17 強い剣士
「俺がこんなに早く座るとはな……」
再建されたキファレス邸は、外装だけでなく内装も同じにしている。家具や小物もかつて使用していたものと近しいものを取り寄せた。ゼラは背もたれの長い焦げ茶色の椅子に座る。
「とても素敵ですよ、ゼラ様」
そう答えるのは、ピスキウム宮殿に仕えていたゲンテだ。二人は先代のキファレス領主つまりゼラの父が使用していた部屋に来ていた。今日からこの場所は、ゼラの部屋になる。
「そうか?」
「えぇ」
ゲンテはまだ幼い領主を支えるべく、ピスキウム王国から住み込みで派遣されてきたのだ。これはラークスによる絶対的命令だ。指示や指図といった甘いものではない。当初、ゼラは従者の派遣を断った。派遣でなくとも、キファレス邸に従者をつけるつもりは更々なかった。
理由はただ一つ。守れないからだ。
かつてキファレス邸が燃焼した時のように、自分の力では誰一人守ることができない。従者が多ければ多いほど、守るべきものが増える。
ゼラは、守れる自信がなかった。もう、失いたくなかったのだ。
だからラークスは国王としての権力を使い、ゼラに拒否権を与えない「命令」という形で強制的にゲンテを従者につけさせた。彼もまた、ゼラを守りたかったのだ。
「お父様はここに座りながら、どんなことを思っていたんだろうな……」
ゼラは父親を追想した。
ゼラの父親は毎日慌ただしく過ごしていた。家でも机に向かっている時間は多かったが、何一つ弱音を吐かず、疲れた顔をしなかった。当時は何も思わなかったゼラも領主になって責任の重さに気づく。この部屋で人知れず、涙を流した夜もあるのだろう。
今となって父親の思いが知りたいと願うゼラだが、もう叶わない。
「……きっと、これからお分かりになるでしょう。焦らずにゆっくり進みましょう」
そう微笑むゲンテの言葉は、ゼラがこれから歩む道を、迷わないように、転ばないように、そっと照らし続けてくれるのだろう。
「そうだな。改めてよろしく頼む、ゲンテ」
「えぇ。この身を持って、ゼラ様をお守りいたします」
ゲンテは跪き、ゼラに忠誠を誓う。
「そんなことしなくていい。ゲンテはゲンテらしく生きてくれ」
ゼラは腰を落とし目線を揃えて伝える。
その姿に、ゲンテの目から涙が溢れた。
二年前、同室にやってきたあの小さな少年がこんなにも立派な姿に成長しているのだから。
「……ゼラ様は、ラークス様に似ていらっしゃいますな」
「俺が? あの方みたいに陽気ではないぞ」
「そういうことではありませんよ」
ゼラは少し頭を捻るも、ゲンテが思う答えに見当がつかなかった。
「……それもきっと分かっていくのだろうな」
「えぇ、そうでしょう。さて、荷ほどきでもいたしましょうか」
「そうだな」
服や靴など嵩張る大きな荷物は先に送られていたが、貴重品や昨夜まで使用していたものは、手持ちの革鞄に詰められていた。ゼラは鞄を開け、真っ先に取り出したのは一冊の絵本だった。
「おや、それは何でしょう?」
「あぁ、これか。ゲンテに話したことなかったか?」
「いえ。確か、そちらはローズ様の本では?」
ゲンテが顎に手を当て、まじまじと本を見つめた。
「そうだ。ローズ様の本、だった」
「だった、と言いますと?」
「今では正真正銘、俺のものだ」
そう言って、ゼラは本の背表紙に書かれた自分の名前をトントンと指差した。
「あれは一年ほど前のことだ……」
──一年前
「……ここにいらしたんですね」
ローズは庭の芝生の上で寝そべりながら、陽気な鼻歌交じりに本を読んでいた。
「ローズ様を見ませんでしたか!?」との従者の言葉が飛び交う宮殿内。一応、子守役として勉強の合間を縫って探しにきたというわけだ。ゼラにかかれば、ローズの居場所などすぐに検討がつく。
「あ、ゼラ! いいところに来たわ!」
ローズはキラキラと輝かせた目でゼラを見つめる。
──また何か企んでいますね……
「……なんでしょう」
「この絵本、難しいのよ! 全く読めないわ!」
ローズが手にしているのは、異国語で書かれた児童書の絵本だ。彼女も九歳になる。王女ならば、いつしか言語の違う諸国との交流もあるだろう。勉強の一貫としてアスタからこの絵本を渡されていたようだ。
「……しょうがないですね。その本なら、俺も以前に読んだことがありますから、一緒に勉強しましょう」
ゼラも貿易を盛んとしている領地の長男であることから、異国語の教育は幼少期から受けていた。今もアスタからしごかれてはいるのだが、日常会話は問題なくこなせる。
「本当!?」
ゼラはローズの横に座ったのだが、起き上がったローズはお構いなしにゼラの膝の上へ座ってくる。
「ローズ様、どうしてここに……」
「こっちの方が読みやすいもの!」
「……そうですか」
──……ローズ様は、王女様だ。
ゼラは小さく芽生えていた恋心に強く牽制をした。望んではいけないのだ。領主であり、辺境伯である人間が、王女に想いを寄せるなど身分が違いすぎる。それに強く願っても、叶わない。それは生まれた時点で決められているのだ。
「さ、ゼラ! 読んで!」
「読んでって……。どこが分からないんですか?」
「全部よ!」
ローズは両手を大きく広げ、元気よく答えた。
ゼラは額に手を当て、愕然とした。この先が思いやられる。
「……ではまず、タイトルは『強い剣士』という意味です」
「ゼラみたい! 最近、ゲンテに剣術習っているものね!」
「えぇ……。まだ強くはありませんが」
大切な人を守るために強くなりたい、もう二度と失いたくない、とゼラはゲンテに剣術の指導をお願いした。その想いに強く心を打たれたゲンテは喜んで教えている。その姿をローズは側で見ている。時折、二人に混ざるのだがマーガレットに強制送還されてしまう。
「あ、そうだわ!」
ローズはゼラから本を奪い、ペンを取り出して何やら背表紙に書き込んだ。
「ゼラ・キファレスっと! 今日からこの本はゼラのものよ!」
幼さが残る字で、背表紙の右下にゼラの名前を書かれてしまった。
「……ローズ様、これは一体……」
「もう私のではないわ! つまり、勉強しなくていいってことよ!」
どうしてこの王女はこんなにも陽気なのだろうか。ゼラは左手で眉間を抑えた。ローズの驚愕な行動に目眩がしそうだ。
「そんな滅茶苦茶なことを。怒られますよ」
「ふふ、大丈夫よ。……私、そろそろ行くわね。実はこの後、隣のレポリス国から王子様がいらっしゃるの」
「王子様……」
それはゼラの恋敵にもあたる。だが、勝てるわけがない。そもそもの立場が違うのだ。たとえ、いくらゼラがローズへ好意を見せたとしても、身分の違いで跳ねられてしまう。一方、王子はローズと対等に向き合うことができる。ゼラが最も嫉妬する存在だ。
──……くそっ
「でも私とっても嫌だわ。だって私……ううん、何でもない」
ローズが王子を嫌っていることに、少し安堵したが、だからといって自身に矛先が向けられるわけでもない。いつかは王子か、自分ではない他の誰かの元に行ってしまうのだ。
「ねぇゼラ。もし私が捕まってしまったら、迎えに来てくれる?」
それは絵本の中の女の子を彷彿させるような言葉だった。
「……ローズ様、もしかして本を読み終えていませんか?」
「ふふ、私できる子なのよ!」
「まったく、あなたって方は……」
「……ゼラの腕の中に入りたかっただけよ」
そこには、いつもゼラに向ける無邪気な少女の笑顔ではなく、少しだけ彼女を「女性」だと感じさせる、艶やかな微笑みがあった。まだ少女のローズだが、マーガレット譲りの容姿端麗な女性の姿を彷彿させた。
どくん、とゼラの心臓が大きく大きく脈打った。息がどうしようもなく苦しくなる。そんな姿のローズを見たのは初めてだったから。そしていつしか、自分ではない誰かの横にローズが立つ未来は近くにあると、想像できてしまったから。
「じゃ、行くわね。ありがとう、ゼラ!」
ローズは少し寂しそうな笑顔を見せて、宮殿へと入って行った。
「迎えに行けるなら立場なら、今すぐにでも止めた……俺にどうしろって言うんだ……」
与えられた絵本を強く強く抱きしめ、行き場のない想いを彷徨わせていた。
「…………」
「ゼラ様?」
「………………」
「ゼラ様〜?」
ゲンテがゼラの目の前で手を振り、主人の意識を確認する。
ゲンテに話していた途中で、物思いにふけてしまったらしい。
「あ、悪い……。どこまで話したか?」
「ローズ様がゼラ様のお名前をお書きになったところまでですな」
「そうか。まぁそういうことがあってな、今はこれは俺の本だ」
「ローズ様らしいですな」
「これからはローズ様の子守りがないと思うと、少し寂しいものがあるな」
それからのゼラは、ゲンテやラークス、領民など多くの人々に支えられ、当時の悲しみを背負えるほどまでに大きく成長した。ローズとの交流は減ってしまったが、ピスキウム宮殿に招待された時には会話を交わしていた。
そして、ゼラが一人前の領主として様になってきた、五年後の晩冬。
突然、ピスキウム王都から知らせが入った。
──ピスキウム宮殿が襲撃された、と。




