03 死ぬまで愛す
ゲンテの手により屋敷の扉が開かれると、豪邸の象徴ともいえる大きく長い階段がロベリアの瞳に映った。正面の階段を三十段ほど昇ると、踊り場を分岐点としてさらに左右へ階段が伸びている。
その踊り場には紳士と淑女の等身大ほどの肖像画が飾られており、彼らの優しい微笑みがロベリアを出迎えていた。あまりの豪勢さに口を開いて見入ってしまっているロベリアを置いて、ゼラは足早に階段を昇る。
「おい、早く来い」
ゼラは踊り場で振り返り、階段の前で突っ立っているロベリアを見下ろした。その姿は肖像画に映る二人に似ていた。
「……はいはい」
ロベリアは大きくため息をついた。もうキファレス領に到着してしまったのだ、今さら足掻いても仕方がない。逃走しようものならば、最悪の場合、監禁されかねない。今は大人しくゼラの言うことを聞くことにした。
ロベリアが一歩進むと、後ろにいたゲンテが「では、私はこれで」と一礼してキッチンへ姿を消した。襟足あたりで一つにまとめられた白髪混じりの銀色の長髪が靡いていた。
ロベリアは、ワインレッドのカーペットが敷かれた階段を少し駆け足で昇り、肖像画を見上げた。
「……綺麗なお方ね」
ロベリアは思わずゼラに話しかけてしまった。ため息が漏れるほど、あまりにも美しかったからだ。
「……俺の両親だ」
「そう。今はどちらに?」
「……死んだ、十年前に」
その眼差しは寂しげで、けれどどこか無機質であった。感情を押し殺しているかのように。
「……私と同じね」
ロベリアには記憶などないが、両親は亡くなっていると王家から聞いていた。なぜ死んだのか、どこの誰であったかは教えてもらっていないが、ロベリアにとって顔も思い出せない相手の情報など他人事でしかない。状況は同じといえどゼラのように寂しい気持ちはなかった。
強いて言うならば、両親という拠り所があれば平凡な人生を送れていたのかもしれないと思う程度だった。
「知ってる」
小さく息を吸い込み、吐き出したゼラの声は微かに震えていた。他人を労わるような優しい声色ではなかった。親との死を重ねているからだろうか。
「なんで知ってるわけ?」
「仮にも婚約者だからな。我が家に迎え入れる人間の素性を調べ上げるのは当然だ」
以前より悪評はともかくとして、領地として名だけは高いキファレス領を羨望し憎悪の念を持つ者も多かった。急に我が娘を送り込み色恋を企てる領主や、領人に扮して襲撃してくる人間もいた。しかしゼラに挑むなど、ただの命知らずだ。令嬢は恐怖のあまり数分で帰り、襲撃者は八つ裂きにされ葬られた。
「なら、私はよくないんじゃない? どこの馬の骨かも分からない上に記憶喪失、養女で王女様の取り巻き役、おまけに学園を追放させられたただの半端者よ」
「ふん、半端者の方が調教しがいがあるってもんだ」
「調教って……」
彼は冷酷非道な振る舞いで有名なゼラ・キファレスだということをすっかり忘れていた。少し寂しげだった横顔に同情した自分の愚かさを戒めたロベリアだった。
◆◆
バスルーム、書庫、客間、ゼラの部屋……広い屋敷を案内されてほとんどの部屋を忘れてしまったロベリアだが、お漏らしでもして恥をかくことだけは避けたいためバスルームだけはしっかり覚えた。あとはそのうち覚えるだろう。
「最後、ここがおまえの部屋だ」
ドアの向こうには今まで見た部屋とは全く違う可愛らしいものだった。薄紫色の壁紙には金箔の小さな花模様が散らばっており、天蓋付きキングサイズのベッド、ドレッサー、大きくて広いクローゼット、そして窓際の小さな机には四本の薔薇が飾られていた。
「……やけに揃ってるわね」
女性を迎え入れるには申し分ない部屋だが、今日初めて出会ったにも関わらずここまで揃っているとなると、妙に引いてしまうというのも乙女心だ。
「何してんだ、早く入って来い」
ゼラは窓際の机に頬杖をついて、ドアで立ち尽くすロベリアを待ち構える。
「……私をどうする気?」
「どうって……あぁ、ベッド行くか?」
「そ、そうじゃないわよ!」
ゼラはフッと妖艶な笑みを浮かべ慌てるロベリアを面白がる。
「何もしねーよ、今夜はまだ」
「まだって言った!? あんた、私を売り飛ばすつもりでしょ! そのために品定めでもするつもり?」
「……そんなことはしない。いいから来い。話がしたいだけだ」
「本当でしょうね?」
「あぁ、誓う」
ゼラは剣を机に立てかけ、両手を上げて敵意がないことを表明した。ロベリアは震える足を奮い立たせながらゼラの元へ向かう。まだ信用しているわけではないのだ。なにせ、あのゼラ・キファレスと個室に二人っきりなのだから。
「にしても、レディのことを分かっているような部屋ね。……女性でも連れ込んでいるのかしら?」
仮にもロベリアは婚約者として連れられてきた。ゼラの夜遊び相手と使っている部屋だとすれば心外だ、と嫌味ったらしく尋ねた。
「だとしても、今日から婚約者のおまえには関係ないだろ?」
「否定しないのね」
ロベリアはいつでも逃げられるように、机との距離に余裕を持たせてゼラと向き合うように座った。
「……母親の部屋だ。正確には母親の部屋の模倣だ」
「模倣?」
「かつてのキファレス邸は火事になった。その時に両親も使用人も死んだ。俺は…………。まぁいい。とにかく、そういうことだ」
還らぬ人と分かっていても尚、愛する人の帰る場所を作るこの男は、無差別に人を殺すような人物なのか。ロベリアが噂に聞いていた殺人狂・ゼラ・キファレスの姿はここにはないようにも思える。
「……辛いことを思い出させてしまったわね。ごめんなさい」
「いや、問題ない。それより、明日からおまえに時間はない。俺の言うことを聞け。いいな」
時間がないと言われ「はい、そうですか」と快く答える人間がいるだろうか。当然、ロベリアもその一人だ。同情し謝罪した数秒前の言葉を返してほしいと、ロベリアは両手を机に叩きつけ、体を乗り出して反論する。
「……やっぱりあなたも私を道具のように扱うのね! 今までの婚約話は全て演技、この部屋も明日には夜遊びに使われるのよ! ……いいわ、もう分かったわ。やってみなさい!」
取り巻き“役”で鍛えられた根性が発揮され、半ば投げやりのように言い放つ。思い出すは理不尽な日々──。
学園時代、周囲にフォセカ王女の嫌な噂をわざと撒き散らせと本人から言われていた。取り巻きが行った悪事までを許す慈愛に満ちた王女、という設定のためだ。当然、王女のことを罵るロベリアは周囲から嫌われていたし、一部の人間からは陰湿な虐めも受けた。やり返せる武力は大いにあるものの、フォセカの手前上、反抗はできない。無言で耐え忍ぶだけだった。そして時機を見計らったフォセカが助けに入ることで、彼女の評価は上がっていく。
しかし度が過ぎた噂の後はフォセカに呼び出され、説教を延々と聞かされ体罰が下される。どうやら『フォセカ王女が入った後のトイレはとても臭う』と憎しみを込めた噂が気に食わなかったようだ。
その時は王女の手下によって農家の牛糞小屋に一日監禁された。制服は汚れ、臭いも纏いつき、ハエがロベリアの周りを飛び交う。糞から発せられる有害なガスに意識さえも遠のきそうだったが、こんなところでへこたれるロベリアではなかった。
──負けるもんですか!
ロベリアは壁を殴り、蹴り、頭突きをし、令嬢らしからぬ方法で壁をぶち壊し脱出した。数時間後、フォセカの目論見では『ロベリアを自ら探し出した優しい王女』となる予定だったのだが、ロベリアの脱出の方が早かったために、ロベリアが監禁されていたことも隠蔽され、代わりに農家の人間が監督不行届で処罰が下された──。
そのようなことは毎日のように起きていた。今さらゼラに何をされようと自分を操る道化師が変わっただけだと、ロベリアは自身を奮い立たせた。
「おい、俺をなんだと思ってるんだ」
「トイレの手下かしら」
「はぁ?」
「あら、失礼。そうね、冷酷非道の無差別殺人鬼ってとこかしら」
言い直したところで、どちらも褒め言葉ではない。もしゼラが、本当に殺人鬼なのであれば、この瞬間ロベリアの首は刎ねられていただろう。
「だとしたら、よくそんな口叩けるな」
「ふん、殺されなければいい話よ」
トントン、と上品で軽やかなノックと共にゲンテが入ってきた。ハーブティの香りが部屋を穏やかにさせる。
「お話は進んでおりますかな?」
ゲンテは跪き、そっと二人の前にカップとクッキーを置いた。
「全然だ」
ゼラは組んでいた腕をほどき、両手を軽く広げお手上げのポーズをしてみせた。
「そうですか。ロベリア様、こちらハーブティでございます。どうぞ」
心に寄り添うようなゲンテの声はどこか安心感があったが、キファレス家の従者に変わりはなく、ロベリアの警戒の糸は解けぬままだった。
「ありがとう。でも飲めないわ」
「ハーブティはお嫌いでしたかな?」
「いいえ」
「ではご気分でも?」
「いいえ」
「でしたら……」
そのやりとりを見ていたゼラは、自身のカップではなくロベリアのカップに手をつけた。
「こういうことだろ?」
ゼラはロベリアが飲むはずだったハーブティを一気に飲み干した。ロベリアはぽかん、口を開けてゼラを見つめていた。
「……っははは! なんでそんな警戒心強いんだよ、お前本当に令嬢か?」
「だってそうでしょう? 学園を追放された日に婚約だなんておかしな話よ。毒を盛られてもおかしくないわ!」
信用していない者から出された物に何が入っているか分からない。睡眠薬や媚薬、致死量に値する薬が混ぜ込まれていてもおかしくはない。だからロベリアは口にせず、そして敵にならぬよう丁重に断っていたのだが、ゼラには見抜かれてしまい思いっきり笑われてしまった。ゼラが最初からこのくらい笑える人間ならば、ロベリアも警戒しなかっただろうに。
「そういうことでしたか」
ゲンテは和かな笑顔を返し、ゼラのカップにハーブティを注ぐ。
「なら考えてみろ。おまえを殺したところで、俺に何のメリットがある?」
「……それはきっと、王女の命令で私を殺したら謝礼金が出るんだわ!」
「だとしたら、アークリィ家に着いた瞬間、皆殺しだ」
そんなセリフを躊躇せずさらりと口にしてしまうあたり、さすがゼラ・キファレスだ。冗談に聞こえない返しにロベリアは背筋が凍った。
「それに謝礼金なんぞもらわなくとも、キファレス家は安泰だ」
「ならどうして?」
ハーブティに問題がないと判断したロベリアは、カップを口にする。全身に染み渡るハーブティが緊張を解いていく。
「だからさっきから言ってるだろ、婚約者だと」
「……っ」
美しくも儚げのある碧い瞳に真っ直ぐ見つめられ、ロベリアは吸い込まれそうになった。その淀みのない瞳は、アルニタク家や王国に仕える者、アークリィ家の人間と違う綺麗なものだった。ロベリアに向けられていた軽蔑、卑劣、侮蔑した瞳のどれにも当てはまらないのだ。
この美しい瞳の海底にある想いをロベリアはまだ知らない。
「じゃあ女王は何を企んでいるの?」
信じてはいけないと分かっていながらも、毒と疑った自分に少し罪悪感を抱いた。だから、クッキーにも手を出してみた。メープルが染み込んだしっとりとしたクッキーはハーブティと絶妙だった。
「……『ロベリアを婚約者として迎え入れた後に殺せ』と下されている」
キファレス家に追いやり、精神的にも肉体的にも蝕み、その上で殺す。フォセカにとっては至極最高の喜劇だ。
「……ほら、やっぱりそうじゃない」
ロベリアの人生はフォセカによって奪われていく。学園追放だけでは足らぬのか。ゼラ相手では敵うはずがない。もう死を受け入れるしかないのか。解かれた緊張の糸がまた結ばれた。
「まぁそう硬くなるな。俺はお前を殺さない。あの女王はどうも鼻につくんでな。命令は聞きたくねぇ」
予想外の答えに、口からクッキーがこぼれた。この国で王家の人間に逆らうものは、弁明の余地なく首が飛ぶ。時と場所も選ばない。皆、王家に逆らえない。誰もが犬のように尻尾を振り、媚へつらって取り入ろうとしている。そんな人間、ロベリアはたくさん見てきた。
「あんたそんなこと言っていいの? 王家の耳に入ったら処刑よ」
「仮に耳に入ったとしても王家は俺を殺せない。この国の経済基盤はこのキファレス領がほとんどを占めている」
この国の王──フォセカの父は金に目がない。キファレス領の主が亡くなれば、この国の経済は傾く。殺人狂とも恐れられているゼラの後継者に相応しい人間などいないであろう。つまり、よほどのことがない限り、いや、よほどのことがあっても恐らくゼラは殺されない。
「でもまぁ、耳に入ると厄介なんでな。情報を漏らすようなマネをしたら……どうなるか分かってるよな」
先ほどの引き込まれる瞳とは違い、今度は首を締められるような強い眼差しだった。それだけでロベリアは息が詰まりそうになり、ハーブティを大きく一口飲み込んだ。
「……私もあのちんちくりん女は嫌いだわ」
怖気付きそうな体に鞭を打つように、ゼラに弱い姿を見せまいと虚勢を張った返答をした。
「おまえこそ侮辱していいのか? まだ俺を信用したわけじゃないんだろ?」
「えぇ。でもこの国とフォセカのことが嫌いな人ならば少しは信用できるわね」
「この話が嘘だとしてもか?」
「だとしたら……」
ガタンッとロベリアは椅子から腰を上げ、素早く机に立てかけられたゼラの剣を奪い、両手でグリップを握りしめて彼の目の前で止めた。令嬢らしからぬ剣捌きだ。一般的な令嬢ならば、剣の重さに負けて持ち上げることさえ難しいであろうが、それをやってのけてしまうのは、彼女が歩んできたこれまでの人生を物語っているといえよう。
「どうなるか分かってるわよね」
剣を突きつけられているにも関わらず、ゼラは微動だにせずにハーブティを一口飲んだ。ゼラの後ろで控えていたゲンテは瞬時に主の横に移動しており、手には小剣が四つ握られていた。そこに朗らかな執事の顔はない。ロベリアはゲンテの動きは何一つ見えなかった。
──小剣を持つ執事!? やっぱりゼラ・キファレスには何かがある……!
「ゲンテ、しまえ。今日は下がっていいぞ。後はこいつと二人で話したい」
「かしこまりました。失礼いたします」
ゲンテは一礼をし、その場を去った。ゼラはカップを置き、まだ剣を下さないロベリアを見つめた。
「お前って本当面白いやつだな。ふっ、いいぜ、その時は俺を殺しな。ただ……」
ゼラが立ち上がった、とロベリアが認識した時にはもう遅かった。ゼラはロベリアが持つ剣を一瞬にして奪い、背後からロベリアの首に剣を回した。その動きは一秒にも満たない。
「俺を殺せるなら、な」
一瞬の出来事で頭が追いついていないロベリアは、剣に反射する自分の顔を見て現状を把握した。
──殺される
そう理解できた瞬間、全身が震え上がった。今までの人生は決して楽しいものではなかった。未練も思い出も何もない。これから待ち受ける未来にも希望を持てないのに、それでも死ぬのは怖いと、生きたいと思ってしまうのは、あの引き込まれるような美しい碧い瞳を見たからだろうか。
ゼラはそっと剣を離し、そのままロベリアを後ろから抱きしめた。
「……えっ」
「……なんだ、威勢がいいわりには震えてるじゃねーか」
なぜゼラの手が優しく自身を包んでいるのか、ロベリアは理解できなかった。ただ、人の温かさに初めて触れた。なんだか心地良くて悪い気はしなかった。遠い記憶の一部にも、このような温かさがあったのかもしれない。
──これが懐かしい感じ、というやつかしら……
緊張の糸が完全に解け、安堵から目に涙すら浮かべたがぐっと堪える。ロベリアは降参し、なすがままにゼラの抱擁を受け入れた。ロベリアは両手でゼラの腕に触れ、会話を続けた。
「……殺されるかと思ったわ」
「おまえが上目遣いで尻尾を振ってくるような子犬だったら、殺してたな」
「悪かったわね、可愛くなくて」
「ワンワン吠える狂犬の方が俺は好きだけどな。……まぁいい、今日はもう寝ろ」
ゼラはふわっとロベリアの首元に顔を埋め、優しく唇を落とした。それがキスだと分かった時には、ゼラはもう離れていた。
「なっ……!」
「おやすみ、ロベリア」
剣を鞘へしまい、振り返ることもなく部屋を後にした。バタンとドアが閉まる音と同時に、ロベリアは熱を帯びたそれに全身を溶かされてしまったかのように床へ座り込んだ。
なぜ王女を裏切るのか、何か作戦はあるのか、明日からは何が始まるのか──聞きそびれたことが多いが、そんなことはもうすっかり忘れてしまっていた。男性に優しくされたことのないロベリアは、首にキスでさえも頭が混乱していたのだ。
「ゼラ・キファレス……!」
怒りや恥ずかしさから高揚したロベリアの顔は真っ赤に染まっていた。キスされた首元を左手で触れると、最後に放ったゼラの優しい声が脳裏で繰り返される。
ぶんぶんと頭を振り、その言葉を消す。しかし首元の熱はしばらく消えることがなかった。ロベリアは小さくため息をつき窓の方を見上げる。机に飾られた四本の薔薇が月光に照らされ輝いていた。
──花言葉は、死ぬまで愛す。