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精霊に捧ぐ  作者: 春生カタパル子
暗中模索
4/25

第四話 魔物

 1


 ひとの気配を感じられない森から出るのはもちろんだが、水を見つけるのが第一の急務だった。

 喉の渇きは命にかかわる。己の生き汚さを知っている雷は、たとえ精魂尽き果てようと這ってでも進もうとする自分が容易に想像できた。苦しみながら、あるかわからない水を求めてさまよう空想の中の己は、その姿がちいさな子どもなだけにずいぶんと愚かしく切ない。

 想像しうるみじめな未来を迎えないためにも、雷は体が正常なうちにせめて水を見つけるか、高望みするのならばひとを見つけたかった。


 一心に活路を求めてさまよう雷は、同時に腑に落ちないものを抱えていた。

 この森は、ゲームの開始地点でも、物語がはじまる時間軸でもない。

 雷の記憶が正しければ、物語の開始地点は街に近い大きな道だった。春めいた空気を感じさせるピンク色の花びらのエフェクトが画面上で舞っており、時間帯は明るい昼だ。

 こんな秋に近い涼しげでさびしげな空気ではない。花を見失ったら最後、視界が効かなくなるような夜でもなかった。

 そのうえ海なんて見えるわけがない大陸の中心部で、こんな森林山岳地帯ばかりではなく周囲には平原があった。


 遭遇したゴブリンや黒い犬はゲーム世界に住む魔物で、雷はゲームのキャラクターの姿になりその能力を持ちえている。 

 この事実から、ゲームで描かれていた世界に準じた法則のある世界にいるのだとは判断できる。


 では、自分が画面越しに旅をした世界において、ここはどの位置にあたるのか。


 それがわからない。


 ゲーム内の森の光景なんて詳しく覚えていないし、画面越しに俯瞰的に見るのと主観として見るのとでは、様相が違うだろう。印象に残る特徴的な場所でなければ、どこそこだと紐付けることはできない。


 ここがもし、ゲーム開始地点からほど遠い場所だとしたら、何故なのか。


 異世界に姿まで変えて生き返って、こんなどことも知れぬ場所にいる理由。答えはだれも教えてはくれない。

 仮に、なんらかの意思を持つものが一度日本で死した雷を、この世界で蘇らせたのだとしよう。

 それは一体どうしてなのか? という疑問は、ゲームと同じ場所と時間帯であればある程度解決できたのだ。

 雷をまるきりゲームの主人公に見立てて、新たな世界でやり直しをせたとしたら、非常に迷惑だが雷に物語の主人公のような活躍を期待しているということが可能性のひとつとして浮上する。


 誰とも知らない、雷をこのような目に合わせている存在に雷はどくづく。

 自分の知る物語をなぞるような場所に出ていたら、雷はこんなにも苦労はしなかったというのに。

 都市は目と鼻の先にあり、プレイキャラクターをコントローラーで移動したり、ダッシュやジャンプの基本動作、そして戦闘のチュートリアルを終わらせたら、すぐに安全な場所にむかうことができた。ゲームに似た知らない世界に飛ばされたとしても、こうであればこんな苦労は味合わずにすんだ。


 しかし、どれほど嘆いても、雷の現状はそうではないのだ。


 機械仕掛けの神(デウスエクスマキナ)のような全てを都合よく物事を進める存在は欠如しており、こうやって雷が生きているのは、なにかの偶然が噛み合った奇跡の具象だからなのか?

 疑問符ばかりが頭を占める。


 雷はため息をついた。これも、考え続けてもせんなきことなのだ。今はどうしようもないことに気を囚われているよりも、細心の注意をはらうべきだ。


 わからないことは恐ろしい。恐ろしさを埋めたいがために、あれこれと考えてしまうが、それはけっして現状から自らを助けだすものではない。

 いつ迫るともわからない危機に備えるためには、神がかった事象にうんうんと頭を悩ませるよりは気を引き締めるべきなのだ。そのほうがよほど建設的だ。


 流れる汗を手の甲でぬぐう。

 夜は、まだ長い。


 2


 さきほどよりもずっと足取りを気をつけ周囲に警戒し、雷はあるく。ときには草むらをかきわけ、ときにはあの小犬の姿をさきに見つけて息をひそめてやりすごした。自分が通った証として、草を結び、前に進む。枝を折るよりも体力を使わないし、音をたてないからこちらのほうが安全な手段だった。

 自分が枝を折った木や、傷をつけた木の場所には来ていないから、同じ場所をぐるぐるとまわっているわけではないとおもう。確実にどこかへとは向かっているのだ。海の方向に向かっているのかは、もう自信がない。


 回復薬(ポーション)を一本飲み、ひと息をついた。これがただの水であれば気休めにもならない少量の水分なのだが、妙な理屈ですっと体の渇きが癒える。これで、残りは二本になった。

 天を見上げた。木々の隙間からようやく確認できる夜空には、天辺に月を見つけることができた。深夜であるが、緊張感で眠気はなく、依然目が冴えている。この張り詰めた意識が続けばいい。水を見つけるまでは、休みたくない。一度足を完全に止めたら、ふたたび動き出すのはなかなか難しいだろう。精神的にもそうだが、肉体的にも。回復薬(ポーション)だけで、水分補給が間に合うわけがないのだ。時間がたてばたつほど、限界は近づく。


 不安にかられているさなか、細い獣道を見つけた。猪のような大きな獣のつくるものではない気がした。だが、あの黒い犬のようなちいさい生き物が通っていたにしては、しっかりと踏みしめられている。森を生活圏とするひとが作ったものであることが一番望ましいが、そのような都合のいい奇跡は望まないほうがいい。

 まだ出会っていない危険な生き物の通り道だった場合を考えると、手放しでは喜べないが、森に住む生き物ならば、水場の場所をわかっているはずだ。


 この獣道をたどって歩いたさきに、水があれば。

 希望をにじませて、道の先をみつめる。一心にそれを続けたあと、雷はかぶりをふった。

 ここで終わったはずの意識が再開してから、こうやって渇望して自分に都合のいい可能性にすがってばかりだ。

 そんな、運がいい結末など待っているはずがない。


 戒めのために、雷はいいふくめる。

 だってそうだろう。

 雷が願えば叶うような幸運の持ち主ならば、そもそも事故にあっていなかった。

 事故で死んでよくわからない場所で生き返ったことが幸運だというのならば、返す言葉もないが。


(死んで、そのまま終わるんじゃなくて。不幸中の幸でもこんな姿でも、生き返って良かったと思ってる自分がいるのは、確かだ。苦しくても、なにもかも終わってしまうよりは、ずっといい。でも、一番望むのは、本当に奇跡が起こるのなら、死にたくなかった。俺は、こんなわけのわからない姿じゃなくて、雷礼央として日本で生きていたかった)


 取り戻せない過去に、胸を焦がす。

 見知らぬ場所に放り出された、孤独と渇きに震える。目に熱いものがこみ上げてくるのは、ひとりきりの苦しみに耐えかねたからだ。

 意地を張ることすらできない、寂しさがあった。

 夢ではない。だから、帰ることができないという事実が痛切に胸に沁みた。


(……ああ、会いたいな)


 日本に帰り、日常の中にいる親しい者たちに会いたい。郷愁が琴線をゆらし、雷は胸をおさえた。

 やっと、自分の死後に残されるみなのことをおもった。


 そうして気付くのだ。今まで自分のことばかりで、何一つ彼らのことを思わなかった。

 目覚めてからはその暇がなかったが、雷が思い返したのは、自らの命が尽きる瞬間だ。

 人間、追い詰められると本性が出るというが、今まで世話になった人への感謝を抱きながら死ぬという愁傷さは雷の中にはかけらもなく、我が身に降りかかった不幸への矛先のない怒りを燃やしながら意識を途絶えさせていた。


 常々いつか恩返しをしたいと思っていた世話になった施設の人や、いっときは恋人関係にあった幼馴染、家族のように育った親友のことをちらりとも考えなかった。

 自分を育ててくれた社会への感謝、世話になった人への感謝を忘れたことはないと思っていたが、綺麗事で塗装した上っ面をひっぺがしたあとに残るのは、自分本位で他者への思いやりに欠けた男だったというわけだ。


 幼い容姿に不釣り合いな、乾いた自嘲がもれた。


「悔いてる暇なんて、ないな」


 口にしたのは、耳に痛い事実から目をそむけるための言い訳ではない。


 もとより自覚はあったので、今更だったのだ。

 自分自身が思っていた以上に、雷礼央と言う人間は割とどうしようもない底辺の心根の持ち主だったという事実を、認識しなおしたにすぎない。

 雷はそんな愚かな自身を責めるでもなく、ただ漫然と受け入れた。

 呵責に耐えきれないまともな性格をしていたならば、こんな性根とっくに改めている。ようはもう手遅れだったのだ。 


「三つ子の魂百までっていうしな。変わるはずがないんだ」


 幼子の姿になっても、自分という人間が変われる気はしない。

 未だに自分のものとは思えないちいさな手を見て、雷はうつむいた。

 気落ちする材料ばかりで、前向きになって気持ちが上向くのはむずかしい。


 それでも前を向くのは、生きたいからだ。

 雷礼央という男が生きた二十三年間の歴史は、他人からしてみれば吹けば飛ぶようなものかもしれない。

 だが、雷だけはその時間と、時間をかけて築いたものは、今のどうしようもない自分自身の性格をふくめて大事なものなのだ。

 物心つくまえに両親を失い、施設にあずけられ育ってきた。

 ひとつひとつ自らの努力で手に入れて形作ったもの、それを今の自分の意識の喪失ですべて失ってしまうのは、悔やんでも悔やみきれないほどに惜しいのだ。


 雷が人生をかけて手にしてきたものは、全てなくなってしまった。肉体すらも別ものになってしまった。これを自分とおもうのは、冷静になるとやはりむずかしい。


 雷に残っているのは記憶だけになってしまった。

 幼くして両親を失い施設育ちの苦労はあったが、そんな彼を支えてくれる友人や周囲の大人に恵まれていた。

 公立高校を卒業後、地元の飲料メーカーに無事就職。

 年齢相応の稼ぎをやりくりしながら、細々とした趣味を楽しみつつ安定した日々を送っていた。

 今までの人生の幸と不幸を天秤にかけたのならば、幸のほうに傾くと彼は自信を持って断言しただろう。

 そういう一生だった。そのおもい出の尊さは雷だけのものだ。

 そして、雷礼央としての二十三年の時間が築いた“内面”だ。二十三年の間に形成された性格。あまり賢くないなりに蓄えた知識。人格と知識に基づく今この瞬間鬱々と巡っている思考回路。それだって自分が生きて手に入れたものだ。

 今、この子供の自分が死ねば、その思い出という宝物と、雷礼央という存在すらなかったものになってしまう。

 それだけはぜったいに許せなかった。


 3


 目の前にぶらさげれた先の見えないわずかな希望。それを選び成功して無事延命できるか、失敗して絶望するかは自らの手に委ねられている。

 どうしようと迷って立ち止まるよりは、取り返しがつく段階で選択肢の正否を確認したほうがいい。

 雷は幸運を期待し、獣道をたどって進むことを決めた。


 草は踏み固めれれているため、足場に気を付ける必要がないのは、雷を幾分か楽にさせた。ぬめりのある苔は少なく、どこに木の根があるかもわからない草むらを歩くわけではないから、それ以外のことに気を払える。

 無論、いいことばかりではない。差し引きでいえば、マイナスであろう。獣道をつくった生き物と不用意な遭遇するのを避けるため、雷は今まで以上に神経を過敏にさせなければならなかった。万に一つ、あの犬のような獣とおちあいたくない。耳を研ぎ澄まし、つねに前後の音を確認していた。


 怯えながら歩き続けると、かすかであるが水音を聞いた、気がした。

 雷は声を上げたい衝動を抑えるために唇をつよく引き結び、食い入るように音の方向を見つめた。

 擦り切れて追い詰めれた精神が幻聴を聞き取ったわけではない。雷はそう思いたかった。

 ただのおもい込みかもしれないという不審があった。わずかに抱いた期待が裏切られることが恐ろしくて、足取りはひどくゆっくりしたものとなる。


 雷はその直後、自分のその行動がいかに正しかったのかおもい知ることなる。

 音を消して恐る恐る向かった先には、先客がいた。

 水を見つけたと我を忘れて喜び勇み駆け寄っていたら無警戒にそれとはちあっていたはずだ。


 雷ほどの大きさの魔物、ゴブリンだ。

 さきほど会った個体とは別物のようで、こちらは石を加工したようなごつごつした動きにくそうな鎧をきている。武器は棍棒で、手にさげていた。


 ゴブリンは一匹だけだ。だが、それでも雷の手におえそうにない。


(最悪だ……)


 ゴブリンのさきには、求め続けた水があった。岩場から少しずつ水が漏れている。湧水だ。湧き水はそれなりに大きさのある泉を作っていた。

 水を求めてさまよい歩いていた雷の前に、やっと生き残れそうな希望が見えた。

 しかし、それを手に入れるには大きな難題が待ち構えていたのだ。


 4


 雷が持っている選択肢はみっつ。

 諦めて他を探すか、ゴブリンがこの場から離れるのを待つか、あの魔物を倒すか。

 三番目は絶対にない。積極的な自殺と大差ないだろう。さきほどのゴブリンよりも雷は相当に足が早く逃げ切れたが、あのゴブリンも同じとは限らない。ゲームでは魔物は一律したステータス値だったが、現実にまでそれが適用されているかは疑わしい。


(まず、装備に個性があるよな。ゲームではゴブリンってだけでグラフィック固定で防具とか武器とか、おんなじだったのに)

 人間という括りだけでも優劣があるように、このゴブリンというやつにも個体差があるかもしれない。

 さきほどのゴブリンよりもかなり弱くて雷でも勝てるかもしれないし、あるいは逆の可能性もある。命に危険がある手段は選べない。


 ならば一番目か、二番目。再び水を探しあるいて体力を消耗することを考えると、二番目が好ましい。


 ゴブリンは全く隠れきれていないが、雷と同じように身をひそめている、つもりらしい。何かを待っているようにじっとしていた。

 雷が見守る先で茂みが動き、鼠によく似た齧歯類があらわれた。鼠にしては大きく、まるで兎のようだ。

 頭の部分が赤く濡れている。光に照らされる赤は、生理的嫌悪が湧き上がる毒々しさがあった。雷は一瞬、それは血の色かと思った。だが、頭部を怪我しているのではなく、鼠に似た生き物は蛙のような粘膜の体皮を持ち、その体皮の色なのだと気づいた。


(ああ……序盤に、いたなあ。鼠の魔物)


 鼠の頭部には毒があり、頭突きされた場合確率で【毒】の状態異常になる。〈神聖魔法〉のスキルあげのために、毒に冒されるたびに《浄水(クリアウォーター)》を積極的に使っていた記憶がある。


 ゲーム序盤の記憶は曖昧だが、一匹一匹は犬よりは弱かった気がする。ただ、犬よりも数多く群れをなしていたので、下手をすると相手にするのが厄介だった。レベル0で仲間がいない状況で大量の鼠に出くわした場合、簡単に袋叩きになった。少しずつHPが削られていき、じり貧になる。仕様が易しいゲームですらそうなのだ。初戦でもさほど苦労せず倒せたはずの犬との苦戦を考えれば、この空想の世界が現実になった場所では、今はエンカウントしたくない魔物だ。


 赤い頭の鼠は、ゴブリンにすぐに気づき、臨戦態勢をとった。ゴブリンはその反応に自分の存在が気づかれたことに悟り、武器の棍棒を構え鼠に急ぎ襲いかかった。どうやら奇襲を狙っていたらしいことを雷は察した。


 鼠が鳴く。ちゅうちゅうなどいう可愛らしい擬音などでは表現できない、濁点をつけて勢いつけて吐き出すような鳴き声だった。

 がさがさと音をたてて毒鼠があらわれる。総計五匹の毒鼠は、あらわれるなりゴブリンに突進して頭突きをしかけた。

 ゴブリンはそれを棍棒で打ち返す。まるで暴投をものともしない巧みな強打者のごとき姿だ。三匹の毒鼠を見事退け、二匹の鼠の頭突きを足にくらったが、少しふらついくだけですぐに持ち直し、残りを足で蹴り付けた。


 不気味な相貌を得意げに歪ませて、五匹の毒鼠を見下ろす。

 ゴブリンは不揃いな歯が生えた口を大きく開け、一匹の鼠の胴体にかぶりついた。骨が砕け、血が飛び散り滴った。臓腑と肉を食い漁る音が、ほんの短い間だけのことなのに、雷の耳に生々しく焼きついて残る。


 短い食事を終えたゴブリンは、残った大きな鼠のしっぽを掴み、四匹の獲物を手に水場から去っていった。


 その背中を見送る雷は、静かな衝撃により驚きを隠せなかった。

 魔物たちによる弱肉強食があるのだ。

 ここは作られた世界ではないのだとまざまざと感じた。雷はここをゲームに似た世界と把握していたが、彼の中にあった想像よりもはるかに現実味をおびているのだと認識をあらたにした。 


 ゲームでは魔物間による争いなどなかった。プレイヤーの属するひと側に襲いかかる一蓮托生の存在だと思っていた。

 しかし、現実では魔物であっても生きるためには魔物同士で争うものらしい。 

 ふつうの獣とて、肉食獣は狩りを行うのだから、当然と言えば当然なのだ。彼らは生きているのだから、食事だって必要だろう。自分にとって空想の世界の生き物だったからといって、霞を食って生きているはずはないのだ。


 この光景に、雷が今までゲーム知識を前提にして抱いていた世界への印象と、この世界の現象の齟齬が少しだけ正された気がした。

 それに関して特に良し悪しがあるわけではないが、勘違いを続けているよりはましな結果だった。雷の無知が原因で、何か良からぬ事態を引き起こすこともあるかもしれない。

 雷はゆっくりと、この世界を知っていく。


 5


 待ち望んだ水だ。

 においをかぐ。当然だが、水道水のような塩素臭さなどはない。見慣れないくらいに澄んだ水で、岩場から細く滴る水を掌でためるとずいぶんと冷たかった。


 細菌とか寄生虫とか、考えたら負けだ。雷は居直った。ここでためらっていたら、ここまで歩き詰めだった努力は無と帰す。また驚異となる魔物や獣があらわれないとも限らない。さっさと水を飲み、試験管にもほんのわずかでもいいから水をためて、ここから少し離れよう。

 雷はいざとなったら毒を浄化する《浄水(クリアウォーター)》があるのだから大丈夫だと自身をはげまし、口をつけた。


 水だった。


 心底ほっとする。

 こくりと喉をならし、飲み込む。

 体がじんわりと水に満ちていくことに、泣きたくなるくらいの感動を覚えたのは初めてのことだった。ここは、その気になればいつだって水分を得られるような場所ではないのだ。

 掌をゆっくりと湿らせていく水は、熱中症寸前の朦朧とした意識で飲む水以上に、価値があるのだ。


 日本がどれほど恵まれているか。水資源がいかに大事かとテレビでもインターネットでもあれこれと聞いていたが、正直他人事だった。

 喧伝内容がいかに正しかったのかを、雷は骨身に染みるほど味わった。それによって心を改めるような性格をしてはいないが。


 掌にわずかにしかたまらないのが、もどかしかい。

 掌に一口分あつまるごとに、待ちわびたかのように飲む。

 とくに変な味がするようなこともなく、ミネラルウォーターのように飲みやすい水だ。

 回復薬(ポーション)に比べればじつに美味い。


 ここがゲーム世界を現実化したような場所ならば、環境汚染とはとおいはずだ。酸性雨など降らないだろうから、水も汚くならないのだろう。もしかしたら、日本の水よりもずっときれいかもしれない。

 雷は時間をかけて喉をうるおした。


 満足するまで水を飲み、空になった硝子管に水をいれる。

 岩から漏れ出る水は少量で、細い試験管ですらなかなかたまらない。

 周囲を警戒しつつするべきことを終えると、雷はその場から離れた。

 入れ替わるように、黒い小犬がきた。

 雷は犬の姿を認めるとあわてて身を藪の中に隠した。


 6


 チワワによく似た黒い犬は、泉の水を舐めていた。舌が水をすくうたびに滴が水面を叩く音がする。

 さきほどのゴブリンではないが、奇襲という言葉が頭をよぎる。

 あちらは雷に気づいておらず、また犬が雷に気づいたらこちらに戦意がなくてもまた襲いかかってくるかもしれない。

 ⦅強打撃⦆ならあの犬を倒せるだろう。その一撃では足りず、通常の打撃がいるかもしれないと考えるが、雷はHPという厳粛な数値がないことを逆に強みとした。


 たとえばいわゆる残りHP1という状態で本当に動けるのか、という話だ。


 胴体の骨が折れるほどの負傷を受けかろうじて即死は免れても、現実ではHP1分の生命力が残ったところでゲームのように動くことは不可能なはずだ。

 血を見るのは気持ち悪いし、痛いのは純粋にいやだ。だが、雷は戦う選択肢に重きを置いた。


(きっと、今のままじゃだめだ。レベルアップが必要だ)


 この森からいつ出れるのかもわからない。

 それまでの間に魔物と戦うことになるだろう。生きるためには、強さが必要だ。

 さいわいなことに、雷にはわかりやすい目安がある。HPもMPもSPも数値になってくれなかったが、レベルという指標がある。ステータスもあるのだから、レベルアップすれば単純に身体能力があがるはずだ。その上昇した能力値は確実に雷の生存率をあげる。


 毒鼠の群れ五匹は、雷では相手にもならずに噛み殺される。そんな鼠をものともしないゴブリンには、あの棍棒でやすやすと殴り殺される。

 それが予想できるから、このまま逃げの一手で足踏みを続けるよりは、勝てる相手には積極的に仕掛けて、自らの糧にするべきだ。


 雷は極力音をたてないようにロッドを握った。

 動物というのは人間が思うよりもずっと俊敏で、完全な不意打ちはきっと難しい。

 そろそろと音を殺したつもりで忍び寄っても、きっと途中で気づかれる気がする。ならば、一気に距離をつめて思い切り殴る。


 草を踏み、土を踏み、枝を折った。

 音に気づいて振り返る黒い小犬。雷の姿を認めて、こぼれおちそうな丸い目に凶暴な光がともった瞬間、目があった気がした。

 過剰な攻撃性さえなければ、あどけない姿だ。懐いたらきっとかわいいだろう。こんな場所で孤独をいやしてくれる存在になったら、雷はちいさな命に依存してしまったかもしれない。

 けれどもお伽話のような都合のいいことは起きないのだ。

 だから、聞く人が聞けば残酷だと眉を潜めて糾弾すらしそうな行為を、雷は選ぶ。

 ただの犬と変わらぬ姿に、棒で打ち据えることにためらいはなかった。


(⦅強打撃⦆!) 


 頭蓋を割るように棒が小さな頭に減り込んだ。衝撃に眼球が飛び出る。視神経とつながった目が落ち、やがて重力に耐えきれず細い糸が切れて転がっていった。


(倒した)


 殺した。


 雷は膝をおる。ロッドを杖がわりに体を支えた。ひどい目眩がした。このまま体が横になったら、意識がきっと落ちてしまう。息を整えることだけを念頭におき、雷は必死に目を見開く。耳鳴りのように全身の血がざわめいている。どっと汗が噴き出て、灼けるように熱くなった全身を冷やした。


 こんな状態でここにいるのは危険だ。また犬や鼠、そしてゴブリンが来たら、雷など一瞬で殺される。

 雷が、手にかけたばかりの黒い犬のように。


(ゲームみたいに、SPが0になってもせめて歩ければいいのに)


 体力が0に近づけば近づくほど、体は悲鳴をあげる。意思の力で無理矢理体を動かしているだけで、画面の中のキャラクターのように平然と体力回復を待っていられそうにない。

 ここがプログラミングによる四角四面の仕様によって形作られているわけではなく、雷の中の常識に近い法則があることがわかる。そして、雷の経験よりも体力の回復には融通がきくことも。

 痙攣するように手足が震えるが、これだけ消耗しているのに少しじっとするだけで再び動ける気がしてくる。最初の津波のような疲労感にさえ耐えれば、なんとか意識を保ち、すぐに動けるようになる。


(こんなところで、気絶してたまるか)


 雷はロッドを支えにして、なんとか歩く。

 水場からはなれた。

 細い獣道を背にし、引きずるような動きで森を進んでいると、雷であればすっぽりと身を隠せそうな木のうろを見つけた。

 雷は杖をついて歩くこともやめて這うようにそのなかにおさまると、そろそろ寝ても大丈夫だとおもう間もなく、気絶するように眠りについた。


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