14話 「修羅の面影」
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夢の果実は、竜がその手に持っていた。
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第二幕 ヴェール皇国編
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テントの中で迎えた二日目の朝。
マズール王からエスクードの領地を簒奪して、二日目の朝だ。
鼻をつく香しい匂いで、ユーリは目覚めた。
眠気眼を擦りながらテントを出ると、おせっかいな旅人たちはすでに起きていて、朝食の準備をしている最中だった。
「おはよう、ユーリ」
「――おはよう」
にこやかな笑みでイシュメルが言ってきて、ユーリも条件反射のように同じ言葉を返す。
そのあとで、黄緑色の短草のまばらな地面に腰をおろして、意識が覚醒するのをまった。
家事全般に壊滅的手腕を発揮する自分の腕は、この時間に役に立つことはなさそうだった。
しばらくして、健康的な褐色の肌を日に照らすアガサが、皆に言った。
「よし、ある程度準備終わったし、あたしは馬たちの面倒を見てくるよ。あいつらだって飯を食わなきゃ走れないからな。――ってことで、いいだろ?」
「うん、いってらっしゃい」
リリアーヌとイシュメルがまた笑みで答えていた。
アガサ自身が言っていたように、彼女は馬の扱いがこの場の誰よりもうまかった。自分の身体のように、彼女は馬を駆る。手綱で馬を制して駆るというよりも、馬のほうがアガサの動きに勝手に追随するといった感じで、まるで動作の無駄が見られないのだ。
そんなアガサには馬に対する特別な愛着があるようで、昨日の夜からよく馬の面倒を見ていた。
ユーリがアガサの背を見送り、さらに数刻をおいて朝食ができあがって、アガサの戻りを待ってから一緒に食事を済ませる。
片づけを終えたらすぐに出立の準備だった。
「ユーリ、今日にはミロワール運河に着けるかな? 私運河に行ったことがないから、すごく楽しみなんだよね」
「気が早いな、リリィは。今日中には着けないよ。数日中には運河が見えるところまで行けるだろうから、それまで我慢しなきゃな」
「そっかあ」
残念そうな表情を浮かべるリリアーヌだったが、しかし彼女はすぐに笑顔を浮かべなおした。
「うん! 我慢する!」
その様子を見ていたユーリも軽く笑みを浮かべて返す。
しかし、ユーリはリリアーヌが離れたあとで、その表情を暗くしていた。リリアーヌのその笑顔は、ユーリにとっては毒薬のようだった。ゆっくりと心臓にまで流れてきて、じわじわと悪い方へ蝕んでいくような――毒薬だ。
かぎりなく完璧に近い、愛想の笑顔だった。相手に気をつかわせまいと浮かべる、相槌の笑みだ。
ほかの誰もが気付かないかもしれないが、ユーリはその限りなく完璧な笑みの、唯一わずかなぎこちなさに気付いていた。
離れてアガサと話しはじめたリリアーヌを眺めていたユーリのもとに、イシュメルが駆け寄ってきて話しかけた。
「どうかしたの? ユーリ」
「いや、なんでもないよ」
苦笑で答えるユーリ。
イシュメルがなにか言いたげな顔をしたが、アガサがちょうど馬たちを引き連れてきたので、お互いになにも言わずにすぐに出立した。
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半日ほど、馬上で談笑しながら過ごす時間があって、その談笑はミロワール運河周辺一帯に生育する巨大な森林に差しかかるにあたって、唐突に終わりを告げた。
『ジュラール森林』。
ミロワール運河の左右に並行して生育する森。
この森を抜ければ前方には巨大な運河が見えるだろう。
余りに深い森であるため、街などの集落地は今のところ確認されていない。とはいっても、ヴェール皇国から南部の国へ行く、または南部からヴェール皇国に行くにはどうあっても通らなければならない森である。なので、運がよければ、あるいは『悪ければ』人に出会うだろう、というところであった。
四人がジュラール森林に突入してからさらに数時間。
森は昼であっても光がまばらにしか差し込まないほどに深くて、夕方にもなればもはや周辺は夜と同等の暗さだった。
「……」
そんな時、イシュメルがゆっくりとユーリとリリアーヌの乗る馬に自分の馬を寄せて、声をかけた。
「ユーリ、ジュラール森林にしか生息しない可愛らしい動物を知っているかい?」
「――なんだって?」
イシュメルからの唐突の質問にユーリは怪訝な顔を浮かべた。
「クウだよ、クウ。小さくて、毛がふさふさで、目がくりくりしていて、頼りない四本足で森をゆっくりと闊歩する動物。それの姿をさっき樹の裏に見た気がして、ちょっと見に行ってみたいんだよね」
「見に行きたいなら一人でいけよ」
「えー、森の奥に一人って、それはそれで心細いじゃない? 荒野に一人で仁王立ちしてるのもさびしいけど、鬱蒼とした森の中に一人で分け入っていくのも、やっぱりさびしいよね?」
「お、おう――」
ユーリははじめ、煩わしそうに顔をしかめていたが、やたらにからんでくるイシュメルの様子に違和を感じで、ついにその途中で、イシュメルの言葉と表情になにかが含んであることに気付いた。
声に表さない、言葉だった。
そうして、その言葉に気付いて、ユーリは対応を変えた。
「ああ――思い出した。クウか。俺は何度か見たことがあるけど。久々に眺めに行くのも悪くないな。なによりお前がうるさいからな」
両手を宙に放り出して、やれやれとため息を吐いて見せる。
そのあとで、ユーリは自分の前にちょこんと座っているリリアーヌに声をかけた。
「リリィ、俺たちは少し寄り道をしてくるから、アガサの馬に乗っていろ」
「えっ! 私も見たいよ! クウ!」
「知っているか? クウは若い女に目がない。お前が近づけば、やつに――」
「えっ! なにそれ! ちょっといかがわしい生き物だよね!?」
「男にとっては愛玩動物だが、女にとっては変態動物だな」
「……やっぱりいくのやめる……」
「ぜひそうしておくといい」
心底残念そうな表情で、リリアーヌはうなだれた。
ユーリたちは馬を止め、リリアーヌをアガサの馬に移動させる。
そうしてユーリとイシュメルだけが馬をアガサに任せて、森の方へと歩を進めようとしていた。
「じゃ、行ってくるよ。ちょっと道具が必要になるかもしれないから、少し荷物を持っていくね」
そういってイシュメルが、馬の横腹に備え付けておいた細長い袋を取る。その瞬間に、アガサもイシュメルがこれからなにをしようとしているのかに気付いて、神妙な顔つきで言葉を並べた。
「――気をつけてな」
「僕は『へま』なんてしないさ」
満面の笑みで答えたイシュメルは、ユーリと共に緑の横道にそれていった。
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「僕の気持ちに気付くの遅いんじゃないのかい? ユーリ?」
「あんなにわかりづらい合図を出すな。あとその言い方はどことなくまとわりついてきてうんざりするからやめろ」
「僕は僕で突然のことだったからあんまり頭が回らなくてさ」
アガサとリリアーヌの姿が見えなくなったあとで、二人は大きく息を吐いて話しはじめていた。
「で、なにかいたんだろ? その正体はわかるのか?」
「うん、たぶん山賊かなにかだろうさ。動物ではないとおもうよ」
「それにしてもよく気付いたな、俺たちの周りに人がいるなんて」
「僕は感覚器が鋭いエルフだし、生まれた時から森で過ごしていたからね。森の中の『異物』に対しては特に過敏だから。森の自然に不似合な異物は、やっぱりなんとなく――鼻につくんだよ」
そう言いながら、イシュメルは馬の横腹から取り外して持ってきた細長い袋を開け、中からある物を取り出した。――『弓』だ。木で造られた、弓だった。
ふと、その弓を見てユーリが感慨深げに言う。
「ほー、懐かしいな、それ。まだその弓を使っていたのか」
「当然さ。使い慣れたものこそが、いざというときは一番頼りになる。樹齢千歳にもなったルーレ樹木で造られたこの弓は頑丈だから、子供の時からいままで、ずっと使っているよ。もう体の一部みたいなものさ」
いいながら、イシュメルが袋からさらに数本の『矢』を取り出した。
すると、ふと軽い一息の間に弓を構え――明後日の方向にさっそく矢を放っていた。
ひゅん、と軽い音を残して、矢はぐんぐんと宙を走っていく。一直線に飛んで行った先には深緑の広葉をつけた茂みだ。
矢がまっすぐに茂みの中へと紛れ込んでいって、
「うぐっ」
ユーリでも、イシュメルでもない野太い声が茂みの中からあがった。誰かの声。
次いで、がさりと茂みの中から転がるように出てきたのは、短剣を片手に握っている大男だった。
あてのない方向に放ったと思われたイシュメルの弓矢は、大男の腹部に突き刺さっていた。
「腕の方も相変わらずだな」
「相手が相手だったしね。――さて」
イシュメルは短く答えながら、地面でうめいている大男に近づいていって、その胸倉を掴んで起き上がらせた。細い腕に似合わぬ強力だった。
「なにを狙っていたの? 答えないともっと痛くしちゃうよ? 矢じりでお腹ぐりぐりされたくないでしょ?」
イシュメルがわざとらしく笑みを浮かべていうと、大男の方がその太い腕をしならせて、苦し紛れにイシュメルの顔を殴った。
「おい! イシュメル!」
不意の反撃に驚いて、ユーリがイシュメルに駆け寄る。
殴られた拍子にイシュメルが頭に巻いていた布がほどけて、肩でそろえられた薄い色の金髪と、長く尖った耳が露わになっていた。
それでも、イシュメルは大男の胸倉を離さなかった。
「痛いなあ……」
「き、貴様……エルフか……!」
大男はイシュメルの正体を知って、次の言葉に、
「――穢らわしい!」
侮辱をのせていた。
「僕の正体なんかどうでもいい。僕は君に訊いたんだ。はやく答えてよ。君たちはどうして僕たちを見ていたんだい」
イシュメルが片手に握っていた弓矢を山賊の顔の前にただよわせた。二発目の合図だ。手で矢をぶちこむと、動きで知らせる。
と、次の瞬間。
いくつかの茂みがガサガサと不自然な揺れ音をあげて、中から数人の山賊が姿を現した。おそらく大男の仲間だ。
誰もかれもがその手に短剣を握っており、その短剣は確実にユーリとイシュメルを狙っていた。
「はあ――もういい」
イシュメルが大男を放り投げる。
こうなってしまえば、もはや大男に口を割らせる意味はない。
山賊たちは、金品を奪うべきか、はたまた娯楽に人の命を奪うためか知らないが、ともかく、自分たちを襲おうとしていた。
開戦の狼煙はあがった。
理不尽な暴力から、身を守らねばならない。
「ユーリ――」
そうしてイシュメルはユーリに『開戦』を告げようと振り向いて――振り向きと同時に固まった。
イシュメルの言葉が途切れた。
振り向きのさき、視界に映ったユーリの顔が、ひどく恐ろしく見えたからだった。おそわれている現状で、ユーリが浮かべていた平坦な表情は、やけに冷たく見えた。氷の人形のような、無機質さをすら感じさせる、平坦な顔だ。
襲われているのに、動じないどころか――
ただその右眼だけが、金色に変色して輝いていた。
イシュメルの異変を全く意に介さないユーリは、おもむろに左掌からエスクード王剣を引き抜き、飛びかかってきた山賊の胴体をまず一人、横薙ぎにし、真っ二つに斬り裂いた。
赤い液体と臓物が飛び散った。
人を容易く切り捨ててなお、ユーリの表情に変化があらわれることはなかった。
返り血が舞って、付着して、ユーリの顔を血化粧で染めあげていく。
一方のイシュメルも山賊の攻撃に勘付いて即座に対応する。
弓矢の矢じり部分で、襲いかかってきた山賊の足を一突きした。さらに時間差で、後方からもう一人の山賊が襲いかかってきたが、イシュメルは一人目に突き刺した弓矢から手を離し、短剣による攻撃をするりとかわす。
山賊の方も態勢を立てなおして、イシュメルに向かい立つ。
「――まだ若い女性じゃないか……なぜこんなことを……もっと違う人生があるだろうに……」
イシュメルが山賊の顔を見て苦しそうに言葉を紡いだ。
女山賊はイシュメルの言葉を聞き流し、答えず、短剣を真横に構える。
そして、今にも前進への一歩を踏むだろうとの意気が顔に見えて――
「アッ――」
女山賊の口から、不自然な短い声があがった。生き物が潰された時の断末魔のような、意志のこもらない声。声というより、もはやただの音だ。
その声のあとで、女盗賊の目が――ぐるんと上を向いた。失神の眼球運動。不気味さをていする瞳の動き。
そして、女盗賊の額から――剣が突き出た。
後頭部から剣が貫通して、額から生まれ出でていた。
女山賊はどさりと膝から地面に倒れこむ。
女盗賊の後ろから――ユーリが姿をあらわした。
ユーリは女の脳天に後ろから突き刺したエスクード王剣を引き抜いて、血を払った。血油と、脳漿の欠片が刀身にぬるりとしみついている。
イシュメルは声が出せなかった。
覗きこんだユーリの顔には、やはり表情の変化が見て取れなかった。
「なにも……殺すことは――」
イシュメルは殺生が嫌いだった。
もちろん、防衛の意志はあるし、自分の身と仲間の身は優先する。それは当然だ。
しかし、殺さずにいられるのなら、殺したくはなかった。
初手の弓矢による攻撃も、だからこそ脳天ではなく腹部を狙った。矢じりによる刺突も、首を狙わなかった。致命傷になりうることもあるが、即死はまぬがれるし、十分な治療を施せば死ぬこともない。
場合によってはその治療を、自分がしてやってもいいとすら、イシュメルは思っていた。
だが――
ユーリのやり方は、イシュメルの考え方とは真逆だった。
ユーリの戦闘術は、相手を確実に殺すことを前提にしているものだった。
一撃で、死を与える、死の剣。
イシュメルは泣きそうな顔で倒れた女盗賊を抱きかかえた。
「まして――こんな若い女性を……」
「……」
ユーリは口を開かない。目だけを周辺に動かして、次の攻撃に備えようとしている。
しかし、その女を最後に、山賊たちによる攻撃は止んだらしい。周辺に人の気配はなかった。
そこで、ようやくユーリが口を開いた。
「……お前は甘いな、イシュメル」
「――いや」とユーリは繋ぎ、
「――お前は優しいな。――イシュメル」
「君が、残酷すぎるのではないのかい」
イシュメルはユーリが突き進んできた修羅の道を知っていた。突き進んでしまった修羅の道を。
ユーリがレザール戦争を生きぬいてここにいることを、知っていた。
でも、腕の中の無残な女盗賊を見て、そう言わずにはいられなかった。
ユーリはイシュメルの言葉をきいたあとで、エスクード王剣を左掌にしまいこむと、その場を一歩、二歩と離れていく。
イシュメルはユーリの姿が見えなくなったあと、女盗賊の亡きがらを地面に優しく横たえ、ユーリの足跡を追った。
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そこでの出来事は、二人の中にだけ存在して、アガサとリリアーヌにはわざわざ知らせるべきものではないと、お互いに暗黙で了解していた。
なにげない微笑を浮かべながら、二人はアガサとリリアーヌのもとへ戻る。
そうして、一行はこれまでと同じように森を突き進んだ。