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精霊に捧ぐ  作者: 春生カタパル子
暗中模索
1/25

第一話 逃亡

 1


 なぜ、と男はくりかえす。


 まだ死にたくない。

 まだ生きていたい。

 どうして死ぬのは自分なのか。


(俺よりも死んだほうがいいやつなんて、いっぱいいるんじゃないか!)

 まだ二十三歳だ。死ぬには早すぎる。叶うならば、誰かにこの不幸をなすりつけてやりたい。そして、自分は助かる側でいたい。そんな残忍な願いがとまらない。

 

 男は残された時間をあらんかぎりに無様な悪態をついていた。

 そんな見るに耐えない男の低俗な意識であったが、そろそろ終わりが近づき始めていた。


 男の感情、思考、理性、呼吸、鼓動、命。

 全てが掻き消える刹那のときに、男は絞りだすように魂の声をあげる。


(父さん、母さん! 助けて……!)

 幼いときに死に別れた両親に、一心にすがった。

 その願いが届くことはなかった。



 雷礼央(いかづちれお)は死んだ。



 ゆっくりと、落ちていく。

 死を自覚した雷が朦朧とした意識でかろうじて知覚したのは、底のない場所に沈みいくような浮遊感だった。

 投げ出した手足に力は入らず、口も開かず、音も聞こえない。

 まぶたが閉じているのか、開いているのかも判別のつかないほどの暗闇の中を、雷はどこまでも沈んでいく。

 ろくに身動きの取れない不自由な体に、違和感はなかった。


 雷は交通事故で死んだのだ。


 体が動かせなくなって当然だろう。

 だが、だからこそ自分の思考がひどく不思議だ。

 停止した脳で、どうしてこんなふうにあれこれと思念が続いているのだろうか。


 今にも掻き消えそうな形になりきれない曖昧な思考とはいえ、終わったはずのものが存在している。

 これは一体、なんなのだろう。まともに考えることができないおぼろげな頭で、しばし悩む。


 雷はまどろみながら、やっと結論を出した。


 なるほど、これがいわゆる死後の世界というものか。


 どこにいるとも知れない、飲み込むような漆黒の闇。

 これは潰えた命の残り滓が見せている光景なのだろう。


 納得した雷は、やっと考えることをやめた。


 そうすると、ほんのわずかに残っていた自我もどんどんと閉ざされていく気がする。

 眠りにおちるように、雷は最後の残滓である自分を手放す。

 砂のように散らばっていく意識が、緩やかに鳴る心臓に似た音を聞く。雷を包み込むようにどこからか響いている。それに重なるように、止まったはずの自身の心臓が穏やかに鼓動を打つ気がした。

 

 2


 とりわけ乱暴に引っ張られた感覚があった。

 ぐるん、と目がまわった。

 ふかい水底から一気にひきあげられたみたいに苦しくて、咳きこみながら息をはいた。

 まるで溺れていたようだった。

 雷は体をくの字に折り曲げて、下手な呼吸をしてやっとのおもいで酸素を取り込んだ。


 酸素が全身に行きわたると、もやがかかったような意識が鮮やかな色でもついたように一転する。


 はっとした雷が見開いた目に飛び込んできたのは、視界の端から端まで見渡すかぎり乱立する木々だった。

 見上げれば、まるで天幕のように枝が頭上をおおっていて、重なった梢の隙間からとどくのはわずかな月明かりだけだ。


(は……?)


 雷は見知らぬ森の中、ひとり立ちつくしていた。


 ごつごつとした木の根が張った地面と木々は、鮮やかな苔におおわれている。

 シダ科と思わせる渦巻状の芽の植物は雷の腰ほどまであり、あちこちに無造作に生い茂っていた。

 赤い実をつけた背の低い樹木や、木の根に這うように生える無数のきのこ。

 植生になどほとんど詳しくないが、そんな雷でもテレビ番組で見る日本の山野とこの森とでは、まったく趣が違うのはひとめでわかった。


 なにより異様なのは、青白い花を咲かせほのかに輝く植物だ。ランプに似た作り物めいた花の内側に、光がともっていた。

 点々と咲きほころぶ花は、月明かりがわずかな夜でも周囲の確認には事欠かないあかりになっている。

 こんな花の存在など、雷は聞いたことがない。


(だが、どこかで見た気がする)


 おかしい。なにもかも。この鬱蒼とした不思議な森は、雷の常識とつじつまがあわない。

 ランプの花にてらされた森は美しいのがかえって不気味で、雷は息ひとつするのも恐ろしかった。


(ここは、どこだ? 俺はどうしてこんなところにいる?)


 違和感で心臓が暴れるように跳ねた。


(ゆめ……?)


 そうおもうしかない不自然な状況であり、見慣れない光景だった。


(夢、わけのわからない場所にいる夢。そう、これは夢なんだろう)


 とてもではないが、実在する光景にみえない、とびきりたちの悪い冗談みたいだった。


 明晰夢、という単語を雷の知識が告げてくる。無理矢理にでも理屈を通せる言葉があることに、雷は胸をなでおろす。この事態はそういうことなのだろうと雷は強引に納得することができた。

 だが、これが夢なのだとしたら。


(どこからが、夢だ?)


 命がまたたくまに目減りしていくあの時、一秒、一瞬、激しく脈打つ鼓動のひとつひとつを、雷は克明におぼえている。


 腹腔奥深くから湧き上がる、吐き気に似たもの。

 それはおもい返したくもない恐怖と絶望だった。


 雷はとっさに腹をさすった。

 最悪の想像をしたが、恐れていた手応えはなかった。

 痛みもなにもなく、どうやら怪我がある様子はない。

 雷の人生において、一度も袖を通したことのない詰襟の学生服めいたものを皺になるほど鷲掴んだだけだった。

 安堵でふかく息をはいていた。

 

(俺は……今、夢の中にいる)


 きっと、自分の体は今、眠っている最中なのだ。

 だから、あの事故もきっと夢。

 自分の精神安定のためにつよく夢だといい聞かせる。

 けれど、それと相反するように不可能にする残酷なまでの衝撃を、雷はおもい出してしまった。あれが偽物の記憶であるだなんて、嘘でもいえない。


 雷の命が完全に途絶えたあの瞬間。

 社員旅行のために乗車したバスが、目的地である温泉旅館に向かう途中、カーブが多い切り立った道路から転落する事故を起こした。

 窓ガラスから勢いよく放り出され、木の枝が深々と腹に突き刺さった。

 まるで百舌の速贄だった。


 即死できず、少しの間だけ雷は意識が残っていた。

 ショック状態のホルモンの過剰分泌のおかげか、あんな状態のわりに耐えきれないような痛みはなかった。

 だからこそ、痛みへの辛苦を吐くよりも、恨み辛みばかりをくどくどと胸の内で吐いていた。

 底のない闇に沈むような絶望感の生々しさを、夢だったなどと楽観的に切り捨てられない。


(だが、あれが夢でなければ、今、ここにいる俺は一体なんだっていうんだ?)


 困惑して身動きのとれない雷の頬を、粘ついた淀みを孕んだ風がじっとりとなでていく。

 黒い髪が、風におどるようにそよいだ。

 視界に髪がちらちらと映るのが妙に気になる。なぜなら。


(髪が、長い……? なんで?)


 雷は本来、短髪だ。腰よりも下にある黒い長髪を怪訝におもい、反射的に手を伸ばしてさわろとする。

 そうして視界にはいった手は、雷の記憶にあるものよりも、ずっとちいさい。


(子供の手だ)


 認識した瞬間、雷は動転した。


(落ち着いて……落ち着け、俺)


 逸る心臓を鎮めるために、冷静になれと努めて繰り返す。それが真実成功しているかは雷には自信がない。ひどく狼狽しながらも、なんとか我が身の変化をたしかめようとする。


 地面の距離から目測できる視界の低さといい、体が縮んでいるのだと雷は理解した。

 今度こそ、髪をさわる。

 (くしけず)る手は腰まで流れていく。

 指ざわりのいい滑らかな黒髪だった。花のあかりに照らされて、緑色に艶めく。不可思議な光沢のせいでよくできた作り物のように見えた。


(変なの、女みたいだ)


 ここまで伸ばした長髪の男は、なかなか見たことがない。

 衣服も、黒い学生服のようだとおもったが、子細が違う。

 服には白い縁取りがあり、そこにはうっすらと規則的な模様がある。

 それに服の上に細いベルトを巻いている。ベルトには繊維の荒い布袋と長い棒が引っかかっていた。


(なんだ、これ?)


 棒を手に取った。

 表面を綺麗に加工されている、今の雷の腕の長さほどある木製の棒だ。

 場違いな童心がわきあがりとりあえず片手で振ってみる。何か起こることを期待したわけではない無意識の動作だった。

 特に何も起こらず、雷はそんなものだろうと棒を戻した。


 袋の中には、青い液体で満たされた試験管が入っていた。

 雷はこの試験管に見覚えがあり、そして知っている(・・・・・・)


(これ、もしかして回復薬(ポーション)か?)


 アクションゲームが苦手な雷が、やっとのおもいでプレイしているゲームの回復アイテムに酷似していた。


 いよいよ夢の様相をていしてきていた。

 記憶の中にあるそれらしい小道具を使い、非現実の中に精神を没入している。

 そうとしかおもえなかかった。

 いや、そうおもいたいのだ。

 

 理屈を立てるのはなんとでもなるが、いやに現実味を帯びた五感がそれを否定してくる。

 やけに激しい脈拍の熱に浮かされそうになる。そのまま意味もなく喚きたくなった。

 冷静さを保つために、雷は何度も自分にいい聞かせた。


 これは夢なのだ――と。


 己の死を明確に自覚してしまったら、雷はきっと正気ではいられない。

 身の内から這い出てくる嫌な予感を、必死に蓋で閉めて隠した。


 目の前にあるものを確認しよう。 

 少しでも建設的なことをして、気を紛らわせるのだ。


 雷は試験管を手に持った。子供の手にはやや余る細長い硝子管。コルクで封がされている。

 傾けた硝子管の中で、青い液体は水のようになめらかに流動した。

 見た目はまさにアイテムの説明欄で出てくる、アイコン通り。しかし、これは本当に自分のおもうような回復薬(ポーション)なのか? そうだとしたら、なぜこんなものを持っているのか。


 袋の中には同じ試験管が五本はいっている。他には、銀色の硬貨が五枚。そして黒い表紙の小さな本が一冊。


(銀貨……? 100ゴールド? ……なんだ、これ気持ち悪い!)


 硬貨に描いてある模様を認識した瞬間、雷は言いようのない気色の悪さを感じた。

 見たこともない数字だ。漢数字でもアラビア数字でもローマ数字でもない。

 なのに、雷はそれが数字であると理解し、意味を読み取れた。

 ぞっと全身の毛が逆立つ。反射的に硬貨を投げ捨てそうになった。


 金額と共に描かれた通貨の単位も一瞬で把握できた。

 雷がプレイしているゲームの金の単位も、ゴールドだった。


(『精霊の贈り物』の夢でも見ているのか……?)


 100ゴールド硬貨が五枚。あわせて所持金は500ゴールド。ゲーム開始直後の所持金はそのくらいだった気がする。

 おもえば、現在着ている衣服はゲームの初期装備に似ていた。

 回復魔法を使う【神官(クレリック)】の最下級装備だ。

 黒い詰襟の上下に、付加効果はないただのロッドが武器。

 そして、長い黒髪の小さな体。これに似たキャラを、雷はクリエイトした。


(もしかして、ゲームのキャラになってる?)


 雷はそのことにようやく気づいた。


 3


 自らの体の異変を自覚したのとほとんど同じタイミングで、雷の視界にはいる茂みがわざとらしいくらいに音をたてて揺れた。


 雷は怯えて息を呑みながら茂みの先をみすえる。これ以上自分の手に負えないことなどおこらないでほしいのに、そんな臆病な雷を嘲笑うように、切なる願いはあっさりと裏切られる。


 花の青白い光に照らし出されたのは、一本角を額に生やした二足歩行の魔物だった。

 空想の物語に登場してくる怪物、ゴブリン。雷が遊んでいたゲームでも、序盤の雑魚敵として登場していた。

 画面越しに眺める姿に比べ、それはとても恐ろしい見目だった。


 なにせ今の雷と変わらない身長がありながら、体の厚みは段違いだ。いっそ不格好なまでに二の腕と太腿の筋肉が発達している。あれに少し掴みかかられただけで、雷などひとたまりもないだろう。

 瞼がうすく、むき出しに近いまるまるとした目がひどく不気味だ。汚れが目立つ赤茶けた皮膚の上に、獣の毛皮で作った防具をまとい、腰には武器をさげていた。見るからに物騒ないでたちだった。


 愚かしいことだが、雷はその奇怪な見目の生き物をゴブリンであると飲み込むのに時間がかかった。ほんの一時間前までの現実とは程遠い生物の登場に、理性がゴブリンなどという生き物の実在を認めることを拒んだのだ。


「ギィッ! ギィ!」


 生き物の鳴き声が、あっけにとられる雷の耳につき刺さった。

 なにをいわんとしているのかは分からない。けれど、雷の耳にはやけに陽気に聞こえるのだ。

 まるで、くたくたになるまで腹を空かしていたところにやっと餌でもみつけたみたいな歓喜……まるで? みたい? 本当に、比喩ですむのか? 他人事めいた観察をしていた雷は、こくんと唾液を嚥下した。


 本能が、雷の耳の奥で警鐘を鳴らす。全身の毛が一気に逆立つ心地がした。こわれたみたいに汗が噴き出して、雷はいまさら立ち眩んだ。


 身動きしない雷めがけて、ゴブリンは武器をぬき払い走ってくる。凶悪な相貌に歓喜を浮かべて、大きくあけた口の端からよだれをまき散らしながら、雷を一心に狙いさだめている。森の中の足場の悪さなどものともせず、いやに軽快な足取りだった。威嚇や恫喝とは比べ物にならない厳然たる殺意が、雷に叩きつけられる。体が怯えて自然とふるえた。そんな場合でもないのに、雷は子供のように無意味に泣きたくてたまらなかった。うずくまってなきじゃくったら誰かが助けてくれないだろうか、そんな考えてもせんのないことを夢想した。


 なにをすればいいのか、どうすればいいのか、考えても考えても答えがでない。体が竦んでうごかない。

 

 たちまちのうちに距離が詰まり、手遅れなくらいにゴブリンが雷に迫っていた。


(いやだ、こんな場所いやだ。帰りたい。いたくない。ここから逃げたい。逃げなきゃ、そう、そうだ。逃げろ! 避けろ!)


 やっと。そうとしかいいようがない遅すぎる結論だった。

 眼前には刃毀れが見えるくらいに薄汚れた剣が肉薄し、雷の鼻先を掠めた。

 つめたい切迫感が、雷を間一髪のところでつき動かした。愚鈍にうろたえていた醜態から様変わりし、俊敏な動きで後方に飛びすさり、ゴブリンの一撃をかわしたのだ。


 怪訝な、それでいて不機嫌な顔でゴブリンが雷を見ている。ばけものからしてみれば、油断し切った馬鹿な獲物を殺したつもりになっていたのだから、そうなるのも当然である。

 だが、おもうようにいかなかった一方的な苛立ちを向けられても、雷からしてみれば理不尽というものだ。おとなしくゴブリンの腹におさまるつもりなど雷のなかにあるはずがない。半腰になっていつでも動けるように足を力にいれながら、ばけものを懸命に睨みかえした。


「自分から、動かなきゃ」


 声にだしたのは自身を奮いたたせるためだ。

 

「自分を助けたいのなら、俺が動かなきゃいけない。俺だけが、俺を守れるんだ」


 ありもしない助けや救い、都合のいい終わりなんてどれだけ待っていたところで訪れてはくれない。

 雷はそれをよくわかっている。

 何もしないで何かを掴んだり、結果を出せたりするような、要領が良くて運がいい人間じゃない。

 自分から努力して、動かなければならない。自分はそういう類の人間なのだ。


 雷の迫真の覚悟をゴブリンは感じ取ったのだろう。じり、とわずかに後退りながら武器を握りなおす。おざなりな構えから一転、剣を正眼に構えた。雷の一挙手一投足を見逃すまいと、はりつめた真剣さで、雷の命をかけた本気を迎えうつ覚悟を見せた。


 ふるえる手を叱咤し、雷は腰にさしたロッドを握る。にらみすえたゴブリンから目を離さず、いつでもなぎ払えるような位置で片手で構える。刃物と木の棒であれば、前者のほうが強力におもえるが、ゴブリンの剣はそうとう劣化している。片や雷の持つロッドは硬い木を加工したもので、刃毀れした剣で容易に切り落とせる代物には見えなかった。

 

 両者の持つ武器において、簡単に優劣をつけられるものではなかった。少なくとも、ゴブリンには刃物である優越感を与えるにいたっていない。浮かれた狂気の表情から一変し、息苦しいくらいの警戒をもつに値すると厄介がっている険悪を見せる。

 しかしそれも、嬲るだけでは終われない手強い相手の登場に楽しんでいるふうの、ある種の昂揚に変わる。油断を許さない痛いくらいの緊張が、両者をつつんでいた。


 ゴブリンは本能から人類排除の闘争意欲と食欲をあらわにし、雷は生きるために原始的で野蛮な感情をあらわにする。


 ーー真剣勝負。


 命をかけた戦いになる。ゴブリンにそう思わせるには十分な気迫と威圧を、雷はその小さな体に秘めていた。

 雷の腕も足も、ゴブリンと比べ物にならないくらいに細い。しかし、追い詰められた小さな生き物は見た目を裏切る強靭な生命力をもっている。それが察せるほどの爆発する敵意を、ゴブリンはひしひしと感じ取っていたのだ。ばけものにとって脅威といっていい輝きが、ちっぽけな存在から発せられている。


 互角。簡単には殺せない。あるいは手痛いしっぺ返しをくらうかもしれない。最悪、命を落とすのはこちらになる。だが、だからといってゴブリンは引かない。

 

 ゴブリンは単純な生き物である。仲間内で交流をする知能と言語能力はあるが、基本的に深く考えずに力任せにつっこむ。

 たやすく刈り取れる命だと判断した誤算を即座に撤回、訂正する。そして訂正したあとの判断が早かった。結局のところゴブリンが取る手段など限られている。弱かろうと、厄介であろうと全力で命を刈り取りにいく。こころ持ちが変わるだけで、やることは同じだ。


 剣を上段に構えたゴブリンの突撃の寸前。


「あー!」


 雷はゴブリンの後方に棒を向けて叫んだ。ばけものは反射的にふりかえって棒の先を追ってしまう。

 その隙を雷は逃さなかった。


 油断した、と。攻撃される、とも。ゴブリンは失敗を自覚した。だが、あの棒で攻撃されたところで、いきなりどうにかなるものではない、たとえ一撃をくらってもすぐに立てなおせる。即座に反撃を……! めまぐるしいくらいにちいさい頭の中で場当たり的な戦術を構築するが、それが日の目を見ることなかった。


「ギギィ?」

 

 覚悟した衝撃が、なにもなかったのだ。

 正面に向き直った、ゴブリンはあっけにとられた。


(俺は、死にたくない!)


 雷は心の中で叫ぶ。

 だからこそ、逃げる。

 あれだけ真面目に牽制しておきながら、真正面から戦うなどという選択肢が最初から彼のなかにはなかったのだ。


 雷は後ろ向いたゴブリンにくるっと背中をむけた。雷がこれほど素早く身をひるがえしたのは、生まれて初めてのことだろう。

 三十六計逃げるに如かず。

 全力で。死に物狂いで。走る。ものの見事な遁走である。


 ひどく呆然とした顔をしたのち、ゴブリンは雷の背中を見つめてからわなわなとふるえた。心地よい戦闘の昂揚感に水をかぶせられた苛立ちに全力で吠える。汚い騙し打ちは、戦士としてゆるしがたい侮辱だった。このまま見過ごしてなるものかと、ゴブリンは雷の背中を追いかける。


 背後でゴブリンの喚き声が響く。雷の耳には逃げるなといっているみたいに聞こえた。鈍重で忙しい足音をたてながら追いかけてくるゴブリンをあざ笑うように、雷は全霊をかけて疾駆し置いていく。


「だれがお前みたいなのとまともにやりあうものか!」


 雷はふりかえり、森の入り組んだ木々によってすっかり姿形が見えなくなったゴブリンにいい捨てる。

 腹の底から笑いだしたいくらいに痛快だった。鉛でもつまったかのように重かったのが嘘のように足が軽い。自分でもびっくりするくらいに早く、そして長く走れた。


 雷を追いかけるのを諦めたのが、距離のはなれたところから聞こえる負け惜しみのような遠吠えからわかった。


 危機を脱した雷は、我をわすれるほど浮かれまくっていた。

 極度の緊張と恐怖の反動で、顔が不自然にわらっている。


「じゃあな!」


 さっきまでふるえあがっていた情けない姿をさらしていたことなどどこ吹く風。すっかり忘れたありさまで、調子に乗った捨て台詞を意気揚々とはき捨てた。


 これが、雷礼央という男。

 臆病で、鬱めいた陰気な男である。

 そして生きることを諦めない、生への執着が強い男だった。


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