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05 大切な人

 アスタによるスパルタ教育を受け始めてから、慌ただしくも一週間が過ぎた。

 ロベリアは今日と明日の二日間、休暇が与えられた。ゼラに攫われてからというもの、毎日がめまぐるしく、夜も気絶するように寝ていた。日々を振り返る余裕もなかったロベリアだが、今考えてみればここまで何不自由なことはなかったと気づく。

 生活環境は整っている、食事は出る、アスタは怖いけれど悪い人ではない。ゲンテも優しく接してくれる。ゼラのことは相変わらず理解できないのだが。


「攫われたとはいえ、至れり尽くせりね……」


 アークリィ家では従者がいたものの、ロベリアの身の回りの世話は一切行われなかったため、自らするしか他ならなかった。唯一、必要最低限の食事は用意されている程度だ。アークリィ家の金脈であったロベリアが倒れてしまっては困る、ただそれだけのことだろう。彼女はこのような環境下で生きてきたために、尽くされてばかりは性に合わず、むず痒さを覚えた。


「……何かできないかしら。ゼラはともかく、ゲンテにはお礼をしたいわね」


 動きやすいようにいつものワンピースは控え、腰下のボリュームが抑えられた薄紫色のワンピースに黄土色の編み上げブーツを合わせた。シルクで作られた髪留めを宝飾箱から取り出し、髪を後ろで一つに束ねる。アークリィ家では持たせてもらえなかった、高貴な者の象徴であるレースのハンカチも袖口に潜ませた。服を楽しめる喜びにロベリアは足取り軽く、部屋を後にした。


 階段を降りると、籠いっぱいに溢れるレモンを抱えたゲンテの姿があった。どうやら外から帰ってきたところのようだ。


「おはよう、ゲンテ」

「ロベリア様、おはようございます」


 レモンを一つを手に取ると、枝や葉がまだついており、新鮮な酸っぱい香りがした。お店で売っているものではなさそうだ。


「こんなにもどうしたの?」

「庭から採ってきました。今日はレモンチーズケーキを作ろうと思いましてな」

「庭?」

「えぇ。家の裏に大きな庭園があるのですよ」


 ロベリアが知らないのも無理はない。攫われた翌日から外へ出る暇もなくキファレス邸に缶詰状態だった。


「奥様はお花が大好きでしたから。今日はお休みでしょう? ぜひ行ってみてくださいな」

「えぇ。それよりゲンテ、何か手伝えることはない?」

「手伝い!? そんなそんな、ロベリア様にそのようなことは」


 ゲンテの手が揺れ、レモンがひとつ、ころんと床に落ちた。ロベリアがそっと拾い、両手でレモンを挟みながらお願いをした。手伝いを願いでる令嬢なんて彼女以外にいるのだろうか。


「ゲンテにはお世話になっているもの。何か手伝わせて欲しいの。お願い、命令だと思ってくれていいから」


 手伝わせるわけにもいかないが、命令と言われてしまっては従わないわけにもいかない。ゲンテは白髪混じりの顎髭をなぞりながら少しばかり考えた。


「分かりました。ではお散歩がてらにケーキの材料を買ってきてはくれませんか? 急ぎませんので、キファレス領もゆっくりご覧くださいな」

「そんなことじゃ、私の散歩がメインに……」

「うっ、足が……いやぁ年寄りは困りますな」


 ゲンテが痛そうに膝をさする。どこからみても演技でしかないのだが、本当に痛いのだとすればそのような老人に買い出しに行かせるわけにはいかない。ロベリアは渋々と了承した。


「……分かったわ」

「では地図と買ってきていただきたいものを紙に書きますゆえ、少々お待ちくださいませ」


 そこには膝を痛がっていたゲンテはもうおらず、軽やかなステップを踏みながらキッチンへ入って行った。


「騙されたわ……」


 キファレス家の人間は、やはりどこかずる賢かった。まだ信用してはならないと、ロベリアは心の隅で思った。


◆◆


「小麦粉と卵とバター……場所はここを真っ直ぐに行くのね」


 キファレス邸の前に聳え立つ林を抜けると、小麦畑やブドウ畑、牛や鶏などの家畜がいる牧場が広がっていた。さすが国のほとんどの財源を占めている領地なだけある。今は寂しく静まりかえった木々たちも、暖かな季節になれば葉が生い茂り、花は彩をなし、この地は緑に覆われるのだろう。

 冷たい風がロベリアの頬をかすめる。


「やっぱりアークリィ領より冷えるわね」


 攫われた日はゲンテが馬車を爆走させたこともあり、ロベリアはあまり距離を感じなかったのだが、キファレス領は王都より大分離れた国境付近に位置している。それに風を遮るような建物がなく、より一層肌寒さを感じさせた。


「でも、なんだか……温かいわね」


 方々から村人の笑い声、子供達がはしゃぐ姿、川のせせらぎに鳥のさえずり。静寂な景色からは寒さを感じなかった。ロベリアは辺りを見渡しながら、ゲンテに教えられた道を進んでいく。


「おや? 失礼ですが、あなたロベリア様ではありませんかな?」


 少し腰の曲がった老人が土耕の手を止め声をかける。老人の服は土で汚れているものの、決して見窄らしいものではなかった。ロベリアが義母ローラスからお下がりで支給されたワンピースの方がよっぽどだ。


「え、えぇ。……ごめんなさい、どちらかでお会いしたかしら?」


 キファレス領に来てから、ロベリアはキファレス邸内以外の者とは一切会っていない。アークリィ家に住んでいたときも学園との行き来がほとんどであり、もしこの老人と会ったというのであれば記憶喪失になる前の話になる。


「いやいや。ゼラ様よりお話を聞いていますゆえ」

「ゼラが? あなたはゼラと親しいの?」

「いえ、私だけではありません。ゼラ様は領民全員の顔と名前を覚えてくださっています! 毎日顔を出してくださいますし、収穫の時期になると手伝ってくださるんですよ」


 あのゼラが、と衝撃が走ったが、ここは冷静に問いを続けた。


「そ、そう。……ところでゼラは私のことをなんて言っていたのかしら?」


 ゼラにどう思われていようが構わないと思っていたのだが、なんだか嫌われているのは胸が痛む。数日間でゼラの本性が少しだけ分かったからだろうか。

 老人は穏やかな微笑みをロベリアに向け、ゼラが告げた言葉を教えてくれた。


──キファレス邸に、ロベリアという女性がきた。まだ不慣れなところが多いが、みんな仲良くしてやってくれ。

──俺の大切な人だ。


 ロベリアは胸元に手を置き、少しだけ高鳴った胸の鼓動を感じた。第三者から自分の好評を聞くと、とても恥ずかしくて、もどかしい気持ちになった。それに今までは他人から入ってくる自分の噂なんて良いものは一つもなかった。


『下品で横暴な女』

『記憶喪失で心も失った生物』

『いつも王女様の周りを取り巻いている、アレ』


 けれど今はそうではない。たとえゼラの言葉が領民までも欺く嘘だったとしても、ロベリアは少しだけ信じてみたくなったのだ。


「そう、なのね」

「えぇ。ゼラ様はご自身のことを話されることはほとんどありませんので……領民は皆安心しました」

「……皆!?」


 この村の団結力は強い。特に噂好きのマダムの耳に入れば、一夜もあれば広まってしまう。


「おじいちゃーん!」


 両手で弁当箱を持った十歳ぐらいの男の子が駆け足で向かってくる。


「おぉ、ミント!」

「はいよ、おばあちゃんから!」

「あぁ、すまないね」


 老人が優しく手を伸ばし、ミントから弁当箱を引き取る。ミントは弁当箱を落とさずに無事に届けられたことに安堵して、ほっと一息ついた。微笑ましく見つめるロベリアの視線にミントが気づく。


「ん? おねぇさん、だあれ?」

「私、ロベリアと申しますわ」


 怖がれないように、不慣れな笑顔を作り出して小さく挨拶をした。


「あ! ゼラ様のお嫁様だ!」


 ロベリアに向けてビシッと指を向け、目を輝かせながら楽しそうに話しかける。隣にいた老人は「コラッ!」とミントの腕をしまわせ、頭を下げさせた。


「も、申し訳ございません、ロベリア様! うちの馬鹿孫が……」

「構わないわ。ミントくんもゼラとお話するの?」

「うん! お話もするし、剣も教えてくれる!」

 

 子供の無邪気な笑顔に偽りはない。本当にゼラのことが好きなのだろう。


 「僕、ゼラ様みたいに強くなりたいんだ! みんなを守る!」


 ゼラは貴族ながらにして剣の腕前は王国一とも言われているが、王国の騎士団とてゼラに剣の教えを乞うものなどいない。それもそのはず、その裏には殺戮者との噂があるからだ。

 しかしどうだろうか。この少年はあのゼラに剣術を教わっているのだ。ミントはゼラを思い浮かべて羨望の眼差しを向けた。ロベリアが王宮で耳にしていたゼラ・キファレスとは一体何だったのだろうか。


「ふふ、頑張ってね。では、私はこれで失礼するわ」


 頭を深々と下げる老人と、大きく手を振るミントにロベリアは小さく手を振り返し、この先にある市場へと進んだ。


 食品や日用品、農具などの露店が並ぶ小さな市場は、昼食を買いに来ていたマダムたちで賑わっていた。ロベリアが一歩足を踏み入れると、マダムたちは一斉にロベリアに着目した。そして赤い布に猛進する闘牛のごとく一直線に向かってきた。


「ロベリア様ではございませんか!?」

「そうよ、この高貴なブロンドヘアに宝石のように輝く新緑の瞳、そして麗しい香り……!」

「今日はお一人なのですか!?」


 次々に飛び交う質問に目眩がしそうだったが、ロベリアは丁寧に挨拶をした。


「えぇ。初めまして、ロベリアでございます」


 ワンピースの端を持ち上げ、淑やかに会釈をする。その姿だけにも「きれいだわ!」「女神様よ!」とマダムたちの歓声があがる。アスタの教育のおかげかもしれない。


「ゼラ様も隅におけないわねぇ」

「ホントよねぇ。……ところでロベリア様、今日はどうしてここに?」


 令嬢ましてや領主の婚約者が一人で市場へ出向くことは、この世界の一般論では考えられない。マダムたちも不思議がるのは当然だ。


「小麦粉、卵、バターを買いに来ましたの」


 その瞬間、マダムたちだけでなく露店の店主たちも騒つく。何かおかしなことでも言ったのだろうかとロベリアは首をかしげた。


「もしかしてゲンテ様はご病気か何かで!?」

「大変、私お手伝いに行きますわ!」

「ロベリア様、この店のものは何でも持って行ってくだせぇ!」


 皆があれやこれやと騒ぎ出す。なかなか口を挟めずにいると、いつの間にか手には小麦粉、卵、バターが入った紙袋、そしてリンゴにバナナなどのフルーツの盛り合わせまでも積み重ねられ、ロベリアの視界は温かな心遣いで塞がれてしまった。少し顔を右にずらし、扉の隙間から覗くように皆を見る。


「あ、あの……! 違うんです! 私がお手伝いしたくって! ゲンテは元気ですし、私も散歩のついでですから!」


 騒ついていた空間が一瞬にしてしんと鎮まりかえったが、皆が安堵した声を漏らしていた。


「なんだ、良かったですわぁ!」

「すみません、私たちったら早とちりで……」

「いえ! とても……嬉しかったです。このお礼はいつか」

「とんでもない! いつもゼラ様には助けられているもの。むしろ私たちがお返しすべきよ。このくらいじゃ足りないぐらいですわ!」


 そうだそうだ、と皆が深くうなずく。


「本当に私たちが幸せに過ごせているのはゼラ様のおかげです。この国でまともな領地はキファレス領と隣のプロキオン領ぐらいなものよ」


 このマダムが言うように、この国の貧富の差は激しく大半の領地では領民が貧しい生活をしている。ロベリアの養父であったランジが支配するアークリィ領もそうだった。

 仕事は領民任せな上に、出来上がった産物は安値で搾取し、高値で売り捌く。もちろん売上金は自分の懐にしか入れない。さらにロベリアを金儲けのためだけに養女にいれたような輩だ。領民の姿は領主の本性を暴く鏡とも言えよう。領民から愛されているゼラが、果たして殺人狂なのか──。

 様々な思考がロベリアの頭を巡ったが、今はこの光景をありのまま受け入れることにした。


「ありがとう、ゼラに伝えておきますわね」


 手荷物が多くなったロベリアを気遣い「家まで手伝う」と申し出た領民もいたが、これ以上に尽くしてもらうのはやはり気が引けてしまう。丁重に断り市場を後にした。


「案外いい奴じゃない」


 ゼラから時折感じられる優しさは本物かもしれない。領民がこんなにも温かいのだから。少しだけゼラのことを知れたロベリアは口角を小さく上げた。


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