09 必ず迎えに行く
自室を出たロベリアは、階段を踊り場まで下り、先代キファレス夫妻の肖像画の前を通って反対側の階段を上る。玄関から見るとロベリアの部屋は右側の棟、ゼラの部屋は左側の棟にある。
「今までなら、ゼラの部屋なんて危険で行きたくなかったけれど……まぁ大丈夫よね。いざとなったら、噛みちぎってやるわ!」
ゼラへの敵対心は完全になくなったわけではないが、警戒心は少しだけ薄れていた。
「ゼラの部屋は、確か突き当たりだったわね」
普段は自室と一階にあるキッチン、バスルームぐらいの行き来しかないため、ゼラの部屋がある左側の棟に来ることはまずない。ここへ足を踏み入れたのは攫われた日に案内された以来だった。他の部屋とは違う大きな両扉をノックするも、返事はない。
「ゼラ、私よ」
声をかけるもやはりゼラの返事はない。書斎や物置などの他の部屋にいることも考えられたが、耳を澄ますと、かすかに部屋の奥から物音が聞こえる。
「いるわね……。ふん、気づかない方が悪いのよ。もう入るわよ」
そう啖呵を切るもやはり忍びない気持ちもあり、扉をそおっと押し開けた。
あの夜と同じ、ゼラの香りがロベリアにふわっと纏わり付く。
「…………」
それと同時に赤くなる顔と首。目の前にゼラがいたら笑われていたことだろう。ロベリアは、ぶんっと頭を振り、あの日の夜をなかったものにした。
ロベリアの部屋よりも三倍ほど大きなゼラの部屋には、観葉植物が方々に飾られており、どれも生き生きとしていた。ゼラが植物に水やりをしている姿がどうも想像ができないロベリアは、リトが手入れをしているのだと解釈した。ゼラだと似合わなすぎて、そうであってほしいという願望も込められている。
部屋を見渡してみるが、ゼラの姿が見当たらない。山積みにされた書籍や書類が置かれた机は、一見散らかっているようにも思えるが、量が膨大なだけでしっかりと整えられていた。書き途中であろう資料のインクはまだ乾いていない。
「どこいったのよ……」
ゼラの部屋はL字型になっており、扉から突き当たりの窓までの距離が長い。観葉植物で誤魔化されているが、部屋の広さのわりには物が少なかった。
書類が積まれた長机、ソファとそれに合わせた低い机、広い部屋を一瞬で暖められるほどの大きな暖炉。そして奥の方には、キングサイズのベッドと、十着ほどしか入らない小ぶりなクローゼットが置かれていた。領主ならば一室を衣装部屋として持ちそうなものだが、ゼラの部屋は必要最低限の物しか置いていなかった。
「案外、綺麗にしてるじゃない」
方々を見渡しながら突き当たりを右へ曲がると、そこには専用のバスルームがあった。ガタガタと物音が聞こえ、時折シャワーの音が聞こえる。どうやらゼラはバスルームにいるらしい。
ロベリアは人様の入浴を覗く趣味を持ち合わせていないので、革でできたキャメル色のソファで待つことにした。横になれば足が余裕で伸ばせるほどの大きさだ。この令嬢らしからぬ令嬢は、寝そべるようにソファへ飛び込んだ。アスタが傍にいたら地獄のように罵倒されるに違いない。
普段ゼラはここで休息をとっているのだろう。ほのかに温かみが残ったブランケットに、机には平らげたケーキ皿とカップ、そして日焼けして古びた絵本があった。
「……絵本? ゼラが?」
ケーキと絵本。ゼラのことを「冷酷で非道な殺人狂」止まりならば、腹を抱えて笑うところだったが、この数日で感じたゼラの温情や悲痛な過去、時折見せる飾らない笑顔。それを知ってしまったロベリアは、どうも笑うことはできず、絵本を持っている理由に興味が湧いた。
ロベリアは、そっと手に取り外装を眺めた。表紙には異国語でタイトルが書かれており、この国の言葉で訳すと『強い剣士』だ。国外貿易が盛んなキファレス領ゆえに、幼い頃から異国語の教育は受けていたのだろう。
裏表紙の下には「ゼラ・キファレス」と、まだ幼さが残る字体で名前が書かれていた。
「何よ、昔は可愛かったんじゃない」
今のゼラからは想像し難かったが、この字体からは、まん丸の碧眼にとろけ落ちそうなぷっくりとした頬、そして天使のような笑顔を見せるゼラ──つまり今のゼラとは正反対な可愛いゼラを思い描き、ロベリアはふっと口角を上げた。
周辺諸国の言語を勉強中のロベリアだが、童話程度ならば難なく読める。ページをめくり、幼いゼラに読み聞かせるかのように、小さく呟きながら読みすすめた。
むかしむかし、あるところに
一人の元気な男の子がいました。
男の子は、お友達の女の子のところへ
毎日遊びに行きました。
「やぁ! 今日はおいしいビスケットをもってきたよ」
「まぁ! ありがとう」
男の子と女の子は
お庭で小さなティーパーティをしました。
「ちょっぴりさびしいわね」
「どういうこと?」
「だってこんなに楽しいパーティですもの、
くまさんやうさぎさんがいたらもっとたのしくなるわ」
そう言われて、男の子は考えました。
「だったら、明日、僕がつれてきてあげるよ!」
「え! ほんとう? 楽しみにしているね」
次の日、男の子は、
首に赤いリボンを巻いたくまのぬいぐるみを抱えて
女の子のおうちへ遊びに行きました。
しかし女の子はいません。
窓からおうちの中を覗いても、誰もいないのです。
次の日もその次の日も、その次の次の日も
おうちに灯りはつきません。
あるとき、男の子は夢を見ました。
女の子が鳥かごの中で「たすけて」と叫んでいるのです。
男の子は急いで起き上がり、
願いを叶えてくれる泉がある森へ行きました。
「ねぇ、僕のお願いを聞いて!」
男の子は泉に叫びました。
けれど何も起こりません。
「どうして誰も聞いてくれないの。
お願い、お願いだから!」
男の子の涙が一粒、泉にポチャンと入りました。
すると
「……おまえの願いは何だ」
どこからか声が聞こえてきます。
男の子は必死に答えました。
「あの子を返してほしいんだ」
「それはできない」
「返してよ! くまさんも待ってるんだ」
「過去を変えることはできない」
「じゃあどうすればいいの?
ねぇ教えてよ、僕なんでもするから」
「おまえが強くなればいい」
「僕が?」
「そうだ。未来ならば変えることができる」
「それだけじゃ分からないよ」
「ならば最後に一つだけ。おまえに剣をやろう」
「剣? これでどうするの?」
「あとはおまえ次第だ。間違った使い方をするなよ」
そう言って泉の声は消えました……──
──必ず迎えに行く
夢心地の中で、そっと誰かに髪を撫でられたような気がして目が覚めた。どうやらロベリアは朗読の途中で眠ってしまったらしい。
「……迎えに? ……あれ、本は?」
手にしていた本がいつの間にかなくなっていた。床にも落ちていない。
「まぁいいわ。よいしょっ、っと」
「おい……。婚約者の前でよくもそんなだらしない言葉が吐けるな」
「ゼラ!?」
横になった体をソファの中で起こすと、髪がまだ濡れたままのゼラと目があった。いつの間にか横に座っていたのだ。いつも左目を覆っている前髪はオールバックにされており、その姿はゼラのくせに色気があった。ロベリアは少しだけ息を飲んだが、なんだか悔しくて目を細め嫌な顔をした。
「お目覚めか、眠り姫。いや、冬眠のクマとでも言っておこうか」
「なんでここにいるのよ!?」
寝ぼけているのか、自身がゼラの部屋に来たことを忘れていたロベリアは、ブランケットを投げつけた。ゼラとの距離は数センチ。ロベリアはソファの端へ逃げた。
「あのなぁ……それはこっちのセリフだ」
ゼラはすくっと立ち上がり、取り上げた絵本を本棚ではなく、鍵付きの引き出しにそっと閉まった。ロベリアは結末が分からないまま終わってしまった。
「あんな可愛らしい本を読むのね」
「馬鹿にしてんのか」
「してほしいの?」
はぁ、とため息をついて、書物の積まれた長机に座った。ロベリアの近くに再度座らなかったのは、小さな頃の自分を見られてしまった、少しばかりの羞恥があったのかもしれない。ベッドへの誘い文句を出会った当日に言ってくる人間とは思えないウブな行動だ。
「……で、何か用があったんだろ?」
「あ、そうよ。なぜあんたがフォセカを裏切ったのか、あれから聞けていないわ」
「気にくわねぇ、それだけだ」
ゼラは机に積まれた本の一冊を手に取り、パラパラとめくりながら答える。
ロベリアにとっては重要なことであるのに、蔑ろにされている姿が鼻につく。ロベリアはむっと眉間に皺を寄せるも、質問を続けた。
「じゃあ、フォセカから指名された婚約者が私でなかったら、どうしていたの?」
「さぁな。ただ弱いやつは嫌いだ」
だからロベリアでないと困る、との想いを込めたゼラなりの返答だったが、ロベリアはそれを汲み取れなかった。道具として強ければそれでいい、そう捉えてしまったのだ。
「やっぱりあんたも……フォセカへの反撃が終わったら、私を殺す気ね」
「はぁ? なんでそうなるんだよ。だから前に言っただろ、殺すつもりはないと」
「今は、でしょ?」
ゼラは本を閉じ、ロベリアの横へ再び座った。ロベリアは、近づいてくるゼラから遠のけるように、ソファから立ち上がり、くるっとゼラの反対方向へ歩いた。
「……何で泣くんだよ」
これまでのロベリアならば、威勢よく噛み付いていただろう。しかし、怒りと悲しみがこみ上げて、ロベリアは震えながら涙を流していた。唇をぎゅっと噛み締め、ゼラを睨み付ける。
「……あの夜、おまえに言ったことに、嘘偽りはない。今後も殺すつもりはねぇよ」
「……なら、私をどう使うつもり?」
「使うってなぁ……。おまえは、ただ俺に守られていればそれでいい」
寂しさと怒りの感情の天秤は均衡を保っていたのに、この一言によって怒りの方にがくんと傾いてしまった。フォセカに使われていた頃と比べたら待遇はマシになったものの、自分が道具であることは変わりないからだ。
「守られているだけなんて御免だわ! ゼラの後ろでは、何が起きているの!?」
「……おまえには関係ない。でも俺は、お前を死んでも守る」
ロベリアを真っ直ぐ見つめた。何かを隠しているようだったが、守ると放った瞳に嘘偽りはない。
しかしゼラの想いは、ロベリアに伝わらなかった。
「……もういいわ」
そう小さく呟いて、ロベリアはゼラの部屋を後にした。
「ロベリア!」
冷たくなった部屋に放たれた名前は、後を追うこともなく消えていった。
一人の剣士が彼女の前では決して見せない、哀切な表情で扉を見つめていた。
「俺はもう二度と、おまえを失いたくないだけだ……。側にいてくれるだけで、それだけでいい……」
そう伝えられるのであれば、どれだけ楽なのだろうか。冷たくなったブランケットを握りしめ、行き場のない想いを押し殺した。




