15話 「ヴェール皇国の内情」
それからは大事もなく、馬で走って三日ほど。
四人の耳にかすかな水の音が入った。涼やかで、それでいて少し騒がしい、流水の音色だ。
リリアーヌがまっさきに声をあげた。
「水の音! ミロワール運河だよねっ!?」
「どうやらそのようだな」
ユーリの返答でリリアーヌが歓喜する。
「はやくっ、はやく行こっ!」
「落ち着けよリリィ。運河は逃げたりしないから」
アガサとイシュメルが顔を合わせて笑みを浮かべる。
ユーリがその様子に気づいて言葉を並べた。
「しかたない、少し急いでいくか」
三頭の馬はこれまでにないほど速く、その足を動かした。
弾ける水の音が徐々に大きくなり、ついに運河がその相貌を表す。
澄んだ水が、行列を為して目の前を闊歩していた。
森を抜けたところは丘になっていて、そこから見下ろすミロワール運河は光を反射していて美しい。多様な角度で光を反射して、きらきらと輝いて見えた。まるで輝石で埋め尽くされた川のようだ。
リリアーヌは言葉を紡ぐことなく、ただただその運河を見下ろしていた。
その姿は感動に打ち震えているように見えて。
「あたしも話には聞いていたけど、やっぱり知識と実物では往々に感動の大きさが違うものだな」
「ほんとに、これは良いものを見たよ、目に焼き付けておきたい光景だね」
アガサが感嘆の声をあげ、イシュメルが賛同の意を返す。
ユーリも穏やかな視線をミロワール運河に投げかけていた。
運河の幅は、国家間の国境線に定められるだけあって相応に広々としていた。
四人はまず丘を下って、運河の橋渡し役を捜すことにした。
幾ばくか馬を進めると、一軒の小屋を見つける。
ユーリが率先して小屋の戸を叩くと、中からたくましい体つきの男が姿をあらわした。
「ん? なんだ、あんたら」
「運河を渡りたい。橋渡しをしてくれないか」
「ああ」と短い声をあげて、男は頭を掻いた。少し煩わしそうに、続けて言葉を紡ぐ。
「あんたら国境線を越えるのは初めてだろう。ミロワールはヴェールとその南部国との交通の要所でもあるんだ。当然『橋』ぐらいあるさ。ずっと向こうのほうにな。――まあ、ここにたどりついちまったんだからしかたねえか……少し待ってな。船を出してやろう」
「助かる。渡し賃は?」
「馬も連れて行くなら――銀貨数枚ってとこだな。くわしい見積もりは向こうの本港のほうで規定にのっとって伝えるから、だいたいそのへんを予定に準備しておいてくれよ」
「わかった」
それから間もなく、水夫が身支度を整えて小屋から再び出てくる。その水夫につれられて、一行はさらにいくらかを歩いた。
向かったさきは小屋ではなくそれらしく悠然とした大きな港で、そこには大勢の水夫がいて、船の乗り降りをしているほかの行商や旅人たちの姿もあった。
すると、水夫が船のひとつを指差して、ユーリたちを促す。
「あれだ。渡し賃は銀貨三枚、さあ金があるなら乗った乗った」
ユーリはふところから銀貨を三枚さっと取り出して、水夫に渡した。
そのあとで、馬を船に乗せて、出向の時間までを待つ。
十数分のあとで、船は出発した。
船の航行は穏やかで、心地いいものだった。
リリアーヌはあちらこちらを目を輝かせながら船の中をいったりきたりしている。イシュメルとアガサは身体を休めながら、微笑で談笑していた。
ただユーリだけが、ひとりでふと姿を消して。
ユーリは最初に出会った水夫を探していた。
すこしの船内探検のあとで、ようやくあの水夫を見つけると、ユーリはおもむろに近づいて行った。けだるげに船を操舵する水夫の方を叩く。
「航行は順調かい。少し聞きたいことがあるんだが、聞いていいか?」
「順調さ、銀の客人。世間話か? まあ、暇だから構わないぞ」
水夫はがははと大きく笑った。口のまわりに蓄えられた髭が揺れる。
ユーリは水夫の隣に、二メートルほどをあけて座って、訊ねた。
「あんたたちはいつも運河を渡る行商やら旅人たちと話をしているんだろう?」
「そうだな。森に入っちまえばバラけるが、運河を渡るやつはだいたいこの船を使うからな。たわいのない話から、それらしく重要な話まで、いろいろ聞くよ。特に行商人はな、あいつら口がうまいだけあって、かなり喋るんだよ」
「なら、あんたのその情報通なところを頼りに訊きたいことがあるんだ。――最近のヴェール皇国の様子について」
「――銅貨三枚」
「――したたかだな」
白い歯をわざとらしく見せて笑う水夫を見て、ユーリはうんざりしたようにうなだれたが、すぐに懐から銅貨を三枚取り出して水夫に投げて渡した。
水夫は嬉々としてその銅貨を片手でキャッチすると、わざとらしい咳払いのあとにあらためて口を開いた。
「ンン――あー、最近の行商たちによれば、今ヴェールでは権力闘争が勃発しているらしい」
「あのヴェール皇国でか? 平和で美しい国と言われる、あのヴェールで?」
「はっ、みてくれなんて関係ないものさ。まあ、でも、たしかにヴェールは平和だ。だから今回のは異例と言ってもいいらしいぞ。ヴェール皇国の現女皇『エンピオネ・ヴェール』と、その夫『リングス・ヴェール』の皇座をかけた権力闘争さ」
「痴話喧嘩にしては壮大だな」
皮肉をこめてユーリが言う。水夫もそれにうなずきながら話を続けた。
「もともと、その二人は順序を経て結婚したわけじゃあないんだ」
「というと――政略結婚とか?」
「そうだ。リングスの母国はルシウル王国っていってな。ヴェールの北の方にあるんだが、そことの政略結婚。ルシウル王国とヴェール皇国の国交のための婚姻だ。まあ、リングスの方は政略なんてたいして気にしていなかったらしい」
なぜなら、と水夫は続けた。
「エンピオネ・ヴェールは美しい国の皇族に相応しく、絶世の美女だと聞くからな。男にとっちゃ、それだけ垂涎ものだろ?」
水夫のうながしに、ユーリは笑ってうなずいた。
「そのうえ、ルシウル側からすれば、ヴェールとの政治的つながりも持てるしで、一石二鳥ってわけだ」
「なるほどね。ちなみにリングスってのはどんなやつなんだ? 王子なのに、王の後継ぎになるという選択肢はなかったのだろうか」
「ルシウル王にとっては、リングスは良い後継者には見えなかったのさ。だから、ルシウル王はその弟に王位を継がせる気らしい。端的に言えばリングスは馬鹿だったんだよ。あれは王の器じゃなかった」
「やたらと迫真的じゃないか。それに、詳しいんだな」
ユーリの問いに、水夫はうなだれて言葉を述べた。
「だろ。なんたって俺は生粋の『ルシウル人』だからな。実家もルシウル王国にある。この仕事は出稼ぎみたいなもんでな。階級制が幅を利かせてると、どうにも平民は生きづらいのさ。とくにルシウルの階級制はなかなかに貴族と平民の差が激しいしな」
「――察するよ」
「ハッハ、銅貨一枚くらいの情報にはなっただろ?」
自虐的な苦笑を浮かべながらそう言う水夫に、ユーリは同様に苦笑しながら銅貨を一枚投げ渡した。
「ともあれ、エンピオネにとってはわずらわしい政略でしかなかった。だから先代ヴェール皇帝に猛反対したそうな。だが、かわいい娘の反対を聞きながらも、それでも先代皇帝はルシウル側からの申し出を断れなかった」
「なぜ?」
「現ルシウル王がそうさせまいとさまざまな策略を施してきたのさ。密偵を送り込んでヴェール皇国民に大ぼらを吹きこんだり、断った場合ヴェールに攻め入るなどと脅迫状を送りこんだり。まあ一つ一つはそうやって馬鹿みたいだが、積み重なると意外と効果は発揮する。特にルシウルはそれが得意だからな」
へえ、と答えながら、ユーリは疑問を浮かべる。
「ヴェールほどの国なら迎え撃つことも可能だったんじゃないか?」
「先代皇帝はヴェールを戦で汚したくなかったのさ。苦渋の選択だったろう。どんなに優勢な戦でも犠牲は生まれるからな。結局先代皇帝はルシウル王の申し出を飲み、条件をつけて娘を結婚させた」
「条件か」
「条件ってのは、リングスが地位的にはあくまでエンピオネの下につくってことだ。あとはルシウルへの年間の帰還数を制限したり、まあ、とにかくリングスを密偵としてうまいこと使われないように、いろいろと画策した」
「他国からの馬鹿に国を乗っ取られるのは看過しがたいからな」
多少気持ちはわからないでもない、とユーリが小声に言う。
水の音でかききえた言葉をよそに、水夫は話を続けた。
「リングスも先代皇帝が生きているうちはおとなしかった。だが、先年皇帝が死んで、そのやかましい頭角を現しはじめてな。エンピオネから皇座を奪い取ろうと躍起になりはじめた」
「いっそ清々しい馬鹿だな」
「ああ、俺もそう思うよ。どこか愛着すら湧いてくる。――ともあれ、いくら馬鹿が騒ごうが、エンピオネも一筋縄ではいかない。女でありながら腕の立つ武人であり、気概も強いという」
「初耳だな」
「熊を素手で倒したなんて言う武勇伝まである」
「――おい、本当に女なのか」
「絶世の美女だとよ。まったくおかしな話だ」
水夫は両手をあげて首をかしげてみせた。
「そういうわけで、力ずくってのはなかなかに骨が折れそうだ。だからリングスは直接ではなく、間接的に皇座を得ようと画策した。皇国の役人を次々に取り込んでいき、政治戦に持ち込みはじめた。馬鹿なのに、だ」
水夫はさきにユーリの疑問を予測して、自分で付け加えた。
「リングスという馬鹿はな、馬鹿なりに口が巧いんだ。その点に関しては、才能はそれらしくあったといえような。それで今、駒が揃ったところで総攻撃をはじめようってとこらしい。このへんは最近俺も行商たちに聞いたから、まったくの確信があるわけじゃないがな」
長話で疲れたのか、水夫は大きく息を吐いた。
ユーリは水夫に近づいて、優しく肩をたたいた。
「ありがとう、有益な情報だった」
「銅貨を三枚ももらったんだ。当然さ。あと二、三十分もすれば対岸に着くだろうから、それくらいには荷をまとめておけよ」
「わかった」
そう言って、ユーリはその場から踵を返した。
水夫から得た情報を反芻しつつ。