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04 美魔女調教師 アスタ・ホーマルハウト

 翌朝。ロベリアは遠くから聞こえるドアのノック音で目が覚めた。体を起こし、ベッドから降りようとするも、なかなか床に足がつかない。昨夜はなかなか寝付けず朝日と入れ替わりに眠りに入ったばかりで、まだ睡眠を求める脳が思考を鈍くさせていた。


「あぁ……そうだったわ。新しい寝床になったんだっけ……」


 アークリィ家で使用していたベッドは、寝返りを打てば落ちてしまうほど狭く老朽し色褪せたものだった。目を手で擦り、手櫛で軽く髪をとぐ。時計に目をやると、時刻は昼十時。「寝坊!?」と慌てるも、学園からも追放されたことも思い出す。

 ドアの向こうから、ノックが鳴り止まない。紳士的であったゲンテはここまでしつこくノックするのだろうか、疑問に思いながらもドアを開けた。


「おはようございます、ロベリア様」


 そこにはゲンテではなく、ブラウンの艶やかなボブヘアの女性が立っていた。朝焼けのように清々しく輝かしいオレンジ色の瞳がロベリアを見つめている。


「……あなたは」


 令嬢の雰囲気ではなさそうだが、高貴な佇まいをしていた。体つきは少しふっくらしているものの、しなやかで女性らしい容姿だった。男性ならば皆がその豊胸に飛び込みたいと思う色っぽさもある。しかしキファレス家に女性はいなかったはずだ。ゼラとゲンテの二人住まいだと、昨夜に部屋の案内をされた時にロベリアは聞いていた。一体誰なのだろうか。


「私、本日からロベリア様の教育係をさせていただきます、アスタ・ホーマルハウトと申します」


 アスタは薄紅のワンピースの両端を持ち、お辞儀をした。無駄がなく洗練されたそれは、全令嬢が見習うべき姿だろう。しシャボン玉のように透き通った丸いピアスが揺れる。

 アスタ・ホーマルハウト。年齢は……ゲンテだけが知っている。見た目は若く、三十歳あたりに見えないこともないが、年老いたゲンテだけが知っているあたり怪しい。美魔女というのはアスタのためにある言葉かもしれない。


「教育係……」

「えぇ。起こしてしまい申し訳ございません。ですがゼラ様より『容赦なく起こせ』と言われておりますので……お許しくださいませ」


 ゼラめ……と憎く思うと同時に、昨夜のキスと声が脳裏に蘇る。首元がまだ熱く感じた。


「あら、お顔が赤いですわね。お熱かしら……?」


 主人を心配する子犬のような顔つきでロベリアを覗き込む。こんなにも可愛げがあり、豊満な身体となればすぐにでも結婚できそうだが、アスタは独身だ。


「い、いえ。元気ですわ」

「そう……? ご無理はなさらないでくださいませ。では、ご支度がすみましたらキッチンへいらしてくださいね」

「……はい」


 アスタは目を三日月のように細めにっこりと笑い、ロベリアの部屋を後にした。上から糸で釣り上げられているかのように背筋がぴんと伸び、凜とした姿が遠のいていく。


「教育……明日から時間がないと言っていたのはこのこと? また取り巻き教育みたいなことを受けなくてはならないのかしら……」


 ベッドシーツで作られた袋から自身のワンピースを取り出した。唯一、アークリィ家から支給された服だが、それも養母の古着だ。首元はよれており、全体に皺がくっきりと刻まれ、丈下はほつれている。当時、ロベリアはほとんど外出することがなかったため、あまり気にしていなかった。気にしたところで買ってもらえるわけでもないのだが。

 しかし先ほどのアスタの服装を見て、自身がとても恥ずかしくなった。今来ているネグリジェも毛玉だらけでくすんでおり、袖は擦れて少し穴が開いている。


「服ってあるのかしら……」


 ロベリアはクローゼットを開けた。キファレス家が燃えたのならば、亡き母親の服もないのが当然だが、還らぬ人のために部屋を作るゼラならば用意してありそうだ。


「あった。……ドレスが五着にワンピースは十着あるわね。靴も用意されているし、ネグリジェもこんなに真っ白。けれどどれも派手……というかお母様の年齢には合わなさそうね」


 一つ一つ手にとっては、鏡で自分に合わせる。ロベリアも年頃の女の子だ。今までファッションを楽しむことができなかった分、手元にある洒落た服に舞い上がる。


「……いやいや。お母様のものだもの。今日はこの服をお借りしましょう」


 手にした服は深い海の底のような碧色のワンピース。本当は赤や黄、緑などの明るい色に憧れた。だが長年地味な格好をしてきたロベリアには抵抗があり、派手な服を着る自身にも見慣れていない。唯一、この中でも地味な色を選んだのだが、首元は少し大きく開いており鎖骨が見えている。腕は繊細なレース調になっており、肌が透けて見える仕様だ。

 ネグリジェを脱ぎ捨て、ワンピースを着る。クローゼットにずっと入っていた割には、この部屋の香りがついておらず、新品同様の香りだった。


「……あら、ピッタリね」


 肩幅もウエストも丈も、なにもかもロベリアのサイズそのものだった。靴は少しだけ勇気を出して、銀河のようにキラキラと輝くヒールを履いた。


「靴のサイズもお母様と同じなのかしら……」


 ドレッサーに座り、今度はブラシを使って丁寧に髪をとぐ。アークリィ家では亀裂の入った鏡を木箱に乗せてドレッサーとしていた。鏡に映る令嬢らしい姿がなんだか恥ずかしい。


「……こんなところかしらね」


 ロベリアに自然と笑みがこぼれた。笑うことを忘れていたからか、頬の筋肉が痛い。頬を両手でパチンと叩き、これから迫り来る教育とやらに覚悟を決めて部屋を出た。


 キッチンに近づくにつれ、アスタの元気な笑い声がキファレス邸に響いていた。ゲンテも楽しそうに話している。アスタはキファレス邸と長い付き合いがあるのだろうか。


「ゲンテ様、ゼラ様もいよいよですわね」

「えぇ……私は歳ですから、ゼラ様を一人置いて旅立つわけにはいきませんでしたが、ロベリア様が来てくださり本当に嬉しく……おや、噂をすれば」

 

 入っていいものか悩み、ドアの横で突っ立っていたロベリアだが、キッチンへ呼ばれている以上、部屋に戻るわけにもいかない。


「おはようございます、ロベリア様」

「おはようございます……」

「んも〜! やっぱりロベリア様はお美しいわ! 先ほどお会いしたとき、あまりにも綺麗な方だから驚いたのよ!」


 まるで宝石を見るかのように目を輝かせたアスタは、ロベリアをじっくり見つめた。


「ゼラ様も隅におけませんわね!」


 ねー、とゲンテに向かって同意を求める。ゲンテも深くうなずいた。「攫われたんですけど」と言い返したかったロベリアだったが二人が楽しそうなのでそのまま流した。


「ささ、ロベリア様。朝食の準備ができていますゆえ、召し上がってくださいませ」

「えぇ……」

 

 昨日のハーブティやクッキーは、もしかしたら今日の朝食を安心させるための罠だったのかもしれない。だが、キファレス邸にいる以上、出された食事を摂らなければ飢死するだけだ。どうせ死ぬならば、美味しいもので死にたい。それに昨夜の件でゲンテに申し訳ない気持ちも多少はある。

 ロベリアが葛藤していると、それに気づいたゲンテがほっほっと笑いながら説明してくれた。


「本日は、チーズパンにオニオンスープ、五種類のサラダに、サーモンのムニエルでございます。お飲み物は牛の乳をたっぷりと使ったミルクティーをご用意いたしました。無論、毒は入っておりませんぞ」

「そう……美味しそうね」

 

 ロベリアはフォークを持ち、サラダを手にした。ベビーリーフにレタス、アボカド、トマトにオリーブオイルと海塩がかかっている。


「あぁ、にんじんはサラダから抜いてますゆえ、ロベリア様は四種類ですな」

「良かった……ってどうして!? どうして私がにんじん嫌いって知ってるの!?」

「ほっほっほ、老人を甘く見てはなりませぬぞ」


 ゲンテは人差し指を立て、チッチッチッと左右に揺らした。

 学園で出されていた昼食にもにんじんが入っていることが多かったが、ロベリアは平然とした顔で食べていた。フォセカに知れ渡ったら厄介だからだ。

 今まで他言はした覚えがないのだが、ゼラならばあの手この手で調べ上げるに違いないと妙に納得できた。いい歳にもなってにんじん嫌いとは恥ずかしかったが、できることなら絶対に口にしたくない野菜だ。この点だけはゼラに大感謝をし、サラダを口につけた。


 その瞬間──


 アスタはロベリアの一センチ隣をバチン!と鞭で叩いた。あまりの勢いに噛み切れていないアボカドがするんっと喉の奥へ入っていった。


「ロベリア様、姿勢が悪いですわ! あと十度ほど体を後ろに、背筋をもっとしっかり伸ばして! あとフォークの持ち方がお上品ではないわ、指を綺麗に見せて!!」


 ロベリアが振り返ると、アスタが鬼のような形相でこちらを見ていた。手には随分と使い込まれている鞭が握られていた。


「ひっ!?」


 ロベリアはゲンテに助けを求めたが、相変わらず「ほっほっほ」と笑っているだけだった。とにかく自分の身を守ろうと、鬼教官アスタに言われるがままに、姿勢を正し、指をきれいに見せるように微調整してみた。


「そう! お美しいですわ、ロベリア様!」


 おそるおそる、もう一度振り返ると、今朝見た子犬のような顔のアスタがいた。ロベリアは理解できなかった。このキファレス家はやはり何かがある。


「ゲンテ……これは一体……」

「アスタ様の調教モードにはいりましたな」

「調教モード!?」


 調教、と聞いて思い出すのはゼラ・キファレスの楽しげな顔だった。考えてみれば、あのゼラが穏やかで淑やかな教育者を付けるわけがないのだ。


「アスタ様の教育は少々手厳しいところもございますが……一流のレディに仕上げてくれることでしょう。何せ、あのゼラ様も幼少期の頃受けられましたから」


 もしかしてアスタが原因でゼラは容赦ない人間に育ったのではないか、とも思ったロベリアだったが、今は返答せず黙っておくことにした。


 一度でも角度を越えてしまわないようにゆっくりと背筋を後ろへ倒し、音を立てずにそおっとサラダを置いた。

 次にサーモンのムニエルを口に運ぼうとした瞬間、またバチン!と鞭が飛んできた。アスタは口より先に手が出るタイプなのだろう。容姿とは似つかわしくないほどのバイオレンスだ。


「お口が大きすぎますわ! レディたるもの、お口は最小限に! ただし、口周りを汚さぬよう、包み込むように丁寧にお召し上がりになって!!!」

「はっ、はい……!」


 急に始まったスパルタにしどろもどろしながらも、アスタの命令に忠実に動く。そうでなければ、次こそ鞭が当てられてしまう。


「あぁ、ロベリア様、そう、そうですわ! お美しいですわ……伏せられる睫毛も艶やかでうっとり……はい、そこおぉおおお!!!」

 

 三発目の鞭が入った。どうやら今度はミルクティの飲み方が優雅ではないらしい。


「貴婦人のアフタヌーンティのように、木漏れ日の下で、鳥のさえずりと川のせせらぎ、風にそよぐ木々の葉音を聴いている雰囲気でお飲みになって!!!」


 細かすぎる気もするが、ロベリアにとってこの調教は序の口だ。取り巻き教育は過酷なもので、数日同じ部屋に閉ざされ、悪態を題材とした物語を延々と見せられたり、王女を引き立たせるために口にしたくもない残酷なセリフを覚え込まされたりもした。

 それに比べたら、今回は自身が綺麗になっていく。鞭は怖いものの、アスタからは愛情が感じられる。


 それから何度もロベリアの側に鞭が飛んできたが、なんとか朝食を完食した。


「ごちそうさま。それにしてもアスタ、すごい変わりようね」

「あら、そうですか? でもロベリア様は基礎が整っていらっしゃるわ! 私が申し出るところは少なかったですもの、とっても素敵でしたわ」

「そう……?」


 少なかった──果たしてそうなのだろうか。ロベリアは小さく首をかしげた。


「えぇ! さ、ロベリア様。次は異国語のお勉強ですわよ」


 顔の横で両手を合わせご満悦そうなアスタ。こう見ると、本当に可愛らしくお淑やかな女性なのだが──、彼女が独身である理由はこの裏面にあるのかもしれない。


◆◆


 夕日が昇る頃、この家の当主ゼラが帰ってきた。ゼラは家にいることがほとんどなく、領地へ出たり王国へ行ったり何かと忙しく動いている。ゲンテが玄関で迎え入れ、ダイニングへと向かいながら話を進める。


「ゼラ様、おかえりなさいませ」

「ただいま。……ロベリアはどうだ?」

「えぇ、しっかりと励んでおられますぞ。そろそろ終える頃ですかな」

「そうか」


 ゼラは、薄墨色に金色の刺繍が施されたロングコートを脱ぎ、一旦ソファにかけた。コートは自部屋で自分が管理しているため、ゲンテにいちいち渡すことはしなかった。領主ならば勲章がコートに一つや二つ付いていそうだが、王国に支配されているような煩わしさからあえて外している。唯一、付けているのは、キファレス家の紋章である薔薇と剣の絵が彫られた徽章のみだった。

 ゲンテが用意した温かな紅茶は、寒空の下で冷え切ったゼラの体を温めた。


「今日はいかがでしたかな」

「フォセカ王女の動きはまだない。……だが、かつて隣国の王女だったロ──」


 遠くから聞こえる足音にゼラは口を閉じた。ゲンテにはまだ聞こえていない。これはゲンテが老人だからではなく、ゼラの聴力が獣並みに良すぎるのだ。そしてゲンテの耳で足音を察知してからロベリアが歩いてここへ到着するまで十秒。ゲンテも十分、人並み以上の聴力の持ち主だが、ゼラのせいで凄さが霞んでしまっている。


「あら、ゼラ。早いのね。仕事はしているのかしら?」

「お前よりはな」


 ロベリアの方を振り向きもせず、さらっと受け流す。その態度に顔がひきつるも反論はせず、ゼラから一番遠い席に座り態度で示した。


「ふふっ、ゼラ様おかえりなさいませ」

「あぁ。アスタ、初日ご苦労だった。どうだ? そのじゃじゃ馬は?」

「もー、ゼラ様、奥様に向かってそのようなお口を!」


 笑顔のアスタは、ヒュンっと鞭をゼラの横へ軽々しく飛ばしたが、床に叩きつけられた鞭は重低音を響かせた。かつてのスパルタ教育を思い出したのだろうか、滅多に表情を変えないゼラの顔も少し凍りついた。もしかしたら、ゼラに唯一勝てる人間なのかもしれないとロベリアはアスタを味方につけようと心に決めた。


「ロベリア様は誰もが羨む素敵なレディになりますわ! ゼラ様、絶対に手放してはいけませんよ!」

「このアスタが初日でそこまで褒めるなんてな。やっぱりおまえ、図太いな」

「ちょっと!」


 ふざけないでよ、なんて言葉はゼラのはにかんだ笑顔にかき消されてしまった。楽しそうなゼラを見たアスタとゲンテは優しく微笑んでいた。その雰囲気に、両腕を組み頬を膨らますことしかできなかったロベリアなのだった。

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