第七話 希望
1
夜、小雨がさらさらと降っていた。木々の葉が水を受け、はじくのを繰り返す。たった一晩で、しっとりと森はぬれていた。
雨のせいか、その日の朝はいっそう冷え込んだ。この世界に迷い込んだ夜から、秋のはじまりの装いを見つけていたが、それをしんしんと身に沁みて感じとった。寒さが執拗ににじりより、獣の子のようにぎゅうぎゅうに丸くなってもごまかしきれない冷えに体がぞくぞくとふるえて、雷は眠りつづけることができなかった。化猫に噛まれて孔が開き血まみれになった袖口はちぎって捨て、左肩から下はほとんど剥き出しになっているから、余計に寒々しい。
すっかり眠気が飛び、仕方なくまぶたをあけようとするが、とりきれない疲労のためか妙に腫れぼったくて重い。
雷は寒さをしのぐために両肩を強く抱いていた手をほどき、まぶたをこすった。
(いやな目覚めだ)
昨日のうちにかき集めておいたまずい朝食をすませると、獣から身を隠すために落ち葉や枝をかき集めて蓋をしたうろから雷は這いでる。
枝と葉の蓋は防寒にもなっていたようで、うろの外に出ると体感温度がさらに下がった。芯から冷えていく寒気にさらされて、雷は身ぶるいした。自身に咎があるわけでもないのに、こんなみじめな状況にさらされているのがやりきれなくて、ひたすら辛い。
朝もやがたちこめていて、ぼんやりと白くにじんだ森を花のランプが点々と灯しているのが見える。
そのあかりが何かに気づいたようにぽつりぽつりと減っていき、やがて視界の悪い薄気味の悪い暗い森だけが残った。
今日は曇天だろうか。それとも、また雨がふるのだろうか。森に隠された空の行く末を案じながら、雷は四日目の朝を迎えた。
2
昨日は山猫に遭うまえに二匹犬を倒しているし、今日も朝のうちにみつけた単独行動中の犬を二匹倒した。順調に経験値を稼いでいる。レベルアップまであと犬を一匹倒せばいいという事実に、気分は少しだけ上昇する。
濡れた木々をかきわけ、弱い魔物がいる方向を探して歩く途中、青いスーパーボールを見つけた。
いや、一瞬スーパーボールに空目しただけで、魔物だった。青い色のスライムだ。野球ボールよりも大きなこどもの玩具のような生き物は、真球の姿をとったかと思えば、すぐに潰れたような姿になる。森の中で小さく跳ねるように移動している光景は、やっぱり大きなスーパーボールだった。
雷の持つ知識が確かなら、犬や鼠よりも弱い魔物だ。すかさずスライムに近づき、ロッドで殴った。水風船が弾けるような音がして、スライムはあっけなく割れた。
「弱……」
予想以上の手応えのなさに、まじまじとスライムの残骸を見つめる。
透明な膜から、どろりと青い液体がこぼれている。中には石ころようなものが入っていた。これはたぶん、魔核というやつだ。雷はゲームの知識を頭からひっぱり出す。魔核は魔物にとって心臓にあたる。
魔物によっては美しい魔核を持っていて、そういった魔核を狩ってくるクエストもある。たしか、これがある生き物が、魔物と呼ばれているはずだ。
雷は経験値が気になり、手帳をさっと開いた。
今までの戦いで取得した経験値の合計は95になっていた。
(スライム一匹で経験値5……今の俺には、でかい!)
犬と戦う労力とは比べ物にはならないくらい楽に倒せるのに、レベル0の雷にはひじょうに美味しい経験値になる。あと一匹倒せば、レベルアップが可能なのだ。
(スライムを見つけたら、倒そう)
食べ物や新たなる水場、森の出口を探しがてら、雷はスライムに対しても注意をはらった。
スライムは野球ボールによりは大きいが、ジャンプしてもさほど高さがないため背の高い草の上にいると見つけにくい。
延々と歩き続け、その後、見つけたのはスライム一匹。犬はいたが、残念ながら群れで行動していた。複数いると、魔法をつかっても安全に対処できる自信がないから、そっとその場を離れた。
スライムは、意気揚々と潰した。武器を使う必要性もなかった。
その日、森の終わりは残念ながら見当たらなかったが、雷は希望を捨てなかった。
魔物の中で、最弱の部類のスライムと会えたということは、きっと人の住処がより近づいてきているのだ。
そして、念願のレベルアップが叶う。
生きる残る可能性が高くなる。一歩づつ進む手応えを、雷は噛みしめた。
3
さいわい、散策の最中雨にふられることはなかった。
雷は、この日ある決断をする。水場に近い仮宿にしている木のうろに戻らず、歩き回った先の場所にとどまることにした。ここから、毎度同じ場所に戻るのも時間の無駄のように思えたのだ。きっと、出口は近い。これで、ようやくひとが住む場所に向かえるだろう。
低いところまで枝を垂らしている巨木の根のすきまに、雷ははいりこんだ。入り組んだ木の根が屋根になっているが、地面は昨晩の雨でしめっていて、座るのにおちつかない。しかし、わがままもいっていられないので、雷はしぶしぶここで身を休ませる。
花のランプは茎から切ってもしばらくあわい光を灯していることを知った雷は、枝や葉っぱで出入り口になる場所をかくして真っ暗になった木の根の下で、花のランプを眠りに落ちるまでのあかりとした。
渋い果汁を無理やり飲み込み、薬草を食べる。人里にでればこんな食べれば食べるほどひもじくなる飯もきっと終わりだ。雷はそれだけで胸が熱くなった。
まずい食事をしながら、雷は努力の成果を得るために、手帳を開いた。
どきどきと期待で胸を膨らませながら、取得経験値をタップする。この経験値で、二つあるうちのどちらかがレベルを上げられる。
今の段階ではどちらをあげても得られるものはほとんど変わりないので、とりあえず神官に経験値を分配した。
そうすると、そのページに描かれた文字が黒いインクが水に滲むように薄くなり、やがて消えた。そして、時間をおかずにあらたに筆記される。
(ファンタジーだなあ)
ここがゲームに似た世界でなければ、ホラーじみた光景でもあった。現代日本で見たら、きっと恐怖で引きつっただろう。雷の神経は非現実に慣れてきていて、すこしだけ麻痺していた。
雷礼央 種族Lv1【神官Lv1 刻印騎士Lv0】
レベルがあがり、能力値が上昇した。
魔力と体力が2増えた。敏捷、精神、防御力、魔法防御が1上がり、攻撃力と器用さは上がらなかった。
胸の中で膨らんだ喜びは、一瞬でしぼんだ。魔法系の構成をしている雷の能力値は、レベルがあがってもやはり頼りなく見えた。
(どっちの職業も物理と魔法の複合職なんだけどな……やっぱり体格がネックで攻撃力は上がりにくいのか? 命に関わる防御力が上がっただけでも、よかったと思うしかないな)
攻撃魔法でも使えれば、ダメージソースの圧倒的足りなさを補ってあまりあったのだが。過去の自分がこんな目にあうなど一切予想するわけないから仕方ないとはいえ、攻撃系の魔法を使えるようにしておけばよかったと雷は後悔した。
なにせ〈刻印魔法〉の使用には、まどろっこしい手順がいる。
攻撃が主な〈属性魔法〉、支援と攻撃が得意な〈秘術〉、攻撃と回復に支援と反支援と多彩な〈森林魔法〉。これらのどれかを習得していれば、状況はまだ楽だったろう。
(ないものねだりしていてもどうしようもない、か……覚えてない魔法も、アイテムやクエストで習得できるのかな? いや、今考えるべきはそこじゃないな)
魔力が上がったから、魔法の効果もあがるだろうか。
(回復魔法はいざとなったときの命綱だからな。そういえば、特技スキルにしているよな? ……性能が高くなるのなら、より高くなったほうがいい)
ジョブひとつごとに、特技スキルというものを設定できる。特技にしたスキルは成長しやすく、効果も高くなる。それに、成長値にも多少の補正がかかる。たとえば雷の〈神聖魔法〉だが、これを特技にしておくとレベルアップ時に魔力が上がりやすくなる。
雷は息を吐いた。
(ひとまずの、目標には到達した。あとは、もういっこの刻印騎士をあげよう)
職業レベルを1から2に上げるには、必要経験値が1000と一気に跳ね上がる。犬とスライムしか倒せない雷には、気が遠くなる数値だ。神官のレベルはしばらくこのままだ。
また、経験値を100ためる。刻印騎士に経験値を割り振り、もう一度レベルアップすれば、今よりもより安全になるはずだ。
(とりあえず明日は、ステータスの違いを実感するとするか。……1くらいの差だと、全く違いがわからないとかじゃあないよな……?)
雷はレベルアップに喜びをいだいたのも束の間に、不安を抱えながら目を閉じる。
(でも、そろそろ森の外に出れそうだし、そんなに心配にならなくてもいい、のか……?)
人里についてしまえば、安全を確保でき、きっとステータスの優劣など気にしなくてもよくなる。
そんな、自分にとって都合のいい夢想を描いていると、雷は湿った地面の居心地の悪さも忘れてまぶたを閉じていた。
(なら、そこまで気にしなくてもいい、か。まずは、森を出ることを考えて……)
明日のことをつらつらと考えているうちに、一日中歩き回った疲労で雷の意識はすぐに途絶えた。
4
「よ! レオサンダー」
雷の人生において、後にも先にもこんな変なあだ名で呼んでくるのはたったひとりだけだった。
(オサム……)
雷は弾かれたようにふりむいた。
軽薄な印象をあたえてくる金髪の男が、満面の笑みをうかべている。
ひどく懐かしい存在に、胸が潰えそうになった。こみあげる感情のまま男の名前を呼ぼうとして、声がまったくでないことに気がついた。雷は見上げる視線で、動揺をおさえきれないまま友人を見つめる。金髪の友人は棒立ちになった雷に目を向けない。なぜなら、友人のかたわらには記憶の中にある雷の姿があるからだ。
雷は頭を強く打たれるような衝撃のあと、己が体を急ぎたしかめる。手足が小さく、破れていない詰襟の黒い服を着ている。そうして、これが夢であることを雷はわかってしまった。
気が狂いそうなくらい見慣れてしまった森の風景から、雷が暮らしていた安アパートの一室に移り変わる。
畳敷の古い部屋に、中古で買ったふたりがけのソファと貰い物のこたつを2DKの一室にぶちこんでいるのが、雷の家のリビングだ。
記憶の中の友人は、大人の雷にはなしかけている。
雷はまるでそこに存在していない幽霊のように、それを俯瞰していた。
「な、レオサンダー。最近はじめたゲームがあるんだけどお前も俺と一緒に協力プレイしてくれよ! あと、なにか生産系職を一個とってくれ。作ったアイテム交換しよう!」
「はあ……相変わらずオサムは唐突すぎだろ。……なんだこれ、アクションゲーだろ。俺、コマンド入力が忙しいやつ苦手だし」
(これは、過去の再生だろうか)
以前、実際にあった一幕だ。
雷がながめていると、スマホを使って友人のすすめてくるゲームの情報を検索して、大人の雷は渋い顔をした。
表示されたジャンルはアクションRPG。雷の記憶のとおり、その時点で二の足を踏んでいるのだろう。
雷は、夢の中の自分がのぞいてるスマホをのぞきこむ。
(そうそう、『精霊の贈り物』のレビューはあんまり評価高くなかったんだよな。評価高いのも遊べるクソゲっていう感じで)
マーケットサイトでレビューをたしかめると、そこでの評価はなかなか散々。
まず、シナリオや設定面で、癖があるゲームであることを指摘されている。
オリジナリティを出したかったのかもしれないが、RPGの定石通りのシステムにすればいいものを、取っ付きのなさが酷い。
ダークな世界観を表現するために無駄にR18指定になっていて、胸糞の悪い描写を見せつけられる面も多々ある。
反面、プレイの快適性を意識してか画作りが基本的に明るく、ダークファンタジーゲームの雰囲気作りというものに対して真っ向から蹴りを入れていて、作品の雰囲気がどっちつかずになってしまっている。
そもそも制作陣のやりたいことが二つに分かれていたのか、画作りに合致した明るいエピソードもあり、ダークファンタジー特有の常につきまとう重苦しい空気というものが薄い。
それゆえにやりきれなさのある理不尽なシナリオが明るい話の合間に放り込まれると、ただひたすら胸糞悪くて仕方がないなどなど。
低評価のレビューには「やりたいテーマをひとつに絞れ」と酷評されていた。
雷が実際にプレイした感想が集約されていた。
ゲームシステム面でもクソゲー色が強く「魔法系・生産系主人公接待のために魔法・生産のNPCが用無し」「ボスガチャ氏ね」「種族格差流石にひどすぎ」「エルフ&魔法バランス崩壊ゲー」という批判のほうが多かったので、シナリオ面に関しての不満の意見というのは薄らいではいたが。
この『精霊の贈り物』の何が問題かといえば、ゲーム中で主人公の特殊性や特別性を出すために、システム面で不便にしてあることだった。
6段階ある魔法のうち、ストーリーの仲間となるNPCが使えるのはほとんど3段階までだとか、アイテム制作においてもNPCは最高ランクのものを作れないだとか、制約が多い。
PC以外の存在が高いランクのアイテムを作れないという設定から、総じて店売りの物はストーリーが進めば進むほど強くなる敵の難易度に合わなくなっていく。
よって攻略には他プレイヤーとの協力プレイが推奨されている。武器職人や、アイテム職人などそれぞれの生産系のジョブレベルを上げて作った物をプレイヤー間で交換し、やっと高レベルの装備やアイテムをストーリーモードの仲間に行き渡らせられる。
一度、人類が絶滅寸前まで追い込まれ、過去にあった優れた文明が崩壊したことにより、強大な魔法や貴重な道具の制作方法が失伝した世界という設定のためらしい
主人公はそんな世界に唐突に現れた特異な存在で、魔法系ジョブを取得してレベルを上げれば最高位魔法を難なく扱え、生産系ジョブを取得すれば伝説級の品々を作りあげる。
プレイヤーの操るキャラクターに対する安易な持ち上げが鼻について、雷はゲームプレイ中に苛立ちが湧き上がることもあった。
「はじめる前からクソゲー臭がする」
おおまかな評価を読み終えた大人の雷は、鼻じろんだ。かつての雷のままの態度だ。
「慣れればなんてことないから! ね、やってみてよぉ」
友人が食い下がってくるので、結局不承不承雷はそれに手をだした。
(しょうがないっておもってたんだよな。オサムに巻き込まれるのはいつものことだし)
高校時代に友人になった男で、あれそれの映画やドラマが面白いからみろだの、テーマパークにできた新しいアトラクションに一緒に行こうだの、ひとりで冬の海にいく寂しすぎるお前の趣味に付き合ってやるぜと騒ぎながら酒をもってきて海に向けてドライブしたり、一人暮らしで風邪ひいたから飯と薬買ってきてと助けを乞われたり、時には一緒にナンパしにいこうぜ! と休日にアポ無しで突撃してくる男であった。
眉も細く整え、男だろうと肌の手入れはけしてかかさない。髪は常に派手に染めている。見た目はいわゆるギャル男だが、人懐っこくて裏表がないやさしくいい奴だった。小学校、中学校といじめられっこだった雷が、高校時代に大禍なく過ごせたのは、彼ともうひとりの少女と友達になれたことがおおきい。
幼い少女の姿をした雷の前で、友人と大人の雷がありふれた過去をくりかえしている。
一度は受け入れたはずの死が、ふたたび雷の胸中をざわめかせた。取り返しのつかない事象であったとしても、やはり雷礼央として日本で生きていたかったと、つよく惜しむ。
(お前があのゲームを勧めてきたせいで、俺は今こんなだぞ。どうしてくれる)
半ば諦めをこめて、雷は友人に届かぬ声で語りかける。
(まさか、死んだ後にオサムに勧められたゲームの世界に放り込まれるなんておもってもみなかったよ。お前も、俺がこんなことになってるとはおもってもみないだろうな)
それを知ったら、彼はおどろくだろうか。笑うだろうか。むしろ羨ましがりながら「俺もそっちの異世界でかわいい女の子ナンパするわ!」と明るくいい放ちそうである。
想像の中のとりわけ楽しげな友人は、雷の心の中にある重いものを軽くした。
同時に、この底抜けの明るいおひとよしが雷のおかれている理不尽な境遇とはまったく関わりない場所にいるという事実に、雷はふかく安堵するのだ。こいつは世の中を恨むことなく感情に素直に目一杯子供みたいに笑っていればいい。地獄みたいな環境、この男には似つかわしくない。
それでも、彼が一緒にいればこのどうしようもない状況を打開し、楽しめただろうか。きっとそうだろう。雷を振り回すめちゃくちゃな奴だから、突拍子もない行動をとって雷をやきもきさせながら、結局終わりよければすべてよしとでもいうような結果を出すやつなのだ。
つぎつぎとわきあがる想像が面白おかしいほど、雷の気持ちは沈んだ。
(なあ、オサム。俺、死んじゃったんだ。死んじゃったんだよ……会いたい、寂しい。ひとりぼっちは、いやなんだ)
せめて、せめて。夢の中でくらい会話できてもいいじゃないか。
幸せな光景から壁一枚へだてたような場所で、過去に突き放されて雷はさめざめと泣いた。
「助けて」
雷は願っていた。
「誰か助けてくれ」
この孤独から、救って欲しい。
5
五日目。
寒さのせいか、昨日と同じように早く目がさめた。目元がびっしょりと濡れていて、おどろく。
(嫌な夢でも見たんだろうか……覚えてないな。……でも、なんだろうな。すこし悲しい夢を見た気がする)
身内にしくしくと蝕まれた切ない痛みが残っている。
(覚えてなくて、よかった。きっと、ただでさえしんどいのに余計に憂鬱になる)
もやのような悲しい感情の残滓を、まずい食事と一緒に飲み込む。
気分を切り替えて雷は探索を開始した。
今までは犬と鼠を満遍なく見つけていた気がしたが、犬の数が減ったように感じた。
犬の代わりに、スライムが増えた。雷は、揚々とスライムを四匹潰した。三匹の群れになって襲い掛かられたが、攻撃の仕方はゲーム以上にお粗末だった。その場でぽんぽんと跳ねて、幼児が一生懸命やわいボールを投げたような勢いの体当たりしかできないのだ。通用しない攻撃を一生懸命に続けるその努力に喝采をおくりつつ、スライムには雷の貴重な経験値になってもらった。
それが昼まえの出来事だった。
相変わらずの進まない食事をとる。そして探索を開始して、一匹だけでいる犬をやっと見つけた。
自分がどれだけ強くなったか試す好機だった。防御力を試す気は絶対にないが、体力の確認はできる。2、上がった体力とは一体どの程度の変化なのか。戦技を使った後の体力の消耗で確認したかった。
まずは石を犬に向かって投げる。運良く命中した《停止》によって、犬は四肢を縛られたように止まった。
頭の中にある説明書によると、対象の時間を止めているわけではない。使用者の魔力で力づくで対象を縛り付けてあるのだ。
「うっー! うっー!」
だからこうやって声をあげることは可能だ。
犬は牙を剥き出しにして唸っていた。我が身に何がおきたのかわからないが、突然あらわれた雷がその元凶と察することはできたのだろう。
一切身動きがとれないことに焦った顔をしながらも、闘志は消えていなかった。その諦めない強靭な意志を刈り取る、無慈悲な戦技を雷は放った。
犬は内臓が潰れて喀血し、死んだ。魔法のせいか、ぐったりと動かずに立ったまま死んでいる。かなり不気味な姿だった。
(うわ、気持ち悪い)
戦技の直後、そんな慈悲もない残酷な感想をいだけるくらいに余裕がある。
息が上がる疲労感に全身が重く感じるが、体が動かせなくなる極度の体力消費ではなかった。
(動ける……!)
呼吸を整えながらになるが、歩くことも可能そうだ。
無理をしなければならない状況ではないので今は休んでから動くが、何かあったときも以前よりも無茶がきくようになった。
戦技を放ったあと、長い間隙だらけになる状況を避けられるのは嬉しい。
(もう一度レベルをあげて、体力が上がれば今の状態よりもさらに楽になるのか。何かあったときのために、早く上げておきたいな。ひとまずは、スライム潰しだ)
スライムの比ではない速さで体当たり攻撃を数でしかけてくる毒鼠は、まだ相手にしたくない。複数の犬も、まだ怖い。とても楽に安全に倒せるスライムが、一番だ。
6
歩いていると、夕日の差込がやけに強い気がした。
遠くを見ると、木々の生えない原っぱが見えた。
雷は興奮で足を縺れさせながら、急ぎ足で前へ進む。
「道だ……」
森の中に、道がある。
草木を踏みしめただけの獣道なんかではない。
アスファルトを見慣れた雷にはお粗末な舗装に見えたが、砂利を敷かれたそれはまごうことなく人為的に作られたものだった。
前後を見渡しても、森はまだまだ先に続いているようだった。
しかし、この道さえ辿ればきっと森から抜け出すことができるのだ。
じわりと涙が滲んだ。
喜びと安堵で、泣くなんて雷に記憶において初めてのことだった。
道を歩いていれば、誰かと出会えるかもしれない。
この世界の言葉は、なぜか頭に擦り込まれている。それも、見聞きした記憶のない言語がななつも。大陸西部語、大陸中央語、大陸東部後、大陸帝国語、大陸古代語、古代魔法語、大陸交易語。ゲームの舞台となる世界のどんな場所に飛ばされていても、会話に苦労することはないだろう。
ひとと会ったら、会話できる。そうおもうだけで嬉しかった。
雷はずっとさみしさに耐えてきた。
だれかのぬくもりに飢えていた。
誰にも泣きつくことも相談することもできず、自問自答を繰り返し、励まし、戒め、ずっとひとりで彷徨い生きてきた。身につまされるおもいで、頑張ってきたのだ。
雷の二十三年間の経験で、一番長い五日間だった。
ひもじいおもいをしながら、とても食べ物とは思えないものを口にしなくてもきっとよくなる。
人と出会える。
世界にたったひとり取り残されてしまったような、耐えがたい孤独もこれで消えてくれるだろう。雷は人見知りが激しい性質で、ひとりが気楽な性分だったが、だからと言って他人と一切関わりあいたくないわけではないのだ。
だいたい、人っ子ひとりいない場所など、雷には生きていくことが不可能だ。サバイバルの知識もなければ、それをやり遂げる気力もない。ここまで生きることができたのは、いつか人の住む場所に行くという希望があったからだ。
ひとの営みがあり、その端っこにひっかかることで雷は人並みの生活ができるのだ。
命の危険があるごつごつした冷たい地面の上での野宿ではなく、暖かい寝床で眠れるだろう。
やっと生きるための足掛かりを掴めた手応えに、雷は胸にこみ上げてくるものを感じた。
いまだに日本に未練がある。でも、帰れないことはわかっている。雷は、ここで生きるしかない。こんな姿でこんな場所で生きるのは嫌だと、悲嘆にくれて死ぬつもりなんて絶対にない。雷は前に進む。
安定した生活の保証が欲しい。
すくなくとも、まともな飯を食いたい。
これからどうなるか、という不安は胸の中にまだある。
自分がこれから先、どんなふうに過ごすのか。過ごせばいいのか。ふつうの生活ができるのか。わからないことが多すぎて、少し先のことの想像すらできない。
しかし、それを上回る「少なとくとも今よりは絶対にましになる」という希望が、雷の足を動かしていた。




