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精霊に捧ぐ  作者: 春生カタパル子
暗中模索
9/25

第九話 初恋よりも衝撃

 1


(助けて)


 雷は無意識のうちに誰ともなしに懇願していた。

 化猫のとき、それではいけないとつよく自らに言い聞かせていたというのに、てんでそれを実行できそうにない。

 打つ手なしであろうと、だからこそ差し迫った状況をくつがえす妙案をおもいつくべきなのに、雷の頭はなんの生産性もないことばかりめぐっている。

 

(だれか助けてくれ)


 思考は空回りするばかりで、自身を救済する方法はからっきし浮かばない。他力本願がとめどなくわきあがり、雷のなかをいっぱいに満たす。助けてという願いだけで雷という器は埋まりきり、痛切な願いはだれに受け止めてもらうことなくあふれこぼれおちていく。

 

 雷の冷静さを奪う、あせらせるばかりの怒号が背後から追いつめてくる。

 足止めで距離を稼いだはずなのに、姿など見えていないのに男たちは雷のありかを正確に把握してみるみるうちに迫ってきていた。


(こんなの、こんなの嘘だ)

 

 雷は現実を否定してくてたまらなかった。

 

(どうして、どうして俺がこんなめに……! ちくしょう、畜生っ)


 無意味に現況を呪い、罵った。

 

(対象追うスキルか? 追跡、とかいうのがあった気がする。……けど、それがあったとわかったところでどうしろっていんだよ!)


 雷は自身へ絶望が近づいていることに気づいた。

 死刑宣告を告げる死神の呼吸がすぐそこに聞こえてくるかのようだった。

 どれだけ姿を隠そうと雷を見つけ出す能力を男たちが持っていたら、雷が逃げ切る可能性など万に一つない。


 限界がくるまえに往生際わるく隠れられそうな木の窪に身をひそめ、雷は息を整える。

 

「もう、本当に、だれか助けてくれよぉ……」


 泣き言には真実涙がまじる。

 なにがいけなかったのだろう。

 原因もわからないまま、自分のものではない体でもう一度生きることをはじめた。

 自分は健気にもそれを受け入れたではないか。


 もし、神様なんてものがいるのならば。それが自分を見ているのならば、何が気に入らなくてこんな苦境に己を立たせるのか。


 説明もないまま放り出されても、不平を吐くだけで自暴自棄にもならずになんとか状況を飲み込んだ。

 生きることを決意した。身に余るような高望みもしていない。ごくあたりまえの生活の手段と場所をもとめていただけのに、その仕打ちがこれなのか。あんまりではないか。


 目的があって、何かの試練を与える存在がいるのならばその成果に対する報酬がほしい。

 報いがほしい。見返りが欲しかった。

 この辛くて耐え難いふしあわせを帳消しにするものがほしい。


(ゲームに似た世界。そこに生まれ変わっても、俺はきっと主人公じゃない。別の端役の、いてもいなくてもいい何かなんだ)


 プレイヤーにストレスを感じさせないためか、主人公が酷い目にあうことはそうそうなかった。シナリオにきちんと守られていた。

 シナリオの根幹が主人公自身が底辺で足掻きながら血の道を切り開いていくような話ではなく、突然の理不尽に見舞われたひとたちを救済したり手伝ったりしたりするよくあるヒロイックストーリーだった。


 何をしたってーー制作の予期していない変な遊び方でもしないかぎりーー主人公は常に安全な場所にいる。不幸なひとたちを俯瞰するだけで、ともに奈落に落ちるわけでもなく高みから手を差し出して救ってやるのが役目。

 画面によって隔てられているプレイヤーと同じように、主人公は世界の抱える悲しみからは壁一枚遮られた場所にいる傍観者。

 優れた能力をもち、大陸から姿を消してしまった高位の魔法を唯一使え、伝説級のアイテムをただひとり作ることができる。


 すごいすごいとあざといくらいに持ち上げられて、仲間から慕われて、周囲からは一目置かれて、その過剰な賛美はもはや食傷気味になるほどだった。

 

 囲まれて、守られて、それが『精霊の贈り物』の主人公だった。


 けれども、雷にはそんな無条件でそばにいてくれる仲間なんていない。

 無条件に味方がいて、世界に守られて、不幸から一歩引いたところで悠然と王道を歩んではいない。


(この世界の陰惨さをしめすための記号のひとつみたいなものなのか、俺は……)


 そんな可能性が頭をよぎると、泣きたくて泣きたくて仕方なかった。

 どこか別の場所に選ばれた誰かがいて、レッドカーペットでも敷かれたような道を歩いている。そこから見下されるのが、雷の役目。スポットライトなどあたることのない、たくさんいる不幸な端役のひとり。


 あるいは、世界の抱える過酷さを淡々と描写した風景画に描かれた、一片の存在にすぎないのかもしれない。


(しんどい、苦しい)


 苦しくて、辛い。

 誰かにこの窮状を訴えたい。

 声を聞き届けてほしい。


 煙を見つけたときのことを、思い返す。

 

 ひとを疑って、危ぶんで、恐れて、近づかなかったのが正しかったのか? ああ、きっとそうだったのだろう。そう、自分自身を罵ったとも。それを怠った自分がなんて愚かだと思った。見境いをなくしていた、判断能力を低下させていた。ばかだった。


 自分を責める言葉をおもいつくかぎりぶつけていると、同時に言い訳がましい感情が胸の内で荒れる。


 身を切るようにひもじくて、ひもじさがいっそう惨めになるほど寒さが体に堪えた。孤独が心を膿み爛れさせ、なおのこと雷を苦しめた。

 雷は、ただ人恋しかっただけなのだ。ひとと会話したかった。ありきたりなぬくもりを求めた。それがいけなかったのか? たとえそうだとしたら、そんな非道がまかりとおっていいのか?


 あたりまえのことすら望めない世界なんて、いっそ滅んでしまえ。


 もしも、自分がこの世界を救う役割を担うために二度目の生を受けたとしても、こんな仕打ちをする世界を助けたいとは、決して思わない。


 雷は目に諦観を宿しつつも、涙を拭いて立ち上がる。

 体力はある程度回復した。


「逃げなきゃ……」

 

 言い聞かせるように呟き、木の虚から出る。

 諦めたくない、諦めきれない。だが、心のどこかで不可能を悟っている。


 走って、立ち止まり、また走って。魔法で足止めしようとして、石を使い切って、また走る。かなり長い間、そうしていた。どこをどう走っていたのか、雷にはもうわからない。

 繰り返しているうちに走れる距離は短くなり立ち止まる時間は長くなった。

 声は近づき、足音は大きくなる。

 

「顔は傷つけんなよ。売値が下がっちまう」

「うっせーな! このクソガキをぶっ殺さねえと気がすまねえんだよこっちは!」


 最後はあっけなく捕まった。

 目潰しされた男は、目を異様なほど赤くして頭に血を登らせていた。

 

「ほどほどにしとけよ。ここで殺したらここまで苦労して追いかけた苦労が水の泡だろうが」 

「くそっ。うっせえな!」


 男は疲労でまともに動けない雷の腹を蹴った。蹴られた衝撃で横倒れになった小さな体に、さらに容赦なく追撃を加える。


「がっ、はっ!」


 声にならない、苦しい息がこぼれた。


 それから腹を三度、強く打ちすえられた衝撃に、食道に酸っぱいものが一気に競り上がってきた。

 

 ろくなものをいれていない腹が、胃液と未消化の葉っぱや木の実をみっともなく吐き出す。

 立つことも体を支えて起き上がることもできず、雷は痙攣しながら吐き出し倒れ伏す。

 呼吸がうまくできない。全身が内側から灼けただれていくようだった。

 気道にはいりこむ酸味にむせる。息の仕方を忘れたように、がたがたと体だけがせわしなく震える。

 叫びたいくらいに鋭く下腹部が痛みを訴えていた。股座が濡れた感覚がして、失禁でもしたのかとこんな状況だというのに気になった。目に涙を浮かべた顔でぼんやりと下腹に目を向けると、黒いズボンをさらに濃くするように濡れていた。尿特有のアンモニア臭はせず、鉄臭いような気がした。

 

「あ、ああ」

 

 ちかちかと目がくらむ。


「やめろっつってんだろ!」

「黙れよ!」


 男は、制止も聞かずに雷に暴力を振るおうとする。


 おとなしくそれを受けたら、自分は死ぬだろうか。

 このままいっそ、死んでしまったら楽になるのだろうか。


「ーーあああああっ!」


 叫びが喉からほとばしった。


 自分がこんなにも哀れにおもえたのは初めてだった。

 学校でいじめを受けていても、家族がいなくても、雷には仲間がいた。友人がいた。大好きな親友がいつも味方でいてくれた。帰りたい場所があり、自分はそこに帰ることができていた。


 幸せは、どんな苦境に陥っていても必ず雷のそばに寄り添っていてくれていた。


 けれども、今の雷はあまりにも惨めで可哀想だった。

 何もない。

 雷は、雷を支えてくれるものを何ももたない。

 帰る場所はない。帰れる場所がない。

 


 雷は、


「誰か、たすけて!」


 それでも、死にたくなかった。

 こころの底からの叫びを、訴えを、悲しみを、聞いてくれるひとなんて誰もいない。

 喉が張り裂けんばかりの叫びは、無為に終わる。雷はそれを知っていた。だから、そのことに絶望なんかしたりしない。苦しくてしかたない痛みにひとり耐えながら、とめどなく大粒の涙をこぼす。


 もう一人の男が、憎悪で我を忘れた男を抑えていた。

 

 雷はそれを怯えた目で見上げていた。怒りをおさめるのを無力に待つ続けるしかない子供の姿だ。胃液で汚れた顔を己の命が損なわれるかもしれない恐怖で歪め、油断をさそう姿でびくびくと震えていた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 壊れたようにそれだけを繰り返す。

 もはや逆らう気力など消え失せ、糸の切れた操り人形にでもなったように威勢がない。


 雷は痛みにうめき、ただただ嘘の謝罪を繰り返しながら算段する。


 ひときわ惨めで、くたびれた野良犬のように命乞いをすれば、助かるだろうか。助かるのならば、ひとときひととしての尊厳やプライドなどかなぐり捨て、雷は泥でもすすってやろうと歯を食いしばった。

 命だけを惜しんで我が身を救いたい。

 雷は顔だけをあげ地面に腹這いになり、魔法と使う際に発生する光をできるだけ隠しながら魔法で腹部の治療をした。


(チャンスは絶対に掴む)


 一方的な暴力の恐怖に、完全に心が折れたと思わせなければならない。

 二度と男たちに逆らえない、従順な子供にならなければならない。そうなったと思い込ませなければならない。

 他者への暴力と強奪が日常となっているような男たちにとって、愚かだと感じるふるまいを封じこみ、必要とあらばただひたすら奴隷になってやる。

 そして、必ず逃げ出す機会を掴んでやる。

 

 助けなんて来ない。

 それはもう十分にわかっている。

 雷だけの力で、この困難を脱しなければならない。


(あれだけの衝撃を受けて、すぐに動けるとは思わないはずだ)


 頼みの綱だった回復魔法は想像以上に優秀で、雷を痛みから救ってくれた。

 おかげで内側から壊れるような尋常でない痛みは過ぎ去った。蹴られた衝撃によって己の体に何があったのか、不安を通り越して考えたくなくなるくらいの激痛だった。痛みが残っているのは事実であったから、苦しむ演技は容易だった。泣きじゃくっているせいで呼吸もむずかしいのだといわんばかりの喘鳴を不自然にならない程度にまぜる。


 宥めすかされ、男の怒りはいくぶんかおさまったらしく、ようやくもう一人に開放された。

 それでも完全には腹の虫がおさまらないらしく、うずくまる雷に追い打ちをかける。


「最初っから大人しくしときゃあいいんだよ!」


 顎に深いひっかき傷を作った男は、逆らうことのできない雷の髪を乱暴に引っ掴み頬を打ち据える。

 歯の奥から鋭い痺れが走って頭の奥を強く揺らした。意識が飛びかけたが、毛が音をたてて抜けるほどに掴まれた頭皮の痛みから我を取り戻す。 

 

「ぅぁあ……ごめんなさい、ごめんあしゃい……」


(くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ)


 屈辱にふるえる強靭な意思を押し隠す。男たちの気にさわりそうな憤りを外に出してはならない。

 虎視眈々と反撃を狙う殺意を、雷は必死に鎮める。


「顔はやめろっつてんのによー。あんまり顔が崩れると買い叩かれんぞ」


「ここまで薄汚れてたら誤差だろ、誤差」


 傷のある男は、涙と胃液でぐちゃぐちゃになった雷の顔を髪を引っ張りあおのかせて見せつける。殴られた頬は腫れ、ひどいありさまだった。口の中が切れて、唇の端から血がこぼれている。

 暴力に自失した愚かな子供の成れの果てだ。


「あーあ。売る前にちゃんと少しは見れる顔にしておけよ」


 呆れたようにもうひとりが言う。

 

「へいへい。とりあえずその前にあともっかいな」


「はーあ。マイナス1000ゴールド。まともななりなら1万で売れてたのによお。この貸しは高くつくぜ」


「元手がタダなんだから貸しもくそもねえだろ」


「お前ひとりで追いかけられなかっただろーが、何言ってんだ。このガキを見失わなかったのは俺のスキルのおかげだろ?」


 男たちの身勝手な会話を聞きながら、男の苛立ちの解消のために殴られる。


(ころしてやる)


 殴られることも、雷が意思のある存在などはなから頭にないそぶりで物のように扱うことも我慢ならなかった。

 思いが剣になるのならば、雷はためらわずその喉元に刃を突き立てていた。

 その熱い鉄のような怒りは、ついに雷の中だけにはおさまらずあふれて溢れてしまった。


「ん、だよ。その目はっ! 生意気なんだよ! 」


 憎しみの感情が雷の目にやどり、傷のある男はめざとくそれに気付いた。

 屈することなく反抗の意思を宿した雷に、男の消えかけた怒りの火がふたたび灯る。


「あー、もうやめろって」


 首を締め付けられながら、高く掲げられた。小さな体は、男の太い片腕だけで軽々と持ち上がる。

 息ができずに雷はただただあえぐ。男の手を無我夢中でかきむしると、それすらも気に障ったようで地面に叩きつけられた。


「げっ、うぅっ」


 落下の衝撃で、未だに落ち着いてない胃の中が再度かき回される。

 出る物もないのに何かがせりあがってきて、雷は咳き込みながら体液を吐いた。

 咳きひとつするだけで全身が痛くなる。治療の甲斐もないくらいの満身創痍に逆戻りだ。


 気道に吐瀉物が詰まらないように雷は必死で下を向いた。そのとき視界のはしで男の足が蹴りの予備動作にはいったのを捉える。


(避けたら不審がられるか)


 弱ったままだとおもわせるのと、このまま蹴りを受けて本当に弱るのはどちらが正解なのだろう。逡巡は一瞬。

 雷は反射的に避けたがる体を渾身の気力でもっておさえる。

 頭を両腕で抱え、体をまるめて急所を守る。背中を見せ、できるだけ弱い場所をかばった。


「ごめ、んあさい、ごめんっなさ、い。もう、しません」


 雷は必死であやまった。男の気がすみ、聞き入れられるまでとにかく口先だけでもそういうしかなかった。やがて雷は自分の判断が間違ったことを知った。男は、どれほど雷が謝罪しても一方的な暴力をとめなかった。雷の悲痛な反応を楽しみ笑い出す始末で、もう一人の男の手にも負えないようすだった。

 悲鳴がまじる。涙がまじる。なにかを吐き出す。血の味が胃から逆流してきて、力がはいらない。体をまるめることもできなくなった。なえた背中を踏みつけられた。

 くじけてなるものか、と自分を最後まで支え続けた物がぽっきりと折れてしまう凶行だった。


「もういいだろ、そのへんにしとけよー」


 足が地面に押し付けるように背中に踏みつけてきて、息ができない。

 意識が混濁してきた。

 全身が痙攣しはじめ、これはいよいよもって危ういのではとどこか他人事のように頭の隅でおもう。

 考えることが困難なほどに、感情を動かすのも難しいほどに、ただ痛いとか苦しいとか、そういったものに雷の内側は占められていた。まともな思考能力はどこか低いところに流れていって、もう自分のもとへかえってこれないような気さえ、した。


「たすけて」


 指先から、冷えていく。

 意地でも手放すまいと守っていた雷礼央という命が、自我が、体と同じように冷えていく気がした。冷えて凍ったまま二度ととけない塊となって、そのまま砕けてちってしまいそうな錯覚。

 それが恐ろしいと感じなくなるほど、雷はうつろになっていた。

 魔法で己の体を癒す意思さえ薄れ、なさけなく這いつくばる。

 ふがいない、と責める己の声もとおくなっていく。楽なほうにごろごろとおちていく。それでも、どこかで救われたいと願っている自分がしがみつくように助けをもとめて唇を動かしていた。


(むだなのにな)


 どれだけ祈っても、その声はだれにも届かない。

 諦めすらもわかない。だって、雷は最初から知っている。

 こうやって自分を傷つけるひとはいても、助けてくれるひとなんていない。

 親友だってひどく落ち込んだ雷に寄り添ってはくれはしたけれど、助けることはしなかった。できなかった。

 

(しってる、しってるんだ、俺は) 


 それでも、往生際のわるい自分がまだのこっていて、つぶやくのだ。

「たすけて」

 と。

 

 視界が半分ちぎれてしまったように黒くそまる。

 穴があいた風船のように自分の体からなにか抜けていって脱力する。

 ふ、と息を吐いたあとに肺が動くことをやめた。

 けたたましく鳴っていた心音が波がひくように遠ざかっていた。

 呼吸が止まる。

 懇願すらもでない。


「あー、もしかしてさすがに死ぬか?」

「なにやってんだよ、お前ぇ。時間を無駄にしただけじゃねえか」


(死にたくねえなあ)


 殺される怒りよりも、これで楽になるという安堵よりも、やっぱり惜しい気持ちが強かった。雷は、まだ生きていたい。


 だが、もう己の体は生きようとしていない。

 くやしいなあ、そんなことを最後に思いながら目をとじる。


 そのときーー


 ごう、と。突風よりも強烈に空気をつん裂く音が雷の耳を叩いたのだ。


 2


 死ぬなといっているように聞こえた。

 今更になって消え失せかけた命に追い縋られても雷としても困るというもの。

 けれどその声はいたく必死なような気がして、応えてやらなければいけない気にさせた。少しくらいならば踏ん張ってやってもいいか、というわずかな活力がわいた。

 なけなしの意識と気力を総動員して魔法を使う。

 そうすると、どこがどうましになったのかさえわからないが、それでも体の奥が少しはましになったきがした。

 重い瞼を開けながら、雷は声の主をさぐる。


 尋常ならざる裂帛の気合は、おおよそひとの喉から吐き出せるものではなかった。

 獣のような……それもとてつもなく大きく、異様な化け物の咆哮じみていた。

 音だけではち切れんばかりの激昂が逆巻いていて、青く燃える炎のような熱源をひめていた。下手にふれればただですまないとわからせる威圧に、雷を甚振っていた男たちは怯えを隠さずにただ息をのんだ。

 

 嵐のように空気をゆらしてあらわれたものは、意外なことに人の形をしていた。

 逆三関係の見事な均衡が取れた巨躯は、大柄な男たちをなお凌ぐ長身をほこっている。猛々しい怒りを隠さない男は人の姿をしてはいたが、怒りに打ち震える竜を幻視させる。 


 銀色の髪をかきあげ剥き出しにされた額や、首、顎には、ところどころ鱗が見える。

 よく焼けたひとの肌の上に鱗があるのはまったく奇異な姿には見えず、むしろその男には似つかわしい。かえって翼や角がないことのほうが不思議に感じるほど、怒りで殻をやぶり剥き出しにされた本質はひとではなく竜であった。


 皺の深い老いた男の顔は、怒りに猛り狂っていた。 


(竜人……)


 この大陸の西側に多くいる種族、竜人だった。

 雷がそう認識した次の瞬間、竜人の姿は消えていた。

 かろうじて影だけ見えた気がした。

 音も立てずに跳んで、こちらへと距離をつめる。


「死ねよ」


 端的に告げると残影だけを残したまま、男が持つとおもちゃのように見える安っぽく細い剣をふりはらう。

 雷を踏み抜く男が反応しきれないほど、飛び抜けて剽悍な一閃だった。

 

 あ、とおもったときには雷を散々苦しめた男の首が飛んでいた。


 頭上で血が吹き上がる。雨にふられるように雷は赤く濡れる。その生暖かさにそんな場合でもないのに、気持ち悪さがまさって顔をしかめてしまった。


 短い時間に殺し方を何回も考えた男の最期は、とにかくあっけないものだった。

 竜人は首のない男の体を蹴飛ばし、雷を自由にする。


「リックぅぅううう!?」


 仲間の突然の死に動転する男を気にもとめず、竜人は雷をそっと抱き起こす。壊れ物にでもふれるかのような慎重な手つきだった。たやすく男の首を掻き切れるくらいに見るからに力強い腕なのに、そこからは何かにすがるような弱々しい必死さを感じ取れる。

 

「なあ、大丈夫か? なあ、大丈夫だよなあ?」


 今にも泣きそうなふかく雷を案じる声であった。

 問いかけというよりも、懇願にちかい。そうであってくれと訴えている。

 骨張った大きな手を震えさせながら、男は回復薬をとりだして雷に飲ませた。


「頼む。飲んでくれ」

 

 舌に感じるのはかつて舐めた味だった。苦味の薄い、薬の味。それは生きるために必要であると本能が気づいたせいか、一滴残らずもとめたくなるような強烈な旨味に思えた。雷は力が入らない喉で懸命に嚥下する。回復薬が無事喉を通り過ぎていくと、男は安堵の息をこぼした。竜人は雷にゆっくりと回復薬を与える。二本目、三本目となれば、よりいっそうするりと喉を通っていった。


「ああ……」


 落ちてくる声と同時にちいさく熱いものが頬をやさしく叩いて、雷は竜人の男が涙をこぼしていることを知った。

 

 自分の涙と、吐き出した血と体液がまざった汚液にまみれ、土埃をかぶり、きわめつけに男の血のシャワーを浴びて散々に汚れた雷は、その涙のあたたかさだけは悪くないとおもえた。


 最初から死にたくなかった。

 だれかに求めれれて、案じられる命ならば、なおのこと手放すのは惜しい。


 いたわりにあふれた手が、雷の顔をゆっくりとなでる。硬い皮のごつごつした指がついた汚れをこすりおとしていく。

 歴戦を潜りぬけた老練の戦士の精悍な風貌が、幼い子どものようにぐしゃりとゆがんでいた。


「死ぬなよ、死なないでくれ……」


 四本目、五本目と与えられる。

 そうするとじくじくとした全身の痛みを自覚する。痛みに苦しむ段階を通りすぎて死に近づいていた体が息を吹き返して、感覚を取り戻していた。

 

 雷は耐え切れない痛みに獣のように低く唸った。悲鳴を殺し、《小回復(スモールヒール)》を自らに急ぎかける。それでも治癒は追いつかない。

 痛みから逃げるのを体が望む。身の内に牙がついた虫が暴れまわっているようだった。すこしでも痛みを散らしたくてすぐそばにある手にすがり、爪をたてるほどに強く握った。男はその手を振り払うことなくしっかりと握りかえした。


 ぜえぜえと苦しく忙しない呼吸が繰り返される。


「いたい、いたい……」


「ごめん、ごめんな。回復薬は全部使っちまった。ごめん、ああ、くそ。もっと予備を持ってりゃよかった!」


 男の懺悔が雷の胸をうつ。


 少しずつではあるが己で治癒できるから大丈夫だといってやりたいのに、呼吸のあいまに「痛い」とうわごとがでる。

 つい口にしてしまうというよりは、聞き届けてほしくて言葉にしている。

 男に訴えたところでどうしようもない類のものだというのに。男にとって、責め立てるように聞こえるナイフに形を変えているかもしれないのに。

 それでも口にしてしまう自分は、ただたんに同情を引いているようだと心のすみで暗くわらった。痛くて苦しくてしかたない自分を、哀れんでほしい。雷の痛みに共感して、ただただやさしくしてほしい。

 短い間にもう十二分に男からほどこしを受けたというのに、ひとのぬくもりに飢えた雷の心はそれでも足りないらしい。

 砂糖いじょうに己をあまく満たすものに、味を占めてしまったらしい。

 瀕死で理性の堰が外れている。卑怯なやり口だともいっていい、やさしいものであればあるほど雷に心砕かないわけにはいかないだろう。

 幼いこどもの癇癪じみたひどくみっともないふるまいをしてでも、雷ではうけとめられないほどの暖かな情をささげられて安堵したい。傷ついて、切なくて、苦しくて、痛くて……それを雷の中から追いやってしまうほどの他者からあたえられる幸せを求めている。


「助ける、お前は絶対に俺が助ける。だから、死なないでくれ」


 竜人は並々ならぬ決意をたたえ、雷に誓う。

 それはその場しのぎの言葉だけの安っぽいものではなくて、心のそこから吐き出された男の真の願いに相違ない。


 痛みをいたずらに訴える喉が止まる。気道で不器用に息がひっくり返った。言葉が雷の頭を叩いた。心臓がざわめく。耳にとけた言葉を咀嚼した頭が、心臓が、人生で一度だって経験がないくらいに慌てふためいて困惑している。男の言葉は雷の体の中でとろけて、勢いのよすぎる血流にのって全身に運び、余すところなどない末端にまで隅々まで届き雷をみたしたのだ。驚愕はただちに歓喜にうつりかわる。痛みすら忘れて熱をおびる。熱は雷の中で暴れる。それは筆のようでもあり、雷を塗り替える、かきかえる。流れる血まで新しいものに変わっていく気がする。雷礼央を構成するひとつひとつを、雷礼央を彼たらしめていた何もかもを、その言葉ひとつでぐしゃぐしゃに壊されて新たに作り直されている気がする。

 まるでうちがわから全く違う生き物に変わっていくようだった。



 世界がひっくり返ったような衝撃。



 ずっとずっと、雷はあきらめていたのだ。

 あきらめることをやめるほどに、理解していたのだ。ずっと、ずっとずうっとだ。助けなんてこない。自分をどうにかできるのは、自分ひとりだけだと。言い聞かせして生きてきた。

 それなのに、この男は雷を助けるという。


 言葉だけではなく、本当に助けにきてくれた。


 もうどうしようもないくらいに打ちひしがれ、文字通り死にかけていた。


 知り合いなどいないはずの世界で、ただひとりぼっちで死ぬしかないのだと歯噛みしながら受け入れていた雷を、そうではないのだと掬い上げた。


 鈍く沈殿していた全ての色が鮮やかになった心地がした。

 くっきりと鮮明になり、匂いづくように艶やかに華やいだ。

 まばゆいくらいに煌めいて、それはため息がつくほどに美しい。


 目に見える世界が一変するような衝撃は、雷のなかで冷めない。

 今もなお心臓は荒ぶっている。


 冷静さを取り戻すために、雷は忘れていた息を吐く。

 痛みを体が思い出して、慌てて回復魔法をかけた。


「大丈夫、俺は大丈夫だから……回復魔法使えるから……」


 なんとかそれだけを告げた。


「ああ、そうか。そうだよな。……やっぱり……」

 

 老いた竜人は雷が治癒の手段をもっていることにひときわ安心して息を吐いた。

 雷は、ぼんやりと思う。

 このぬくもりが雷の見た目の幼さゆえに与えられたものならば、好きになれそうにないこの体も悪いものではないのかもしれない。

 求めてやまなかったものが雷の二十三年間の全てである雷礼央そのものにでなく、幼い女の子に与えられるものならば過去は惜しむものではなく打ち捨てていいものなのかもしれない。

 雷がずっとしがみついて守ろうとしていた物の根幹が揺れる、ひびがはいる。

 

「やっぱり、雷。お前雷礼央だろう?」


 突然名前をよばれて雷の時は止まった。


 そうだよな? と恐る恐るといったふうに竜人は確かめてくる。

 名前を呼ばれるなどおもってもみなかった雷は、目を見開き驚いた。


「あ、ああ。そうだよ、俺は、雷礼央、だ……」


 どうしてか声はふるえていた。


「まだ、誰かいると思ってたんだ。よかった……間に合ってよかった。お前が、生きていてくれてよかった……雷」


 捨ててもいいと壊れても問題ないと、なかば投げやりになったものごと強く抱きしめられた気がした。

 雷自身が惜しくないと切り捨てた物を拾われて、もう一度手の中に戻された気がした。


 それは二度と捨てられない雷の宝物になった。


(いたよ、なんで忘れてたんだ。一緒にゲームで遊んだあいつ、キャラが竜人のじいさんだった)


「旭日、太陽……」

 

 名前をよぶと、男はいっそう涙をこぼしながら大きく破顔したのだ。


「やっぱり、そうだった。よかった、よかった雷……」


 生きていてくれて、ありがとう。ちいさくそんな感謝が聞こえた。

 礼をいわなければならないのは自分なのに、何をいっているのだろうか。

 ずくずくと膿んで腐り落ちるように胸が痛んだ。

 雨のように涙がおちる。


 雷は生涯、口の中にはいりおちたほんのわずかな塩の味を忘れることはないだろう。






 藍色の空が朱色にそまりはじめていた。






 日の出の輝きは、闇を打ち払う。竜人の名前そのものだった。

 照す光を背中に受けて、旭日自身が輝いているように見えた。

 竜人の男は……旭日太陽という男は、雷を照らすまさしく光になった。

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