68 ラムダ・ピスキウム
──ここは
四方八方真っ白な空間にローズは立っていた。壁は見えず歩いても歩いても景色は変わらない。
──お父様とお母様はどこ
惨憺たる光景が脳裏に浮かび、無臭の空間に鉛臭さを覚える。
「……っぐはッ……ッ」
地に両手をつけしゃがみ込んだ。嘔吐を耐えた胃液混じりの涎が口からつうっと零れ落ちる。
「……っはぁ、はぁ……」
両腕の間から覗き込んだ脚には青いドレスが纏われていた。
「青いドレス……?」
ラークスの部屋に飛び込んだ十五歳のローズが着ていた服はシルクの羽織に薄紫色のネグリジェだったはずだが、今は十五歳のローズには不釣り合いな高貴で大人の女性らしいドレスを纏っていたのだ。
「…………そうだ! ……私、ゼラと一緒にフォセカの結婚式に来ていたわ。それでジャミに呪文をかけられて……それから……」
脳の奥深くに稲妻が落ちたような衝撃が走り、反射的に両目を強く瞑り両手で後頭部を押さえる。
「っあ゙あ゙あ゙っ……!!!」
ローズの閉ざされた暗い視界に一冊の古書と十五歳のローズが現れた。どこからか吹く風が次々にページを捲り、記された文字は浮かび上がり十八歳のローズの脳裏に吸い込まれるように入っていく。ローズは幾度も目を開けようと試みたが幼きローズがそれを拒んだ。
「あと少しだから頑張って」と幼いローズが語るのだ。唸り声を上げながら耐えるしかなかった。
「……っ、なに、よこれ……っぐぁあっ」
古書が最後のページまで到達し、もう一人の自分は微笑みながらそっと閉じた。「頑張ったわね」と声を掛けられた時、痛みはすうっと消えたが、心は重力が一斉にかかったかのようにずんっと重くなった気がした。
そっと目を開けると再び白い空間に戻っていた。まるで夢の中で夢を見ていたようだった。
「……全部の記憶が戻っているわ。昔はフォセカと仲が良かったのね。ソニアとも本当に婚約者だった。それにゼラは……今も昔も変わらないわね」
ローズがこれまで愛されてきた温かな記憶は、両親の残虐な最期を目の当たりにした悲痛を少しだけ和らげてくれた。
「両親の死を受け止めるのには幼すぎた。守るべきは相手は自分だったから心を閉ざし記憶を失った……思い出さない方が幸せに生きられたのかもしれない」
空へ旅立った両親に思いを馳せ、ここにはない空を見上げるように上を向くと、いつの間にか星空が広がっていた。
「綺麗……。そういえば、いつしかお父様が言っていたわね。この数多の輝きの中にピスキウム国名の由縁となった星があると……」
取り戻した記憶の引き出しからある夜の出来事を取り出した。
──ローズ、この中にピスキウム国の由縁となったラムダ・ピスキウムという星があるんだ
──え、そうなの? どこにあるの?
──多分、向こうの方
──お父様分からないの?
──ははは、僕は天文学者じゃないからね。でもこの広い夜空のどこかで見守ってくれている、それだけで十分だろう?
──私は知りたいわ
『じゃあ生きないとね』
最後の言葉はローズの記憶の一部ではなく、この星のどこからか小さく聞こえたような気がした。しかし当時、ラークスが返した言葉は「アスタに聞いてごらん」だったはずだ。声が聞こえた方向にピスキウムの星があるのだろう。ローズはその方向を見つめ父を想った。
「……お父様とお母様が見守ってくれているんだわ。……そうね、私にも守るべき大事な人がたくさんいる。戻らないと、みんなの元へ」




