色の瞳がいつにもまして強大な意志を秘めている。
隣にはゆったりとした高官の服を着ているカージュが立っていた。
そして――見慣れた格好のイシュメルとアガサ。
その二人に守られるように挟まれている――リリアーヌ。
ユーリは彼らに一瞥をくれて、しかし必要以上には視線を向けなかった。
対するリングスはその面々をじっくりと観察してからエンピオネの方に向き直る。
やや訝しげな表情を浮かべていたが、もはや見慣れない人物に構っている暇などないのだろう。特段に興味を示したわけではなかった。
「ご機嫌麗しゅう、我が妻、エンピオネ」
リングスが片膝をついて挨拶をする。
「反吐が出る、二度と私を妻と呼ぶな」
「ツれないですね」
「黙れ。会談の席は作った。早々に本題の話を始めようではないか。お前との他愛ない言い合いは生産性どころか娯楽の要素すら含まないからな」
「ええ、そうですね。では始めましょう」
リングスが設けられた椅子に腰を下ろした。
二人の間にあるのは十数人の晩餐のために作られている大きく長い机。
互いに手は届かない。
ゆえに、まさしく言葉での争いのために最適な机だ。
ユーリはリングスの隣に立った。
「さて、単刀直入に言いましょう」
先に切り出したのはリングスだった。
大きな身振り手振りで劇役者のように声を放つ。
「そろそろ――決着をつけようではありませんか」
「……」
エンピオネはその言葉に特段に反応はしなかった。
わずかばかり目を細めるのみだ。
対してリングスは大げさな身振りを続けながら、言った。
「――私に『皇座』を譲っていただけませんか?」
「私を愚弄するか、リングス」
エンピオネが機嫌を悪くしたように顔を顰める。
リングスの胡散臭いまでに物腰柔らかな雰囲気は、まだ崩れない。
「いえいえ、しかしあなたのやり方はいささか『もったいない』と思いましてね。せっかくルシウルと同盟を組んだのに、あなたはそれを一向に活用しようとしない。これでは我々が婚儀を経たことも無駄となってしまいます」
「もう一度言うぞ、リングス。私は貴様と婚姻したとは認めていない」
「ははあ、これは困りましたね。そうはいっても、外交上私とあなたは夫婦だ。これは紛うことなき事実なのですよ?」
リングスが髪を掻き上げた。
傍から見ても、癇に障る声色と仕草だった。
しかし、そんな粘りつくような仕草のあとに、唐突に場の雰囲気は転換した。
リングスがついに手を打ったのだ。
ふう、と軽く息を吐いて、リングスはエンピオネを見据えた。
表情はまだ笑みだったが、どこか妖しさのある笑みに変わっている。
そして、ついにリングスは言った。
「これでは埒があきませんね。――仕方ない、ならば少し強硬手段に出ましょう」
「ほう、やってみろ」
対するエンピオネも、そんなリングスを挑発する。
直後――リングスが吼えた。
「――ならば! 力ずくであなたを皇座から引きずり下ろして差しあげよう!」
吼えたと同時、リングスが三回机を指で小突いた。
それがユーリたちに動くよう伝える合図だった。
◆◆◆
ユーリが机に足をかけ、一瞬の動きで飛び乗り、右掌から剣を抜き放ちながら一直線にエンピオネに向かっていった。
エンピオネもそれに気付いて傍らに立てかけておいた剣を鞘から抜き放つ。
そうして受けに回るどころか、エンピオネも机に飛び乗ってユーリに向かっていった。
「――っ!」
二人の猛者が机上でぶつかった。
ユーリの初撃。
居合気味の斬撃を繰り出す。
エンピオネはそれを軽い身のこなしで後ろに下がって避け、即座に反撃に移った。
袈裟切り。
振り下ろされた剣が風を切る。
ユーリはそれを剣の刀身を使って受け流し、エンピオネの態勢がほんの少し傾いたところへすかさず中段蹴りを叩きこんだ。
(――入る)
ユーリは蹴りがエンピオネに当たる事を確信し、意識的に『力を弱めた』。
「くっ!」
それでも、ユーリの蹴りを横腹に受けたエンピオネの体は浮き、机の上から吹き飛ばされた。
そのまま壁に激突し、カージュの足元に這いつくばる。
「よし! いいぞ! やってしまえ!」
リングスの歓声が会議の間に響いた。
しかしユーリが加減をしたのが功を奏し、エンピオネはすぐさま立ちあがる。
そして歓声をあげるリングスへ三白眼を叩きつけていた。
黙っていろと言わんばかりの鋭い視線に、リングスの身をビクリと震わせる。
その間、ユーリが机の上から跳躍し、空中で剣を構えて追撃の姿勢を見せていた。
エンピオネは今度はそれを完全に受ける態勢に入った。
狭い空間での鍔迫り合いが始まる。
エンピオネは必死だった。
ユーリの力量が自分より上であろうことは意識していたが、思っていた以上にユーリはもっと上層の存在に感じられていた。
力量には明確な差があったのだ。
先ほどの中段蹴りで思い知らされる圧倒的な経験差。
絶妙ないなしからの絶え間ない蹴り。
本来なら見逃しても咎められないほどの微細な隙を、ユーリは臆すことなく突いてきた。
強い。
端的な感想が鍔競り合いをしながら胸中に浮かんでいた。
と、鍔迫り合いの最中にユーリが突然口を開く。
エンピオネにしか聞こえないほどの小さな声で、ユーリが言葉を紡ぎ始めていた。
「エンピオネ、計画は中止だ。すでにルシウルから軍団が送り込まれてきている。到着は今日か明日。リングスはお払い箱である可能性が高い」
「……っ」
エンピオネは安易に答える事が出来ない。
リングスが見ている中、拙い行動を起こせば不自然さに気付かれてしまう。
ユーリの力を受けるので精一杯なエンピオネには、言葉を紡ぐほどの余裕がなかった。
「いいか、この攻防を続けたまま、ゆっくりとリングスの方に後退しろ。俺が奴の両脚を壊す。殺してしまえばルシウル王の思う壺かもしれないが、かといって生かしておけば何をされるか分からない。脚を壊せば容易には動けないだろう。その上で牢にでも繋いでおけ」
ユーリがそう言い切った瞬間、リングスが大声を上げた。
「さすがに強いか……おい! お前らも加勢しろ!」
それはユーリ以外の刺客としてリングスに付き添っていた黒装束への言葉だった。
黒装束の二人はリングスの指示を受けると軽い身のこなしで机の上に跳び乗り、反対側にいるエンピオネに向かっていく。
ユーリとの攻防で精一杯のエンピオネ。思わぬ加勢に彼女の顔が青ざめた。
そして――
「――やめだ」
今度はユーリの声が響いていた。
その言葉は部屋にいる皆に聞こえていた。
「もう三文芝居はやめよう」
そんな言葉が紡がれた瞬間、エンピオネはユーリの表情と雰囲気の変化に気がつく。
競り合って苦しそうだった表情が、ユーリの顔から消える。
右眼が一度瞬きをして、直後、その瞳が金色に変わっていた。
身に突き刺さるような殺気がユーリの身体が放たれ始める。
エンピオネの背を悪寒がなぞった。
途端、エンピオネの剣を握る手が不意に軽くなった。
ユーリが鍔迫り合いをやめ、二人の黒装束の方へ反転疾走したのだ。
「おい! 貴様ッ! 何を!」
リングスが状況の変化に気付くと同時に叫ぶ。
黒装束も不意をつかれたように机の上で脚を止めた。
が、ユーリの脚は止まらず。
先ほどまでとは一線を画す異常な速力で、片方の黒装束に近づいていく。 そして躊躇うことなく――剣を黒装束の身体に突き刺した。
「ぐぅっ――」
からん、と黒装束の手から短剣が落ち、地面に当たって音を奏でる。
ユーリは淡々と黒装束から剣を抜き去り、もう一方の黒装束と向かい合った。
「貴様密偵かッ!!」
「――」
答えず。
ユーリは剣を右手に持ち替え、剣を持ったまま今度は左掌からエスクード王剣を引き抜いた。
溢れだす光に目を奪われるリングス。
そして、その掌から姿を現した剣の柄を見て、また叫んだ。
「竜の紋章――〈エスクード紋章〉だと!? 貴様ッ……何者だ!!」
柄に刻まれた竜の紋章が、リングスの目に焼きついていた。
それは没落した王家の紋章。その成立が〈竜族〉と関わっていると言われる、あの〈亡国〉の紋章。
「答えろ!!」
しかし、対するユーリはリングスの動揺に目もくれず、両手に一本ずつ剣を持ってゆらゆらと漂い始めていた。
右に、左に、柔らかく動くユーリの体。
剣を持っている手もだらんと力なく、体と同じようにゆらゆらと漂っていた。
剣は地面を擦っており、構えなど到底とっているようには見えなかった。
まるで防御する姿勢さえ見て取れないユーリの構えに、黒装束が意を決して反攻する。短剣を構え、ユーリに向かっていった。
が――直後、黒装束の視界からユーリがふと『消える』。淡い残像を残して、銀髪の男が視界から消え去った。
黒装束は瞬きすら忘れ、ユーリの居場所を探した。
「あっ――」
あがったのはエンピオネの短い声だった。
同時、黒装束も己に起きた異変に気付く。
自分の腹部から、二本の剣が突き出ていた。
「えっ――」
間もなく引き抜かれる剣。
意志とは関係なく、そして際限なくあふれ出る赤い液体。
黒装束はそれを止めることもできず、衣装を血に湿らせながらガクリと机の上に倒れ臥した。
「何が――」
リングスの震える声が最後に鳴る。
ユーリは剣についた血を払う事もせず、机の上から愕然とするリングスを見下ろしていた。
金と紅の冷たい視線がリングスを射抜く。
そしてまた――ユーリの身体がゆらめきはじめた。
ゆっくりと、足音も立てずに揺らぎながら、どんどんとリングスに近寄っていく。
剣が地をこする不気味な音だけが、その部屋に響いていた。
「ひ……来るな!」
リングスは声を裏返らせて後ずさる。
しかしユーリは止まらない。
「来るな――来るな来るな来るな!」
リングスの叫びは虚しく木霊する。
地を這いずる剣の鳴き声に遮られながら。
エンピオネはその様子を見ている事しか出来なかった。
直感する。
あれが本来のユーリの姿なのだと。
両の手に一本ずつ剣を握り、陽炎のようにゆらゆらと漂いながら、標的を淡々と抹殺する。
声もなく、表情もなく、まるで物を壊すかのように――無慈悲に。
脚が竦んでいるのが分かる。
今さらながら、先ほどまでそのユーリと剣を交えていた事にエンピオネは恐怖した。
そんな事を考えている間に、ユーリの体がまたも霞む。ゆったりした動きからの急加速。異常な速力。
リングスの眼はユーリの動きに追いついていなかった。
そして。
今、ユーリがリングスの後ろから二本の剣を交差させるように繰り出――
◆◆◆
「ユーリッ!!」
◆◆◆
部屋に響いたのはリングスの肉が抉られる心地悪い音ではなく、一人の『幼子』の甲高い声だった。
その声に反応したのか、あの無表情だったユーリの顔に微細な変化が訪れ始め、遂には双剣の動きまでもが鈍り――
止まった。
リングスは背後にユーリの存在を見た瞬間にその場で気絶し、膝から崩れ落ちた。
ユーリはその様子をじっと見て、ようやく我に返ったように周囲を見回した。
「――危なかった」
自 分を咎めるような声色で吐いた言葉が、エンピオネの耳に残った。