第二十三話
好きって気持ちだけなのに、どうしてこんなに上手くいかないんだろう―――
互いの気持ちを確かめ合って、結ばれたら…それでハッピーエンドなんだと思っていた。
恋人同士には平穏と幸せだけが存在して、ずっと笑っているものなのだと頑なに信じてた。
相手が好きになってくれて、自分も心から好きになれたら…それだけで、奇跡みたいなものだから。
1億人の中からたくさんの人と出逢って…誰かを好きになる。
でもそれは、必ずしも実るわけじゃない。
むしろ、散っていくことのほうが多いのかもしれない。
自分が今まで、出逢ってきた人たちの手を離してきたように…
けれど互いに手を取り合ったのに離れてしまうかもしれないことなんて―――考えてもみなかったんだ。
好きだと、言ってくれた。
愛していると…囁いてくれた。
そのことだけは真実で、疑いようもないと信じているのに。
どうして――――
こんなにも、苦しいのだろう……?
最初の1歩を踏み出したら…知らなかった世界を知った。
努力することの難しさを身に沁みて感じた。
それでも進みたいと…願ったんだ。
傍にいるだけじゃ満足出来ない。
もっと一番近くで感じていたい。
僅かな隙間さえも、狂おしかった。
自分の中に湧き起こる…黒い気持ち。
生まれて初めて、独占欲という感情を知ったのだった。
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手を伸ばせば届きそうなほど、すぐ近くに彼の顔があった。
ふわりと風に撫でられるように柔らかく斗真の髪を梳いている。
薄く瞼を開けて見上げると、そっとその手が離れていった。
行かないで。
ほんの少しの体温さえも、離れて欲しくなかった。
「やだ…」
小さく呟くと、ぴくりと震えてその手が止まった。
彼の瞳を見つめて斗真は両腕を伸ばす。
「そばに…いて」
甘えるように彼の首に腕を巻きつけると、肩口に顔を埋めた。
懐かしい――― …甘い、彼の匂い。
(あったかい…)
久しぶりに感じる彼の体温。
ずっとココロに穴が開いていた部分が、ゆっくりと埋まっていくような安心感が感じられた。
「寂しかった」
零れるような吐息に混ぜて、そっと囁いた。
ずっとずっと、彼に直接言いたかった。
言いたくても言えなかった、自分の気持ち。
「自分のものにしたくせに離すなんて…ひどいよ」
こんなに好きにさせておいてから、友達に戻ろうなんて都合が良すぎだよ。
もう…これ以上彼がいない生活になんて耐えられない。
優しく触れてくる指先も、甘く囁いてくれる低い声も――――熱い…体温も。
こうやって手を伸ばせば届くところにあったのに、許されなかったひと月。
けれど今は、自分の腕の中にある。
ようやくあるべき場所にあるべきものを手に入れて、斗真はほっと息を吐いた。
気が緩んだのか、ぽろりと一滴頬を伝っていくものを感じた。
「ばかっ……んのバカっ」
零れ落ちていくものと一緒に、心の内に溜まっていたものも流れ出す。
もやもやとした感情も、物足りない寂しさも、ひどく嫌な気持ちになった感触のことも。
吐き出すように止め処なく流れる涙と一緒に喋り出した。
「自分だけ見てろって言ったくせに…っ。好きだって……何度も言ったくせに…っ!」
自然と抱きついた腕に力が入る。
それでも彼は抱きしめてはくれなくて、八つ当たりするように言葉を吐く。
「僕は蓮が好きなのに…っ、隼人先輩じゃ、嫌なのに…っ」
ぼろぼろ溢れる雫を止められない。
ぐしゃぐしゃに歪む自分の顔はひどくみっともなかったけれど、そんなことに構っていられる余裕なんてない。
このままなんて嫌だ。
たとえ僕をもう好きじゃなくても……僕は、ずっと―――
「蓮がもう好きじゃなくなったって言われても……蓮じゃなきゃ、意味がな……っ!」
唐突に、力強く抱きしめられてぶつかる様に口付けられる。
痛いくらいに腰に腕を回されて荒々しく唇を貪ってくる。
僅かな呼吸すらも許さない激しい口付けに、斗真は頭がクラクラした。
「ごめん」
ぎゅっと強く抱きしめると、絞り出すような声で告げられた。
「謝るから……泣くな」
大きな手のひらで宥めるように優しく頬を撫でた。
目元にキスを落としてそっと雫を吸い取る。
「……ばか」
「あぁ…そうだな」
つんと責めるように言うと、自嘲するような声が返ってきた。
蓮は斗真の額に自分のそれをこつんと当てると、贖罪するように呟く。
「お前をこんなに泣かせて……不安にさせた。それなのに―――」
くすりと小さく零すと、困ったように笑う。
「こんなにも、嬉しい。お前が俺を求めてくれて……俺のことで泣いてくれて。お前を悲しませるなんて酷いことをしているのに喜ぶなんて―――最低だろう?」
愛おしそうに瞳を細めて見つめてくる。
向けられる熱い視線。
ずっと……欲しかったモノ。
つぅ――っと指の腹で唇をなぞる。
柔らかく触れてくる指先から、チリッとした痛みが走った。
「隼人さんに……奪られるかと思った。お前の髪から―――あの人の薫りがした時から」
「………っ!」
あの時のことだとすぐに分かった。
とっさに嘘を吐いてしまった、あの日のことを。
けれど、髪に香りがついていたなんてことにまるで気がついていなかった。
おそらくお風呂を借りた時に使った、シャンプーの匂いだろう。
「俺はあの人にはどうやっても勝てない。だから驚いたよ、あの人がお前のコトを…。お前に先輩を重ねていたんじゃなくて、お前自身を見ていたなんて思いもしなかったからな。だけどそれでも俺は、お前を諦めるなんてこと……出来なかった」
ぎゅうっと抱きしめる腕に力が入る。
その腕が微かに震えていることに気がついて、斗真は切なくなった。
(蓮……蓮も、不安…だったの……?)
自分のことだけで精一杯だったけれど、蓮が疲れた様子だったのは不安からくるものだったのかもしれないことに今更になって気がつく。
恋人が違う人間とずっと一緒にいたかもしれないのに、隠されたのだから。
自分が美空のことでそうであったように、蓮もまた…隼人のことで悩まされていたのだ。
「お前に少しでも触れたら…身勝手な独占欲で見境なくお前を抱いて、無理やり問いただしてしまうかもしれなかった。
お前が本当に隼人さんが好きなら離してやるべきなのに…出来そうもなかった。
お前がどんなに嫌がっても、俺を嫌いになったとしても―――お前を離すくらいなら、殺してやりたいとすら思った」
「…っ」
ごめんな…と囁く声は普段の蓮からは想像も出来ないほど弱弱しかった。
斗真は蓮を見つめなおすと…今にも泣き出しそうな、瞳をしていた。
(離れるくらいなら、息の根を止めてまで自分のモノにしたいなんて―――)
どうしよう。
いろんなものが込み上げてきて、胸がどきどきする。
(それって……死ぬまで離さないってことだよね…?)
綺麗な漆黒の瞳。
そこから向けられる―――熱い…視線。
自分だけに抱いてくれる、我がままな独占欲。
離さない。
――――離せない。
蓮の気持ちが嬉しすぎて、斗真は泣きたくなった。
「元々俺が強引に始めた関係だったんだ。お前が他の誰かを好きになったとしても仕方がないのは最初から分かっていたことなのに……それでも俺は―――」
蓮の言葉を遮って、自分から唇を塞いだ。
優しく慰めるような…キス。
「…っ」
「ごめんね、蓮…。全然、気づいてあげられなくて」
さっきとは逆だ。
蓮を苦しめてしまっていたのに―――こんなにも、嬉しい。
「隼人先輩とは、何もないよ。あの夜…蓮と美空さんが桜の木の下で抱き合っているのを見かけて、勘違いして飛び出しちゃったんだ。取り乱した僕を、近くに住んでる先輩がたまたま保護してくれてそのまま泊まっただけ。美空さんがまさか蓮のお母さんだなんて…思いもしなかったから」
僕のほうこそごめんね、とぎゅっと抱きつく。
こんなに誰かを好きになるなんて―――思いもしなかった。
じっと蓮の瞳を見つめて、宣言するように言葉を繋いだ。
自分の想いが…伝わるように。
「僕は蓮が好きだよ。ずっと―――ずっと、蓮だけを。」
両手で蓮の頬を包み込むと、神聖な誓いをするように囁く。
「生涯、蓮だけを…愛し続けるって誓うよ」
だから、お願い。
「離れ離れになってしまうことがあったら―――ちゃんと、僕を殺してね…蓮」
「斗真――――」
自分はもう……こんなにも、奪われてしまったんだ。
気がついたら彼がいなくては生きられなくなってた。
失うくらいなら、その生命を絶たせて欲しい……
互いに誓い合うように、もう一度…口付けを交わした――――