表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
精霊に捧ぐ  作者: 春生カタパル子
暗中模索
6/25

第六話 生還

 1


 満たされない食事を終え、赤い実を回収。とりあえずの安全地帯に定めた木のうろにむかう。そこに身をひそめて、雷はロッドへの加工に取り掛かる。

 といっても、簡単なものだ。


(赤い実の果汁でなんとかなるといいんだけど)


 赤い実をつぶすと、赤紫色の濃い汁がでる。

 それをつかって指で木の表面に描くのだ。ものは試しにと行ってみると、指の太い線でぶかっこうながら刻印(ルーン)を描くことができた。滲んだり、垂れて消えることはなくどういうわけか最初に書いたままに線が固定化している。魔法文字のもつ力か、技能のもつ力なのかもしれない。


 まあ、使えそうだ。と、スキルのもたらす感覚が雷に教えてくれる。だが、これが正しいわけではないような気がする言葉にならない違和感はあった。100点中30点くらい、そんな根拠のない評価がふわりと身内にわいてくる。


(正しい作法とか、書き順とか、描くためにつかうものとかがあるのか? まったくわからない)


 現時点で準備できるものはこれくらいなので、ないよりはましなのだと思って騙し騙し利用していこう。

 雷は《遅滞(スロウ)》と念じながらロッドを振った。自分の中にあるものが、棒に向かって吸い出されていく感じがする。

 木に打ち付けてみた。

 変わりはない。動かない物を対象にしているのだから、当然の結果だ。だが、魔法が発動した手応えはある。


(なにか、効果を実証できるものはいないか?)


 雷は探すが、試しに使えそうなものは見当たらなかった。

 石を拾い、赤い実の汁で《停止(ストップ)》の刻印(ルーン)を描く。こちらは100点中50点。


(同じもので描いてるんだけどな。こっちのほうがまだまし、って気がする。なにがよくてなにが悪いんだ? 文字の正確性?)


 雷は頭をひねりながら、手ごろな石を拾い十個ほど刻印(ルーン)を描いた。

 描き終えた石をじっと見つめる。


(投げて使うわけだけど……ゲームの時は消費アイテムってだけだったが……現実になると、こう……なんか、やだな。

 一応魔法なのに、実行は物理手段なんだよなあ)


 雷は物悲しい気持ちになる。


 雷は石の行き先がわかる程度の距離に、ぽすんと軽く放る。

 落とした先を探した時、石に描いた刻印(ルーン)は消えていた。魔法は無事発動したらしい。


「不便すぎる……」


 魔法に成功しても、その実感は〈神聖魔法〉のときよりも薄い。

 なぜ、魔法を使っているはずなのに、自分で石を投げなくてはいけないのか。魔法の力で自動で発動してくれてもいいだろう。

 それに、近接戦になったら石なんて投げてる暇がないだろう。どうやってこれを使いこなせというのだ。


 なにより不便なのは、戦いのときに石に描いている暇などないから、あらかじめ刻印(ルーン)を描いた石を用意しておく必要があることだ。それを運ぶのは誰だ? 自分だ。


(『精霊の贈り物』にはインベントリがないのがなあ)


 無限にアイテムを収集できるタイプではなく、ローグライクほどではないがアイテム管理能力がいる。

 キャラクターごとにアイテムを管理し、体格と体力によって、荷物の持てる数が決まっているゲームだった。

 フィールド移動やダンジョン攻略のために必要なアイテムを厳選し、かつ倒した魔物から手に入れる素材や道中で拾うアイテムを安全地帯に持ち帰るための空き容量も必要だ。


(石とか投げナイフとかはひとつのスタックを使用して最大999個まで持てるのは、まあ、助かったよ。《停止(ストップ)》の魔法のために俺のキャラの少ないアイテム欄が全部埋まらなくてすんで。

 そこはゲームだったな。今は容れ物がないのと重さのせいで20個だって石を持てる気がしないが)


 雷は袋の中に石を全ていれてみた。重量があり、ずっしりとくる。作りの荒そうな布がやぶけないか心配になる。

 服にはポケットがついておらず、持ち運ぶには自分の手で持つか、袋にいれておくしかない。


(倒せそうな魔物を見つけたら、この石を投げて動きを止めて棒で殴る)


 《停止(ストップ)》の効果は《遅滞(スロウ)》で延長させることが可能なので、悪くない戦術だ。このふたつの魔法さえうまく使えば、昨日よりも安全に戦えるだろう。

 石さえ当たれば、の話だが。


 動かない枝には石は上手く当たったが、魔物を相手にしようとしたら今日のようにはいかないだろう。なにせ予想つかない動きをしているかもしれないし、じっとしている獲物を狙ってもこちらの投擲に気づいたら生き物だったら当然のように逃げるはずだ。


(最悪、《遅滞(スロウ)》の効果だけを頼りにしよう。《停止(ストップ)》は運がよければ発動するものだと思っていれば、間違いがない)


 雷は作戦を決めて、動きだした。


(まず森の出口を見つけるのが一番だ。だが、長期戦になることも考えて、レベルをあげたい。勝てそうな魔物がいたら、こちらから仕掛けるぞ)


 2


 うろと水場を中心に周囲の探索を広めていった。

 魔物は鼠の群れと二匹で行動する黒い犬を見かけた。雷はそのたびに見つからないよう必死にやりすごした。

 草を結び、自分が通った跡を残していく。


 一度だけ一匹でいる犬を見つけたので、それを倒した。

 投げた《停止(ストップ)》の石は狙いとおりの位置に投げられたが、気づいた犬に避けられた。だが、頼りの《遅滞(スロウ)》は、犬を緩慢にさせたので問題なかった。スローモーションのような動きになるのではなく、疲弊した状態で無理に動いているような速さだった。急所である頭部を何回も何回も殴るとやがてぐったりと動かなくなった。


 《遅滞(スロウ)》を発生させれば、戦技(アーツ)を使わずに黒い犬を倒せるのは嬉しい情報だ。めまいがするほどの極度の疲労というのは、日に何度も味わいたいものではない。時間経過で早く体力回復するとはいえ、足を止める程度の休息では癒えない疲労を、蓄積している気がする。昨日も二度目の戦技(アーツ)の発動後の疲労は、一度目よりも重かった。一日のうちに二度、三度と使っていては、きっと倒れてしまう。


 朝と同じ食べ物を見つけ、やわらかそうな茂みに身を隠して昼食にする。水分は顔をしかめるほどのえぐみのある果汁で補った。舌がおかしくなりそうだが、何も腹にいれない状態での探索では、何かあったときの対処がむずかしい。

 午後の探索ではゲームで登場する薬草と毒消し草を見つけた。毒消し草のそばには香草に似た葉っぱが生えていたので、それを摘む。


 生野菜のように食えるかは謎だが、全く名称を知らない草木よりは安全性が高そうだ。

 一匹だけで動いている犬を二回見つけて、それを仕留める。レベルがあがるまで、あと半分だ。


 夕方になり、暗い森の中がよけいに暗くなり始めた。ランプのような花があちこちで光を灯しはじめたので、雷はうろに戻って食事をする。

 薬草は苦い。

 ピーマンやふきのとうをいっそう強烈にした苦味だ。これらの野菜や山菜を、雷は好んで食べなかったが、付き合いでの食事に出された時には渋々食べていた。

 今の自分であればピーマンやふきのとうが美味しく食べられるだろう。

 考えても詮ないことに意識を飛ばしながら薬草を飲み込む。

 香草は日本のハーブよりもいっそう匂いが強烈だった。

 雷は何も食べないよりは、と必死に飲み込んだ。


 毒消し草は口にした瞬間に舌や口内の粘膜に痛みと痺れが走ったので、すぐに吐き出す。


 すぐに《浄水(クリアウォーター)》の魔法をかける。口の違和感は消えた。

 毒消し草によく似た植物なのか、それとも雷の知る毒消し草だがきちんと手順を守って加工しなければ毒消し薬にはならないのか。どちらかはわからないが、今後は毒消し草を食べないことを決めた。

 異世界に来た二日目は現状打破の手応えのないままに過ごした。


 3


 三日目はより遠くの探索を心がけた。拠点になりそうな水場を探しながら、森の中をかき分け進んだ。


(あれは、やばい)


 雷は山猫の魔物を見つけた瞬間恐怖で全身が一気に冷えた。茂みの陰でさっと身を低くする。気配を消す方法など皆目わからないが、それでも自分の存在を消すために全身全霊をつくした。

 

(最初のボスを倒した後のフィールドにいる敵だ。レベル1にもなってないのに勝てるわけがない)


 雷の視線の先には泉があり、時折なにかが水の中で跳ねる音がする。そして、そのすぐそばには苔の生えた大きな岩の上でくつろぐ大きな猫がいた。

 

 額にもう一つの目がある、妖怪じみた三つ目の猫だ。鼻は太く、立派な髭をたくわえている。髭袋のぷっくりしたラインの下から剥き出しになった牙がぎらりと獰猛にかがやく。四肢には猫科特有のしなやかな筋肉がつき、おそろしく剽悍に動くであろうことがその体躯からうかがい知れる。鯖トラ柄の模様で、その毛並みは妙につややかだ。虎や獅子の猛獣よりは小さいが、愛玩動物として馴染みがあるイエネコよりもずっと大きい。


(ぎりぎり俺が乗れるんじゃないか? いや乗れる大きさだとしても乗る気はないが。そもそもあんな凶悪そうな(ばけ)猫になんか乗れないが)


 雷はごくごく静かに、ゆっくりと息を吐く。


(見つかったら、終わりだな。あの化猫は、敏捷が俺よりも断然上だ。逃げる暇もない)


 じっとりと嫌な汗が体中を這う。雷は化猫の一挙手一投足すらも見逃すまいと、まんじりと見つめる。できれば、早くここから離れていってほしい。雷が下手に動いて、こちらの存在に気づかれたら大事だ。


 三つ目の山猫は雷の途方もない緊張などおかまいなしに、ゆうゆうと毛繕いをしている。仕草だけなら、テレビでよく見かけていた可愛いともてはやされる猫そのものだ。


(俺に、まだ気づいていない。動いても、大丈夫か?)


 ぎゅうと心臓が掴まれたみたいに痛い。どうする、どうする、と気ばかりが焦ってまともに頭が動かない。本音をいえば、すぐにここから離れたい。しかし、その瞬間に猫に存在を勘付かれてたらとおもうと二の足を踏む。

 しばらくしてから、雷はそんな自分に胸中で舌打ちした。


(よくない。俺の、この判断の遅さ、決断力の低さは、まったくよくないぞ。慎重を期するのは大事だが、これはそうじゃない。俺のこれはいろんなものを放棄したみたいに、何もできずただ立ち止まっているだけだ。考えているようで、迷っているだけ。迷って、何もしていない。何も、考えていないんだ。どうする、どうすればいい、なんて問いかけたって、誰も答えをくれないし、俺だってわからないんだから、無意味だ)


 生きたいのならば。死にたくないのならば。このままではいけない。


(何もしないままでは、変わらない。状況が動くまで待つのも、手段のひとつだ。それもありだとおもう。でも、それに至るのならちゃんと選んだ末にそうなってないと、だめだろう。

 じっとしていても、事態が好転するわけでもなし。もしかしたら悪化するかもしれない。

 ひたすら身動きひとつとれないでいて、結果的に何かが起きるまで何もできないでいるのは、だめだ)


 いいか、ちゃんと頭を動かせ、と雷は自分自身に強くいい含める。


(最悪、仮に気付かれたとして、俺はまずどうするべきだ? すぐに逃げる。いや、逃げるために背を向けたところですぐに追いつかれて、背中から飛びかかれて一巻終わりだ)


 うつ伏せに地面に押し付けられて、そこで終わり。相手は猫であるし、すぐに死ぬこともできずにさんざん嬲られて、あの牙か爪にやられて苦しみぬいて死ぬのかもしれない。


(そうなるくらいだったら、一か八かの可能性にかけて《停止(ストップ)》の魔法をかける。こういったデバフ魔法は山猫の魔力よりも高くないと魔法が効きにくいけれど、あの三つ目猫に魔力なら勝てているかもしれない)


 雷は石を詰めた袋にそっとふれる。


(投げた石が外れたとしよう。あの猫にあっという間に捕まる。そのままがぶりと首でも噛まれたらそこで終わりだが……考えたくもないが俺にじゃれて散々弄び殺すような方法を取るのなら、まだ活路はある。至近距離なら《停止(ストップ)》の刻印石も当たるだろう。ロッドで《遅滞(スロウ)》をかける隙も、あるかもしれない。動きさえ鈍重にしてしまえば、生きてさえいれば、回復魔法で怪我を癒して俺は逃げられる)


 頭の中で対処法を組み立てる。

 雷が今の時点できることといえばそれくらいだけだ。だが、それすらできないような、愚鈍にはなりたくない。さきほどまで、雷はまさにそんな愚鈍であった。頭が真っ白になって、思考を放棄したままばかみたいにぼうっとしていた。

 この状況を簡単に打破するような能力も、頭脳もない。

 だからこそ、この極限の中できることすべてをしなければならない。


(雑な脳内シミュレーション、終わり)


 そして、覚悟を決めること。

 自分の決断によって、悪化する可能性も踏まえて、それでも自分の意思で選ぶ。

 なるようになるのは運がいい人間だけ。そうではない雷が、状況にだらだらと流されるのはいけない。


(こんなところに一分一秒だっていたくない。気配を隠すのが上手いやつがいて、いきなり背後から不意打ちをくらうことだってあるかもしれない。だから、逃げる。俺は動く。動け)


 恐怖と緊張で強張った体は、指先ひとつ動かそうとするだけ軋むような気がした。 

 化猫から目をはなさずに、そっと一歩後退する。それだけのことに、驚くほど神経が摩耗していく。これをゆっくりと、くりかえす。猫は呑気に毛繕いをつづけている。

 耳が内側から塞がれたみたいに、周囲の音が聞こえにくい。その代わり、身内から激しく叩くような脈動ばかりが聞こえる。それは無為に雷を急きたてて、思考を袋小路においつめる。焦りが冷静さをノミで削ぐみたいに、ガリガリと雷の平常心を奪っていく。


 最初に身を隠した地点から、おおよそ一メートルほど。やっとのおもいで移動したにしては、ずいぶんと短い。

 不意に土埃を巻き上げるような風が吹いて、まるでほんの少し背中が押されるような感覚があった。風上の雷から風下にいる三つ目猫へと風が流れていき、それまで丹念に自らの体を舐めていた猫がぴたりと止まる。


 こちらを見た。

 うるさいくらいに聞こえていた鼓動の音が消えて、無音になる瞬間がたしかにあった。

 五感のすべてが仕事を放棄して、自失する白昼夢がごとき空白。自制を失い本能のままとっさに走りだしそうになったのを、かろうじて残っていた理性がつなぎとめる。


 猫は首をかしげながら、なにかを探るようにしている。けれども、動くそぶりは見せない。

 雷は懸命に音を殺して、じわじわと後ろにさがった。

 化猫の姿は木々に遮られて、やがて見えなくなった。

 そこからしばし歩き、雷は慎重に大きく息を吐いた。全身が弛緩し、立っているのも困難で近くにあった木に体を預ける。


(気付かれないで、すんだ。か?)


 胸の内に巣食っていた不安が徐々に消え失せると、雷は安堵で胸をなでおろした。

 しかし、平穏がおとずれたのはほんの束の間であった。


 にゃあお。

 あまり離れていない場所から、低い(ダミ)声の猫の鳴き声が聞こえた。

 玩具をみつけたと愉しげに、まるで遊びの只中にでもあるように。

 

 たった一声。それが耳を打っただけで総毛立つ感覚があり、雷は木にもたれたまま小さい体をさらに萎縮させた。ひ、と金切声をあげる寸前のように喉がひっくり返る。悲鳴はでなかった。悲鳴をあげる暇もなかった、というのが正解かもしれない。つむじ風でもおきたみたいに鋭く空気が裂けたかとおもうと、獣の四肢の影が目に映ったからだ。

 影はすぐにその正体をあらわした。刃じみた跳躍から一転、化猫はいやに軽い音で優雅に着地する。長い尾をしなやかにくねらせ、顎を斜めに突き出して小馬鹿にするみたいに雷を見つめる猫が、悪魔のようにたったの一瞬で顕現した。


 性質(たち)の悪い夢みたいに目前に猫が迫っていて、こわいくらいに瞳孔が開いている三つの目と視線がぶつかった。後ろには木、後退できない。左右に走ろうにも、化け猫は獲物に飛びかかる寸前だった。あの強い生き物と雷との力量差の前では、どこに行こうとも逃げられないという絶望が骨身にまで染みてくる。

 体を左右にゆらしはじめ、尻を振り、爆発するのを待っているみたいに前足に力をこめて屈めている。あの強靭なバネじみた四肢が、極限に収縮した溜めから放たれたら、雷など抗いようがないほどの勢いで襲いかかってくるのだろう。


 雷は手さぐりで袋に詰めた石を必死のおもいで握った。たかだか石の硬くざらざらした感触に、ありがたみともつかない命綱めいた頼もしさを抱いたのは人生で初めての経験だった。


(あ、た、れ!)


 雷はいかにも弱点ですといわんばかりの額の目に向かって、《停止(ストップ)》の刻印石(ルーンストーン)を投げた。化け猫が襲いかかる前に石を投げることができた瞬間、雷はこの危機的な局面から脱出に成功したと慢心した。投げ切ってさえしまえば、この至近距離で外すほうがむずかしい。

 しかし猫は驚異的な反射神経で額の目に当たる前に飛び退った。狙いは正確であったが、当たるはずだった対象が消えた空白に、石が放物線を描いて虚しく落下する。


 雷に、思考するだけの寸暇があったならば、「避けるなよ!」と悪態のひとつでもついただろう。しかし、化猫からの強襲にそんな苛立ちを挟む隙間など一分たりともなかった。

 化猫は「当たったら痛いだろうな」とおもい、一旦前進を切り上げることで難なく石を回避。猫からしてみれば、せっかく面白く遊んでやろうといしていた気を削がれたが、狩猟すること自体は継続した。石を避けるなり、遊びの動作をやめてすぐさま飛びつきなおし、雷の腕に噛み付いたのである。

 雷の目ではその動き自体は追えても、反応することができなかった。


 地に押し倒され、化猫の牙が易々と皮膚を割いて肉の中にめりこんでいく。その瞬間から高熱を持った激痛が走り、雷の頭の中は真っ白になる。


「うわああああ!」 


 雷は吠えるように悲鳴をあげた。

 猫は雷の腕に噛み付いたまま頭を大きく振り、体躯がすこし小さいだけの雷を軽々と振りまわす。傷口がより深くなる。周辺の肉が、血管がぐりぐりと抉られる。鼓膜が焼け切れそうなくらいの脈動に乗って流れている血が、どくどくと溢れだす。

 いたい、いたい、いたい!

 この激痛から逃れるために、雷はがむしゃらに体を動かした。

 あらかじめしておいたシミュレーションが、雷を救った。どうしよう、と己に問いかけて答えを探る無駄は寸分もない。脳天を突くような痛みに駆り立てられながら、無事なほうの手で無心に腰からロッドを抜き払い、渾身の力をこめる。


「《遅滞(スロウ)》!」


 感情が、祈りが、希求が、生存本能が、声となってほとばしった。

 どこでもいいから当たればいいと出鱈目に猫を叩くと、無理矢理スイッチでもいれてやったような手応えがあった。 


「う、あ……」


 猫の動きが、突如として緩慢になった。かといって顎の力が衰えたわけではない。《遅滞(スロウ)》は動きを遅くするだけで、体の自由を奪うものではないからだ。

 それでも好き勝手に振り回され、回転しまくっていた視界が落ち着く。なんとか上半身を起き上げ忌々しい元凶のほうを見ると、体の異常を不審がる猫の顔がある。


「この、クソ猫が……!」


 噛みつかれた腕は無残な有様だ。

 穴の空いた腕が、黒い服をしとどに濡らし、滴った血液が地面を真っ赤に染めている。 

 憎悪を込めて化猫を睨む雷に、化猫もまた明確な殺意を見せる。


 山猫は自分こそが強者であり、生命を奪う側なのだという自負があった。それをわずかでも脅かしてきた存在を、許すわけにはいかなかった。

 不調の原因は目の前の獲物であると理解し、分をわきまえず不愉快さを与えてくる塵芥(いかづち)に、制裁をくわえんとさらに顎に力をこめようとした。

 化猫のかけ離れた速さに翻弄された雷であったが、魔法が成功した今、行動のイニシアチブはこちらにある。雷は腕を噛み切られる前よりも早く、すぐそばにある猫の第三の目にためらいなくロッドを突き刺した。細かな飛沫の血に首から上が濡れる。柔らかい果物を潰すような抵抗をものともず、ずぶずぶと刺したロッドが目を潰して脳天にまで進む前に、猫の体がのけぞった。ぬかるんだものが滑る気持ちの悪い感触が木の棒から伝わる。


 化猫は低い声を掠らせながら短く悲鳴をあげ、雷は腕をやっと解放された。すぐさま《小回復(スモールヒール)》を自らにほどこす。おだやかな光がともって、またたく間に消えた。気が狂いそうな痛みが、耐えられる程度にはましになる。 


(たすかった、本当にたすかったのか)


 雷が一瞬呆けているとき、猫は地面にもんどりうって転がっていた。草の欠片や土埃をまきあげて、泡をふいて切ない苦鳴をあげている。雷はそれに追い討ちをかけるか迷ったが、痛みに暴れる爪に引っ掻かっただけで怪我をしそうなレベル差があることにおもい至り、怪我の報復を悔しいが諦めた。


 大事なのは時間をかけて山猫を倒すことではなく、たったひとつしかない己の命とその安全だ。優先順位を間違えてはならない。

 息を整える暇もなく、よろめく体で自らの血と化け猫の血で真っ赤に濡れた地面を踏む。命からがらもと来た道なき道をもどった。

 激痛でぬれる眦をそのままに、雷はほうほうの(てい)で《小回復(スモールヒール)》のクールタイムが終わるたびに回復魔法をかけなおす。

 痛みが引いたころには、目尻は乾き切っていた。


 4


 日の光がおちはじめると、夕焼けの赤い色は見えず森の中はいっとき黒の中にでも沈むような濃い闇にそまる。そうするとぽつぽつとランプの花が灯りをつける。薄い闇でできた紗をのばしたような昼間よりも、花のおかげでかえって夜のほうが足元が明るいかもしれない。

 今は森中が黒に染まる、一番暗い時間帯だった。


「生きてる……」


 四方を囲まれた木のうろに身をひそめて、雷はやっと安心することができた。身も世もなく泣き崩れたい衝動もあったし、腹を抱えて笑いだしたい歓喜もあった。興奮があまりにも過ぎて、情緒が迷子になっている。


「生きてるんだ」


 噛み締めるように呟き、そっと手をそえて心臓の動きを確かめる。

 命運を賭けた災難を自ら切り開いて、雷はたしかに生きのびた。雷ひとりしか惜しむもののいない、かけがえのない、だが同時に寂しい我が身を、守り切ったのだ。安堵に体の力が抜けるのと、命が脅かされた恐怖の痕跡で身体中の血がざわめくのが同居していて、なんとも不思議な感覚だった。結局泣き笑いの中途半端な表情になりながら、じっと心臓の音を聞いていた。

 平素を取り戻した鼓動を満足するまでたしかめた雷は、血まみれになった服の袖を破り捨てて今では不恰好に剥き出しになった腕に、そっとふれた。痛みを完全に消しさるまで治癒をほどこした腕には、惨劇の痕跡はいっさい残っていない。皮膚はどれほどさわってもなめらかで、最初から何もなかったように白くみずみずしい。


「嘘みたいだ……」


 あらためておかしな力だとおもった。あれだけの傷が、自分の中にある不思議な力を少し消費しただけで治ってしまう。コストパフォーマンスが良すぎるだろ、と感心とも呆れともつかない驚きが胸のうちに生まれる。

 だが、死んだはずなのに、まったく違う姿で生きていることに比べれば些細なことではあった。それに、自分にとってとて都合のいい力なのだから、素直にうけとめて享受したほうがいい。


 嫌な感情を吐ききるようなふかいためいきをついた。

 険しい顔で山猫とのやり取りを頭の中で反芻しながら、ああすればよかったこうすればよかった、と次に繋げるためのひとり反省会をする。一番大事な結論は、これからはあの化猫がいる方角には絶対に近づかないことだ。


(ここからずっと進むと、あの猫みたいなのがいる地点になる)


 これは無人の森を出る手がかりともいえた。


 犬や鼠など勝てそうな魔物がいる方向と、頑張っても倒せそうにない化猫がいる方向がある。


 ゲームの設定を踏襲しているのならば、魔物が弱い方向はより人里に近い。


 フリーシナリオを採用している『精霊の贈り物』には時間経過が存在する。

 物語開始直後は再生歴……雷は詳しい年数は忘れたが、再生歴なんとか年春と表示される。

 物語の中核を成すメインシナリオや、世界観や登場人物を掘り下げるサブシナリオ、経験値やアイテム稼ぎのために請け負ったクエスト。これらをこなすごとに、イベントポイントという隠しステータスが増える。

 ポイントが貯まると夏へと移行する。


 それらを繰り返して時間を経過させると、出現する敵が強くなっていく。敵の強さはマップごとに固定されているのではなく、その時間経過によって決まるのだ。

 ゲーム的にはレベルが上がるプレイヤーに合わせているわけだが、世界観の設定としては世界の脅威が目覚めようとしているから強い魔物が頻繁に出没してくる、ということらしい。


 強い魔物は普段、人里離れた場所で暮らしている。暇つぶしのための気まぐれのようにひとを襲いに来たり、本能として人間を襲撃しにくることもあるが、そんなイレギュラーをのぞいて、住処で暮らしているのだ。

 ゲーム開始直後は、危険な魔物はダンジョンや森の深い位置に引っ込み、街道や人里付近には弱い魔物がいる時期だ。

 物語を進めると、そういった棲み分けがなくなり、都市の近くに以前見た雑魚敵もいるが、一緒にやたら強い魔物がいる、という事態となる。そして、人外未踏の奥地にはさらに強い魔物が彷徨うようになる。


 推測の段階だし、希望的観測でもあるが、レベル帯で棲み分けができているようだ。

 今はまだゲームの最終盤ではなく、平和な時期なのだ。これがいきなりゲーム終了直前の世界に放り出されていたら、雷などとっくに死んでいただろうから、それは予測がついてたことだった。


(強い魔物が出る場所は避けて、弱い魔物が出るあたりを突っ切ろう)


 前向きな目標ができ、その日の夜は雷は晴れやかな気分で眠った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ