12 青い瞳
ジャミとの会話は時間を忘れさせ、あっという間に夕方になってしまった。一般的な令嬢ならば、使用人の迎えが来てお開きとなるのだが、無銭乗車したロベリアに迎えはない。
「あら、日が落ちてきたわね……そろそろおいとまするわ」
窓から見えるプロキオン領はほんのりと橙色に染まり始めた。
「あら? 馬車のお迎えは来たかしら?」
「いえ、今日は来な……じゃなくて。ちょうどプロキオン領とキファレス領の境にある農家で、使用人と合流することになっているの。実は夕食をいただくことにもなっているのよ! 美味しいチーズが出来たみたいで……」
「そう! それは楽しみね!」
貴族が農家で夕食を食べるなど、おかしな話だ。白々しい嘘にジャミも気付いていただろうが、それにも訳があるのだろうと汲み取ってくれたようだ。
ロベリアとジャミは立ち上がり、玄関へと向かう。迎えのないロベリアを不思議そうな目で見る使用人が扉を開け、ロベリアは外へ出る。最後にくるっと後ろを向き、ジャミに挨拶をした。
「では、これで。今日は会えて嬉しかったわ!」
「えぇ、私も! また話しましょう。ロベリア、私は何があってもあなたの味方でいるわ、それだけは覚えておいて」
「ジャミ……ありがとう」
地獄のような学園生活だったが、ジャミと会えたことだけには感謝した。
ジャミはロベリアが見えなくなるまで、大きく手を振っていた。ロベリアは一度だけ手を振り返し、キファレス領へと続く一本道を足早に進む。
「帰りのことなんてすっかり忘れて話しすぎちゃったわ……。どうしましょう」
この時間帯に荷馬車が走ることは、ほぼない。暗い夜道は足元が見えづらく馬が転倒してしまう可能性もある。運転手自身も怪我をし、報酬となる物産も台無しだ。それに領民の朝は早い。家族団欒に夕食を楽しみ、明日に備えて早く寝るだろう。
「やっぱり歩くしかないわね……。まぁあとは一本道だし、急いで帰れば夕陽が沈むまでにはキファレス領内に入れるはずよ」
領地に入ったとて、キファレス邸に到着するまでには距離がある。暗闇を歩くことには変わりないのだが、自分の住む領地ならば少しは安心できる。
──彼を愛して、自分を愛して
頭で繰り返されるジャミの言葉がより深く胸に響くのは、一日の終わりを告げる夕日の物寂しさと、ゼラから放たれた言葉に寂寞した思いが重なっているのかもしれない。
「……おまえには関係ない、なんて酷すぎるわ。私は悪くなんか……」
──俺は、お前を死んでも守る
その言葉に添えられた、真っ直ぐな瞳に返すことができなかった自分もいる。自分を棚に上げて、ゼラだけを責めることができるのであろうか。
──ゼラ様は、いかなる時もロベリア様のことだけを想っております
以前ゲンテが話してくれた、ゼラがロベリアを想う気持ち。ゼラの伝え方は不器用だが、昨夜の言葉は、その想いから出たものかもしれない。ゲンテとジャミのおかげで、ロベリアは少しだけそう思えることができた。
「……ゼラのこと、もう少しだけ信じてみようかしら。でも、許したわけではないわ!」
ゼラに歩み寄ろうと一歩踏み出したロベリア。自分に向けられる仲間たちの温かな言葉が、取り巻き役で造られた氷のような心を溶かす。
「さ、急いで帰りましょう! 今日の夕食は何かしら? 美味しいチーズが本当にあったら最高ね!」
早く家に帰りたい。そう思ったことなど、これまでに一度もなかった。学園にもいたくなかったけれど、アークリィ家にも帰りたくなかった。ゼラの一件が待っているにせよ、帰る場所を見つけたロベリアの足取りは軽かった。
◆◆
プロキオン領とキファレス領の辺境には、予想通りの夕暮れに到着した。辺りが暗くなってゆくキファレス領地へ足を踏み入れ進んでいく。木々がなびく音、梟の声、少し堆肥臭い土の香りがロベリアを迎え入れた。
「んー! 帰ってきた感じがするわ!」
農地や牧場が広がるこの領地は、冷たい夜風を遮る大きな建物がなく肌寒さが増した。
「少し寒いから、ストールでも羽織って……あら?」
普段は身に付けないためか、ストールの存在をすっかり忘れていた。どうやらジャミの家に置き忘れたようだ。
「まぁこの薄暗さの中、変装する必要もないものね。また今度会えた時に回収しましょう」
今宵は、所々に雲が広がっていた。大気の流れが早く、雲の隙間から下弦の月が見え隠れしている。時たま輝くロベリアの髪色は、まるで月を映しているかのようだ。
「さすがにゲンテも心配してるかしら。少し急ぎましょう!」
ワンピースの両端を持ち、小走りをしようとしたその時──
「んゔ!?」
何者かの右手がロベリアの口を押さえつけ、ゴツゴツした左手で、彼女の細い両手首を捕らえた。ロベリアは後方に首を少し傾けると、ロベリアを覗き込む男と目が合った。男の淀んだ瞳はアルニタク王家とその周りに沸く人間と同じだった。
──……汚らわしい。最悪ね
「キファレス領にいる金髪の女……あんたがロベリアだろ? 大人しくしてな、悪いことはしねぇ」
図太く掠れた声が、ロベリアの耳元で囁かれる。
──大人しくなんかするわけないじゃない!
ロベリアは、相手のみぞおちにとびっきりの肘打ちを一発、お見舞いした。
「ぐはっっ」
男は打撃と同時にロベリアを離し、涎を垂らしながらゲホゲホと咽せた。令嬢はか弱い生き物のはずだったと、自身の認識と全く違うことに困惑しているようだ。
「ふん、私を甘く見ないでちょうだい!」
その隙にロベリアは逃げた。ただ真っ直ぐに、キファレス邸のことだけを考えて走る。鼻に残る男の香りと、体に付けられた汗が気持ち悪い。
──急がなきゃ、もっと早く、早く
視界が悪くなっている一本道を、ただひたすら走るロベリア。だが、地に落ちていた拳ほどの石に気づかず、盛大に転けて倒れ込んでしまった。
「いった……! なんで石なんか出てるのよ!」
いつも着ているドレスならば膝ぐらいは守れただろう。しかし今日に限って、廃れたワンピースだ。顔も膝も肘も擦れて切れてしまった。傷口が冷たい夜風にあたり、痺れたようにひりつく。だが、それを確認する余裕もない。
──なんで私が追われなきゃならないのかしら……
──それに……死んでも守るって言ったじゃない、ゼラ
少しだけ弱気になったロベリアは、ゼラの言葉と真っ直ぐな青い瞳を思い出した。
──……いいえ! こんなところでヘコたれていたら、笑われてしまうのがオチだわ! それに今日のことは私が悪いもの……自業自得ね。
頭に浮かんだゼラを掻き消すかのように、手についた砂を力強く払った。そして立ち上がろうとした、その時。すっと差し伸べられた救いの手がロベリアの目に飛び込んだ。
「大丈夫か?」
茶色の革靴に真っ白に輝く礼服。ゴールドに輝く装飾、深緑のベストからはフリルのきいた胸飾り。
垣間見えた月が照らしたのは闇のような黒髪と。
「なんて汚い瞳」
そこには、ロベリアが小さく願った青い瞳はなかった。




