19話 「麗国の兵士と銀の猛者」
ユーリがヴェール城に住み込み始めて四日目。
その日ユーリの姿は皇室にはなく、代わりにヴェール城内部の兵士訓練所にあった。
ユーリがそこを訪れた理由は二つあった。
一に、これから同盟を組むにあたっての、ヴェール皇国の軍事力を知っておきたかった。
マズール等の大国の裏にヴァンガード協定連合の姿が見え隠れする以上、やはり戦事は避けられない。
そう考えると、同盟国の軍力に関してもある程度情報を仕入れておかねばならない。
二に、単純に現状のヴェールが内紛状態で、エンピオネ勢力に荷担しているのを理由に、「ちょうどいいから」とエンピオネに助言を願われた。
ヴェール皇国はここ半世紀ほど戦を経験していない。
隣国は同盟を組んでいるルシウル王国であったし、南はミロワール運河によって遮られているので、わざわざ運河を渡ってまで戦を仕掛けてくる国はほとんどなく、戦の心配をする必要があまりなかった。
それでも戦とは予期して起こる場合と起こらない場合がある。
特に、天然資源に恵まれているヴェールは、今でこそ隣国の神経を逆なでしない無難な貿易によって平和を保っているが、いつそれが崩れるとも限らない。
そういうわけで、一応という形でヴェールでも軍事力の育成はなされていた。
だが、
「振りが遅いし軽い。もっと全身の力を剣に集めて振れ。こんな軽い剣では余程力がなければ人は叩き斬れないぞ」
やはり戦を経験していないという不利が、ユーリの目の前の兵士たちに顕れていた。
ユーリは訓練場で剣を振るヴェール兵たちに声を飛ばしながら、その錬度を確かめていく。
エンピオネの強引な方策で、ひとまず客員教練者という立場を得たユーリは、今のところ周りの目を気にすることなく姿を訓練場に晒していられたが、現状ではそれすらも危うく映る可能性はあった。
エンピオネ側の兵士たちが、なにやら客員教練者を呼んで訓練を。
言おうと思えばいくらでも難癖はつけられる。
――いまさら難癖がつけられたところで、どうってことはなさそうだが。
一触即発はどちらも分かっていることだ。
現在策を準備中であるから、あえてそこを突きはしないが、必要以上にピリピリするのも馬鹿らしく思えていた。
ユーリは兵士たちに意識を向け直す。
最初は懐疑的な視線を向けてきた兵士たちだが、兵士たちの中で特に実力の高い者がユーリによって軽くあしらわれたのを見て、すぐにユーリに対する姿勢を改めたようだった。
そんな露骨な方法を選んだのもエンピオネの差し金だ。
結果的に、ユーリの圧倒的な武力に魅了された兵士たちは望んで教えを乞うた。
――兵団の大半はエンピオネ派ということらしいが、リングス側は真っ向からの物理戦になった時、何か方策があるのだろうか。
その場にいるヴェール兵士は皆エンピオネ派を自称している。
ユーリとしても現状を知っている兵士を教えるくらいなら気は楽だった。
そんな中、思考を巡らせつつ訓練場をぐるりと回っていると、ふとユーリの耳を声が穿った。
「ユーリ様、手合わせをしていただけませんか!」
ユーリが声のする方に視線を向けると、そこには紅く短い髪を生やした一人の若者がいた。
出逢ったばかりで兵士の顔にも見分けがつかないところであったが、ユーリはその若者のことだけはよく覚えていた。
自分に圧倒された上で、再度しつこく手合わせを申し込んでくるのがその若者だけだったからだ。
「ああ、紅いツンツン頭か。――そうだな、じゃあ訓練が終わったらな」
「ありがとうございます! ――あっ! それと私には〈ヨキ〉という名があります! どうかお見知りおきを!」
一言で言えば、〈ヨキ〉という若者はその髪の色と同じように熱い人物だった。
歳はユーリと同じ二十らしい。
しかし、ユーリとヨキの間に年齢の差はなくとも、そこには明確な権力差というものがあって、ユーリ自身はその権力差を嫌ったが、ヨキの方はユーリに敬意を払っていた。
そこには権力上の形式的な敬意以上に、ヨキのユーリに対する『憧れ』のようなものが含まれているように感じられた。
ヨキがユーリを見る目はいつも輝いている。
ユーリが軽く答えると、ヨキは少年のような目を輝かせて持ち場に戻った。その顔には心底楽しそうな笑みがあった。
◆◆◆
一時間ほどして、訓練が終わる。
兵士たちがぐったりしている中、ヨキだけがまだまだ身体を弾ませて、そしてユーリに近づいていっていた。
「ユーリ様! 手合わせを!」
ヨキの声にユーリが振り返る。
「ああ、そうだったな」
そういうと、ユーリはぐったりしている兵士の一人に近づき、一言いってその腰の剣を持ち出した。
「借りるぞ」
息も絶え絶えに頷く兵士。
他の兵士達もヨキとユーリの手合わせに合わせて、場を空ける。
そんな中、少し体力が回復した一部の兵士がヨキに声をかけていた。
「ヨキ坊! 頑張れよ! ――勝てないだろうけど!」
「はいっ!」
皮肉にも全力で答えるヨキに対して、ユーリは好感を抱いた。
四方二十メートルくらいの空間が空いて、ユーリとヨキが対角線に立ち会う。
ヨキは打ち合い用の木刀を構え、その顔に笑みを浮かべていた。
「ユーリ様、行きますよ!」
「ああ、いつでも構わないよ」
ヨキの合図にユーリが頷く。軽く木刀を持ち上げて、ヨキの攻撃を待つ体勢を見せた。
ユーリが構えたのを見て、ヨキが攻勢を仕掛ける。
カーブを描き、回り込むようにユーリに走り寄った。
剣は下段構え。
剣の切っ先が地面を擦った。
対するユーリは、下段から振り上げられるであろう斬撃を迎え撃つために剣を下段で横に構える。
「――っ!」
だが、あと一歩というところまで迫って、ヨキが剣筋を強引に変えた。
腕力のみで軌道を変えたのだろう。
下段からの斬り上げかと思われた斬撃は、中段の横一線の斬撃になってユーリに襲いかかった。
「――悪くない」
しかしユーリの反応も速く、即座に横に構えていた剣を縦に構えてヨキの斬撃を受け止める。
木と木が打ち合うからんとした音が訓練場に響いた。
そしてまたヨキが間を取り、次の攻撃への隙を探す。
視線は揺らめく。
「やっぱりユーリ様はとてもお強いですね! かなり――かなり憧れます!」
「正面からそういわれるとなんだか照れるな。お前の言葉は真っ直ぐすぎる」
ユーリがヨキに苦笑を返した。
当のユーリも決して気を抜いているわけではなくて、ヨキの動きをよく観察していた。
そうしてユーリがヨキに対して抱いた思いがある。
一言で言うと、ヨキには『武の天稟』があった。
ヨキ自身の基本的な性格は純真そのもので、少年のようだというのはユーリも含めてその場にいた者たちが抱いている印象だが、それに付随するかのように、ヨキには一つの特質があった。
教えれば、即座にそれを吸収していくのだ。
不純物を含まないまっさらなキャンバスにインクを一滴垂らすようなイメージが、ユーリの頭の中に浮かんでいた。
垂らしたところからインクが一気に吸収されて、キャンバスが染まって行く。
「行きますよ!」
ユーリの頭の中のイメージはヨキの声で切り裂かれた。
ヨキが走り寄ってきて、今度は上段から剣を振り下ろしてくる。
ユーリはヨキの剣を受け止め、そのままの状態で剣を片手に持ち替えつつ、空いた片手でヨキの鎧に掌打を打ちこんだ。
「――んぐっ!」
ヨキの胸部に打ち込まれたユーリの掌打は生身の掌打とは思えないほどの威力をもっていて、ヨキの防具をべきりと凹ませる。
ヨキはくぐもった悲鳴をあげつつ後退した。
その額には大玉の冷や汗が浮かんでいるが、それでもヨキの目からは闘志が消えなかった。
「――まだまだっ!」
ユーリの掌打を受けてもヨキは攻め入った。
上段からの振り下ろし、下段からの斬り上げ、中段のフェイントを織り交ぜた逆側からの袈裟切り。
しかし、どれもこれもユーリの剣に遮られて、服に傷をつけることすらままならなかった。
緊張が支配している中、それゆえにいつもより早く訪れる息切れ。
ユーリがヨキの疲れを見逃すわけもなく、今度は攻勢に転じる。
一歩。
たったの一歩でヨキとの間合いを詰め、剣ではなく再びの掌打を繰り出した。
「はっや――」
胸部から腹部に鎧、鉄の脛当て、同様に鉄の籠手、合計すればヨキの体格には不相応の重さになっているのにも関わらず、ユーリの掌打はヨキの体を易々と宙に浮かばせ――吹き飛ばした。
訓練場の地面を転げまわるヨキ。その身体は二人の手合わせを観戦していた他の兵士たちの群につっこみ、「うおっ!」「あぶねっ!」などの悲鳴を誘発していった。
その様子を見ながら、ユーリは笑みを浮かべていた。楽しげな笑みだ。
「まあまあだな」
ヨキの体がようやく転げまわるのをやめ、巻き込まれた兵士ともどもむくりと起き上がる。
まだやれると示したいような、そんな即座の起き上がりだ。
「まだやれますよ、ユーリ様」
「いいや、今のが剣ならお前は昇天してたさ」
「……むう」
ヨキは悔しげに頬を膨らませるが、しかしついに観念してその頬の息を大きく吐いた。
「はあー! やっぱり敵いませんよお! くっそー!」
緊張の糸が途切れたように弱気な発言をするヨキ。
ユーリはヨキに近づいて、笑いながらその肩を叩いた。
「才能はある。鍛錬を怠らず、実戦を多く経験すれば俺なんてすぐ追い抜けるさ」
「何を言うんですか、私がユーリ様を追い抜くなんて、まるで想像できませんよ! 今だってこんなに差があるのに!」
「ヨキ、戦に絶対なんてないんだよ。俺はお前より多く修羅場を潜っているだけで、お前が実戦に慣れたら俺はお前に勝てないかもしれない」
「いいえ! 『絶対に』そんなことはあり得ません! ユーリ様の方が強いです!」
「お前は俺に勝ちたいのか負けたいのかどっちなんだ……」
「なんかうまくいえませんが、でもユーリ様は私の前を走っていてくださいね! その方が私もずっと進んで行ける気がするんです!」
「都合の良いやつだな……」
ユーリが苦笑してため息をつく。ユーリはヨキの言葉から彼が感覚派の男であることを確認した。
ともあれ、一度言ったらそれを曲げないのがヨキの難点でもあった。頑固なのだ。
周りからは体力が回復した兵士達の、「そうなったら『てこ』でも動かないぜ、ユーリ様」という言葉が飛んでいる。
すると、不意にユーリが鋭い視線をヨキに向けて、また言葉を紡ぎ始めた。
さっきと比べて少し重苦しい雰囲気だ。
「まあそれはいい。――でもな、ヨキ。ただ一つ、これだけは聞け」
「なんでしょうか」
ヨキは小首を傾げてユーリの言葉を待った。
そうして一拍をおいたあと、ユーリが力強い声音で言う。
「『俺の真似はするな』」
ヨキの肩を叩いていたユーリの手が、今度はその肩を握る。
「ユーリ様の仰ることですからもちろんその言葉を守りますが――どうしてかを聞かせてもらってもよろしいですか? ――といってもユーリ様は特に変わった事はしていないように私の目には映ったのですが」
「先に忠告しておくんだよ。俺の『本来の戦い方』は我流過ぎて人が真似したところで容易に身につくものではないし、中途半端に真似をすれば大きな危険を背負う事になる。――だからだ」
「つまり、ユーリ様は本気を出していないと?」
「お前の耳に入ったのはその情報だけか……」
「いいえ、ちゃんと分かってます。安心してください。――ですが、いつかユーリ様の本気を引き出して見せますから」
ヨキのまっすぐな視線と言葉を受けて、ユーリはまた苦笑した。
苦笑しながら踵を返し、ヨキに背を向ける。
「期待しているよ」
そんな言葉を残してユーリは訓練場を後にした。