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精霊に捧ぐ  作者: 春生カタパル子
暗中模索
3/25

第三話 現実

 1


(木登りはしばらくしなくていい)


 雷はうんざりしていた。

 木から降りるのは、登るよりも気を払う作業だった。


(とりあえず海の方向に歩いてるつもりだが、あってるよな?)


 どれだけ歩をすすめても、同じような景色が続くから、不安になる。星もろくに見えず、コンパスもない。こんな状態では、そうと決めた方角ではなく、まったく逆に向かって歩いていてもおかしくない。


 雷はなるべく草が生えていないところや、背丈が短いところを選んで歩く。

 木の根や、苔で滑りやすくなっている地面に足を取られて何度か転びそうになった。少女の肉体の反射神経は優秀で、柔軟な筋肉でとっさに体の均衡を保ったり、手をついたりしながらあっさりと転倒をまぬがれる。


 途中、こういったときには歩いてきた場所の目印をつけたほうがいいと気づき、あわてて刃物代わりになりそうな先の鋭い石を見つけて拾い、樹皮になんとか傷をつけた。途中で石で傷を作る作業に疲れ、ロッドを叩きつけて枝を折る方法に切り替えた。


 最初からこうすればよかった。無駄な労力を払ってしまったかもしれない。


 雷は毒づいた。じんわりと汗ばみはじめた体は、乾きを訴えている。


回復薬(ポーション)を飲むか?)


 雷は悩む。

 とはいっても飲んだところで、二、三口分ぐらいの量しか入っていないだろう。この乾いた飢を満たしてくれるとは到底思えない。一方で、脱水症状は危険だと悩む。たとえ雀の涙ほどの補給であろうと、しておくべきだ。

 

(出し惜しみして、苦しい状態をわざわざ耐える必要性はないだろ)


 毒かもしれないと危険性を頭が弾き出すが、雷はその可能性は低いと判断した。

 そこから疑ったら、黒い手帳の件でさえ信じられなくなる。

 「これは『精霊の贈り物』の初期状態」という前提条件があると仮定しなければ、雷は現状に関してなにひとつ情報を持っていないことになる。そんな状態はとにかく恐ろしい。


 雷は、願望と現状から導き出した根拠をもとに、さまざまな事柄を秤にかけて自分が選ぶべき最善を考える。

 ゲーム開始直後に持っている回復薬(ポーション)は、効果が低く、安い。ひとつで50ゴールドだった。

 気軽に買えるものを勿体ぶってとっておくのは馬鹿らしい。


 迷ったすえ、袋の中にある回復薬(ポーション)に手をかけようとした。

 同時に、間近で草木の茂みが音をたてて動いた。

 どきりと強く胸が跳ねるが、すぐに落ち着く。茂みの揺らめきは低いところにある。

 何かが出てきたとしても、それは小さな動物だろう。あの、おそろしいゴブリンではないのだ。


 かき分けて進んでこようとする何かから視線をそらさず、慎重に後退する。

 距離をとったとき、それは甲高く吠えながらあらわれた。聞いたことのある鳴き声だ。これは、犬だ。

 警戒していた雷は面食らって肩の力を抜く。出てきたのはチワワのような小型犬だった。

 獰猛に吠えたてるというよりも、虚勢を張るような甲高い声を向けられる。


「そういや、雑魚にこんなのいたっけな」


 ゲームの初期に出てくる魔物の姿に酷似していた。


 出てきたのが非現実的な生き物でなくてよかった。


 雷は強張った肩の力を抜いた。

 現実世界にもいそうなごわついた毛並みの黒い小犬は、確実に雷の中に油断を生んだ。

 リードに繋がれているわけではないのだから、野放しの犬は確かに危険だろう。

 だが、つぶらな目のまなじりを釣り上げている犬は、日本の路上で散歩中のチワワに吠えられているのと変わらないように思えた。


 短い四肢に力を入れて立ち奮わせ、針のようにとがった尻尾を天にむけている。

 剥き出しにされた不揃いの牙はそこそこ鋭利だし、あれに噛まれたら痛いかもしれないと弛んだ気を引き締めなおすが、万全の警戒にいたらなかった。


 ロッドを振って追い払えるだろう。見てくれが覚えのある犬に近いせいで、安易で悠長な手段を雷に選ばせた。


 目の前にいる獣はひとに対して敵意を向ける好戦的な魔物。ゴブリンに対するときと同じような危機感をもつべきであったのだ。

 しかし、雷の意識は見た目の先入観から小犬としか捉えなかった。


 雷は浅い考えでロッドを手にとり、いい加減に振るった。

 気が昂っていた犬の興奮はそれによって頂点に達する。鈍そうな短い脚からは考えられないほど俊敏な動きで跳躍し、雷に挑みかかったのだ。

 なさけない声の威嚇をしてくる小さい犬など、こちらが少し脅しかければすぐ逃げ出すとたかをくくっていた雷は、その突進のような噛みつきを、すぐさま理解できなかった。


 適当に振り回される棒の動きなどゆうゆうと掻い潜り、犬の牙は雷の腕に迫る。


「っと! このクソ犬」


 しまった、と本気で焦った。すんでのところで腕を引っ込めて逃げる。

 危うく噛みつかれるところだった。しかし、一度身をかわしたところで安堵できない状況だった。

 小犬は再度凶悪な牙を剥いて、口の端が裂けてでもいるかのように不気味なほど顎を大きく開いて雷にむかってくる。雷は必死にそれを避けた。

 がちり、と。

 噛みつき損ねた犬の上下の顎がぞっとするほど不愉快な音をたてて強く閉じた。小さな顎から出たとはおもえない、凶悪な響きだった。あれに噛みつかれるところなど、想像もしたくない。勢いよく食いしばってそのまま牙が折れてしまえ、とそんな暇などないのに減らず口が脳裏をよぎった。 


 犬はゴブリンのような牽制がきかないほど、興奮している。耳障りな吠えを繰り返しながら、息つく暇もないくらいにかかってくる。雷は手に持ったロッドを握りなおす。汚れた牙をぎらつかせ飛びかかってくる忌々しい小犬の鼻っ面を、今度こそロッドで強く叩いた。生き物を強く叩きつける感触というのは雷にとって初めての体験で、それは奇妙な感覚だった。だが、その感慨を抱く余裕などない。

 なにせ悲鳴のひとつでもあげて尻尾を巻いて逃げたらいいものを、むしろ一層凶暴さがまして、雷に襲いかかってきたのだ。


 雷は何度かロッドで薙ぎ払ったり、叩いたりしたが、致命傷におよばなかった。犬は痛みなど感じてない様子でまったく怯みもせずに雷の喉笛を狙いさだめている。

 体がどれだけ小さくても、雷の手に負えない獰猛な野犬だった。


(ゲームみたいに、ふつうの打撃数回で、倒れろよ!)


 はたからみれば攻防というには拙いかもしれないが、雷にとっては命がけだった。


(この犬、チュートリアルで出てくる雑魚魔物だろ! しぶとすぎるじゃないか!)


 戦闘時の操作方法の練習ためにこの犬と戦ったが、通常攻撃数回当てれば倒すことができていた。なのに、現実にいるこの犬は未だに倒すことができない。

 犬に負傷を与えているのは確かなはずだ。

 だが、それは小さな犬を殺すまでに至っていない。見た目通りの小さな犬ならば、とっくに死んでもおかしくないほど、痛めつけた。

 なのに、なおも目から闘士が消えず、生命力の低下など感じさせないほどの動きを見せている。

 ただの犬ではないのだ。雷はやっとそれを理解した。

 これが、魔物なのだ。

 その事実を噛み締めて、雷は怖気付いた。


 ありふれたただの生き物でない犬と対峙している事実は、雷の平静を奪う。


 つい先ほどまでは可愛げがあるように見えた目を、黒い小犬はおそろしげな狂乱にぎらつかせていた。


 動物の剥き出しの闘争心に気圧された雷は、我を忘れて息を飲んだ。

 たかだかちいさな犬一匹に相手に、雷は原生的な恐怖を抱き心が負けた。

 折れた心のまま、もう家に帰りたいと状況も忘れてほんのわずかに心を飛ばず。

 雷の動きが緩慢になったのを待っていたかのように、その隙を見逃さず、犬が前脚で爪をたてようとする。小さな前足をから伸びた爪は、小さな体に似つかわしくないくらいに長く(えぐ)いもので、出来の悪い合成映像を見ているみたいだった。あれで体を引っ掻かれたら、きっとひとたまりもない。


 視認した状況にたいして致命的な危機感を脳が弾きだすと、刹那の遅延すらなく小さな体はひどく恐ろしげな爪の一閃から逃れた。避けるのに精一杯で、雷はもつれるように後ろに転んだ。


 尻をついて身動きのとれない雷に、好戦的な小犬が手心をくわえてくれるはずもない。犬は無様に尻餅をついた雷と違い無事に着地し、すぐさま攻勢にうってでる。殺意と狂気が渦巻いた犬の目とかち合う。犬の目に映る自身の姿は、絶望に歪んでいた。


(これが、死ぬことを理解した人間の顔か)


 あまりにも間抜けな感想だった。

 犬の瞳が雷に見せる映像は徐々にかわっていく。

 絶望の顔から、悔しげなものに。そして、決意をたたえたものに。諦めるものか、絶対に死んでなるものかと、意気地を見せる。

 もしかしたら一瞬のできごとだったのかもしれない。いや、正しく瞬きのできごとだったのだろう。ただ、雷が走馬灯のようなゆっくりとした時間の流れを感じていただけで。


(俺は、死なない!)


「お前が、死、ねっ!」


 片手を地につけて体を素早く置き上げ、もう片方の手で木製のロッドの端を持って、槍のように犬の喉をおもいきり突く。

 急所に強い衝撃をくらった犬は、突かれた勢いで少しだけ後ろに飛んだ。

 雷は急いで立ち上がる。欲をいえばこの一撃が犬のとどめとなって欲しかったし、死なないにしても逃げる時間くらいはかせぎたかった。

 残念ながら犬は甲高く咳き込むだけで、背を見せて逃げたところでどこまでも追ってきそうだ。短い立ち回りの間に、この小犬がゴブリンよりも動きが早いことは分かっていた。さっきのように逃げ切るのは難しそうだ。


(木に登るのも、な……これだけの間合いしかないと、登ってる間に絶対噛みつかれる)


 雷は険しい眼差しで犬を睨みつける。

 八方塞がりで打つ手がなかった。 


(だったら、もっと強く殴らないと、強く、強く、強く)


 駆け巡る血潮が耳打つ。心がそれに急かされて、ろくに頭が働かない。

 最終的に雷が求めたもののは単純なものだった。


 今までよりもずっと強烈な一撃を。


 本気で打ち付けているのに、この犬をどうにもできない。

 ならば、渾身の力をも超えた力がほしい。

 今、自分が出せる限界を超えた力。


 都合のいい奇跡を願った雷は、不意に手帳に書かれていた戦技(アーツ)を思い出す。


 ⦅強打撃⦆。

 低い技能レベルで習得する技だからそこまで強くはないが、技の名前からしてロッドをただ力任せに振るよりも大きなダメージを与えられるはずだ。

 発生の仕方などわからない。

 藁にすがるおもいで雷はとにかく念じた。


(強打撃、強打撃、強打撃、強打撃、強打撃、強打撃、強打撃!)


 祈りながら、力をこめる。ロッドを振り下ろす。凶悪な犬に、棒の先をぶち当てる。

 

 しかし、現実は無常。

 なにか特別な力を使った手応えもなければ、犬に決定的な痛打を与えた結果もでなかった。


「なんで、だよ!」


 怒りと戸惑いと泣き言が混じった叫びだった。

 頼みの命綱が発動しないことに、雷はひどく狼狽した。


「くそ」


 追い詰められた雷は、逃避のように戦いから思考を飛ばす。


 これが、夢だったら。

 本当に夢であったのならば。

 このままちんけな犬に咬み殺されれば、目が覚めるのだろうか。

 根拠もないのに、雷は自分にとって都合のいいほうへ物事を考える。

 このまま諦めて、夢の中で負けてしまってもいいんじゃないか、と。

 どうせ、起きる。

 目が覚めて、日常に戻るのだから、と。

 

「はは」


 雷は力なく乾いた笑いをもらしていた。


(そんな、そんなわけないだろう) 


 表層の意識がどれだけ夢だと高をくくろうと、直感がそれを強烈に拒む。

 やめろ、と内なる声が叫ぶ。楽な方に流されたいとどれだけ願っても、生存本能がそれを拒む。

 こんなはっきりとした意識がある夢などない。

 その事実に、命をおびやかす致命的な妄想を捨てるまで頭をなぐられる心地がする。


 雷はこころのどこかで諦めていたことを、ついに言葉にして認めた。


「俺は、死んだんだから」


 そうとも、雷はとっくに知っていたのだ。

 バスから放り出され、何がおこったのかもわからないまま目まぐるしく視界が回転し、気づいたときには腹に太い枝が突き刺さっていた。それは命を奪う無情でぶかっこうな矛であった。

 あの一瞬の衝撃を、雷は鮮明に思い出すことができる。

 最後の瞬間まで世界を呪うように絶望していたあのとき。

 認めたくないから目を逸らしていただけで、あの事故で、己はもう死んでいた。


 ここまできて、投げやりになって全てを打ち捨ててたまるか。どういうわけか拾った命を、また失ってなどなるものか。僅かに残っていた楽観を己の中から切り離した。

 夢なんだという逃げ。自分のこころを助けるためのいい訳。

 それらを全て手放して、雷は他人めいた肉体だとおもっていた今の自分を、雷礼央(いかづちれお)として認める。


 この、見た目のわりに優秀な性能の肉体を存分に使って生き抜いてやると、腹をくくった。

 雷は積極的に踏みこみ、小犬に一撃を与える。敏捷さはすこしだけこちらが上だ。焦りさえしなければ、犬がどれだけ食ってかかってこようとも、なんとかさばききれる。


(俺の望む夢の終わりなんて、どれだけ待っていてもきてくれない)


 雷はそれをよくわかっている。


(誰かが助けたりも救ってくれたりもしない)


 雷はそれを痛いくらいにわかっている。


(何もしないでいて結果を出したりするような、欲しいものを手に入れられるような、要領が良くて運がいい人間じゃない)


 雷はそれを身に沁みるくらいにわかっている。


 額を上段から叩くと、やっと小犬は四肢がふらついた。

 そんな犬に向かって、雷は感情をあらわにした。


「俺は自分から努力して、動かなきゃいけない。

 だれかが手を伸ばして、幸せになれる道に連れて行ってなんてくれない。

 だったら。だから。俺だけが、俺のために頑張らなきゃらならない!」


 激情は脈絡のない言葉を口走らせる。


「頑張ってきたんだよ! 二十三年間、必死に。幸せになるために。これからだって、そうなんだ! それを、邪魔するんじゃない犬っコロ!」


 自分はこの世界に関わりあいのない、他人なのだという意識があった。自分の生きる場所じゃない。本の中とか、それこそ画面の中のゲームの世界を見る俯瞰した意識があった。世界と己を明確に隔絶させていた。この世界に真の意味で干渉することはない。雷自身がなんら影響を受けることなどない。そんな無知蒙昧な考えを、改める。


 雷は手に持ったロッドに、力をこめる。意思をこめる。己がこの世界の一部であると認め、世界に干渉し、世界から力を引き出す。


 この大陸には精霊の力が満ちている。時に精霊はこの大地に生きる人々に力を貸す。

 それは、戦技(アーツ)と呼ばれる強力な攻撃手段にもふくまれる。

 大陸の外に生きるふつうの人々では、決して起こせない奇跡を起こしてくれる。


 それを、人々は『精霊の贈り物』とよぶのだ。


 雷はやっと認めた。自分がこの世界に生きる者なのだと。だから、精霊もそれに答える。力を貸すのだ。


「ここで死んだら俺は終わりなんだ! 俺は、終わらせたくないんだよ!」


 雷の中から急に何かが抜けていく脱力感とともに、泡のような光がロッドを握った手から伝わっていった。


「⦅強打撃⦆!」


 ちいさな水泡がはじけたような音を聞いた瞬間、犬に打ち付けた木製の棒から今までにない手応えを感じ取る。肉の中にある硬いものが軋み、砕ける鈍い音が棒ごしに伝わってきた。あらぬ方向に身を曲げた犬は、叩きつけられた衝撃に耐えきれず地に伏し、ほんの少しだけ泡を吐いて痙攣した後、ぴくりとも動かなくなった。


 2


 くらく意識を閉ざすような虚脱をこらえた。

 きっと、戦技が発動した。その感動も抱く暇など、雷にはなかった。


 心臓がこわいくらいに早鐘を打っている。我が身に不審すら抱くほど、体が重くなった。安堵もそこそこに、雷は疲労困憊にうめいた。


 やっと、小犬は死んだ。

 生き物を殺したことに後悔はない。もっと別の手段があったのではないかなんて、偽善ぶって考えてやれるほどの余裕は彼にはない。

 雷は、犬の命なんかよりも自分の身の方が大事なのだ。


 死体蹴りするような悪辣さはないものの、長い舌を出して血を吐いて死んだ犬に、生死の確認をすませたら雷は目をやることすらもなかった。むしろ、そんな余裕もないのだ。精神はすり減り、脱力して倒れ込みたいくらいに肉体は疲弊している。


 その場に腰を落として座り込んだ。

 最後の気力が緩み、もとより体力が残っていなかった体では立っていられなかった。

 その場で体をやすめると、不自然なほどに目減りした体力が意外と早く回復していくのがわかった。


(アーツはSP……スタミナを使ったよな。レベルが全く上がってない状態だと、一回使うのがやっとだったはずだ)


 犬とのやりとりで確かに体力は使ったが、ふつうここまで肉体が困憊するものではないとおもう。⦅強打撃⦆を使った瞬間、失神する寸前までに体から力が抜けた。だから、この著しい消耗は戦技が原因なのだろう。


(ゲームではスタミナ0になったら、戦技やダッシュが使えなくなったるだけですんだが、現実じゃ0になったらまともに動ける気もまともに頭が働く気もしない。)


 スタミナポイントのゲージは、体を激しく動かすような行動を取らなかければ、わりとすぐに回復する。通常攻撃を続けているだけでも、満タンになる。じっとして何もしていないとその回復速度はあがり、スタミナポイントの管理は楽だった。


 ゲームではそうだった。

 だが、この現実(・・)は違う。


(動き回りながら体力回復なんてできねえ。ちゃんと体を休めないと体が動かない)


 そんなところ現実に沿うようにしなくてもいいではないか、と雷はどくづく。


(それに、スタミナがマイナスになったら、気絶状態になって少しの間行動不能になるんだよな)


 いわゆるピヨると呼ばれる無防備な状態だ。

 なるほど、と雷は自らの醜態を把握し納得する。

 たしかに、限界以上の体力を使用したら気絶してもなんらおかしくない異様な困憊具合である。 


 ゲームにおいて、スタミナポイントはダッシュや戦技を使用する自発的な行動ではマイナスにならなかった。敵の特殊攻撃でSPを0以下まで削られて気絶の行動不能に陥ることが全てといっていい。


(そういう、システムに守られるのもなさそうだ。戦技はスタミナポイントが足りない場合は使用できなかったけど、今はそうじゃない……気がする。自分の体力を把握して使わないと、下手したら戦闘中に気絶するんじゃないか?)


 クソが、と雷は吐き捨てる。 


 自分にとって不利な条件が重なっていることに、雷は苛立ちを募らせた。

 雷は、ゲームでも最下級の魔物にたいして、通常攻撃を何発繰り出そうと屠れないほど、虚弱なのだ。

 敵を倒せる唯一の技は、現状のように身動きがとれなくなる危険性を孕んでいる。


(また、あの犬に会ったらどうする? 出会ったら即、⦅強打撃⦆を使って攻撃を喰らわないようにすればいいのか? だが、一匹だったならともかく、複数現れたらどうなる? 一回使ったら、まともに動けないものを使うのか? それよりも逃げるのに専念したほうがましか)

 

 雷は、次を考える。

 そんな自分に気づき、雷はわらった。


「は、ははは。はっ」


(なんだ、意外と前向きだな)


 他人事のように自身の精神状態を分析する。

 

 頭の隅で、雷はここは自分の知る世界ではなく、また夢でもないとおぼろげに理解していた。


 それでも最後の抵抗のように、目をつむり耳をふさぎ、その事実を目の当たりにすることを避けていた。必死に、細く突き当たりしかない道の可能性にばかりすがっていた。

 常識から完全に乖離した事象を目を背けることもできずに直視したとき、自分は無様に狂ったように泣き喚くと雷はおもっていたからだ。


 しかしそうはならなかった。

 目覚めた当初、己の死を確定的に突きつけられることはなく、夢だと逃避できる余地があった。

 そして、ひとつずつ提示される夢ではないと証明する物証は、決定的な崩壊を与えるような急性さがなかった。目を背けたい真実は、ゆっくりと雷の思考の中に蓄えられていったのだ。

 そうやって徐々に与えられる事実は、雷の理性を致命的なほどではないが揺らした。平静を保てる程度に精神をじわりじわりと追い詰めていった。だが、それだけといえば、それだけだった。


 想像の中にいた自分よりも、拍子抜けするほどに雷は落ち着いていた。

 

 いっそのこと感情を欠壊させ泣きじゃくり、誰にぶつければいいのかわからない怒りを感情のまま叫べたらどれほど楽だろうとはおもう。 

 しかし、そのような無闇な真似はできない危険に晒された状況が、雷の冷静さをつなぎとめた。


 雷に残ったのは、なぜこうなったのだという強烈な疑念と、これは足掻いても仕方ない類なのだという諦観である。

 わからないことは多いが、とにかく今は、死にたくなければこの状況を受け入れて進むしかない。だれにも説明されていない、なにもわからない状況になっている不条理へ責めたて、攻撃的な感情をぶつけるのはとにかく後回しだ。


 あいにく、あれこれとおもい悩む暇はなかった。

 痛みだした頭に雷はちいさく舌打ちをする。気分もよくない。疲労のせいか、脱水症状のせいなのか。どちらにしろよくない状態なのは確かだ。


 雷はためらわず試験管の中身を飲んだ。

 味見して喉をしめらすていどの水分を、それでも待ちかねていたように喉が嚥下する。薬は幸いなことに吐き出したいような味ではなく、鼻にくる漢方のような薬臭さはあったが、苦味はうすかった。


 もう一本。

 出し惜しみして、水分不足で倒れるのは愚の骨頂だ。


 深い傷を一瞬で癒してしまう魔法のような薬は、飲み物としても大分優秀だったようだ。

 コップ一杯分にもならない液体が体内の中で摩訶不思議な化学反応をおこしたのか、水分不足による気分の悪さがかなりましになった。


 頭の痛みもやわらぎだいぶ楽になった。雷は手をつきながらそろそろと立ち上がる。しっかりと足は大地を踏みしめる。歩くことは可能だ。だが、その安堵は束の間のものだ。この状態がいつまでもつかはわからない。


「進まなきゃならない」


 声にだして、己を励ます。

 今、自分を動かし助けられるのは、他のだれかではなく自分自身だけだ。

 

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