第二十一話
最近、蓮の様子がおかしい。
いつも鈍感だ、ニブチンだと悠に言われてまくっている僕でさえ明らかにおかしいと思えるほど、彼の態度がどこか余所余所しいのだ。
表面上はいつもどおりに優しくて、僕を気遣ってばかりいる。
講義の途中で当たりそうになると居眠りしている僕を起こしてくれるし、たまにお昼のお弁当を作ってきてくれたりおやつをくれたりする。
だけどそれは…何かを誤魔化そうとしているように思えるのだ。
僕が何かあったの?って聞いても、『何でもない』と困ったように笑って教えてくれないし、何だか少し疲れたような表情をしていることが多くなった。
それに…あの日から僕にまったく触れようとしてこない。
少しでも僕に触れそうになると、拒絶するように離れていくのだ。
その時の蓮がもの凄く辛そうな顔をして『ごめん』と呟くので、僕は何も言えなかった。
2人きりでいるのもあの夜の公園での僅かな時間だけ。
蓮が部屋に来ることも、蓮の部屋へ行こうとすることもやんわりと断られる。
ただ、誰憚ることなく蓮と一緒にいたかっただけなのに。
いつも優しく撫でてくれる大きな手も…熱く抱きしめてくれる体温も、今はとても遠い。
触れられそうなほど近くにいるのに、触れられない。
傍にいるのに……
心が、見えなかった。
蓮…――――
どうしてあの時、嘘をついてしまったんだろう?
僕が正直に答えていたら、こんなことにはなっていなかったのだろうか。
こんな―――――
普通の友人みたいな関係、に。
あの日――――
今から2週間ほど前、蓮のお母さんの美空さんが日本へ来たときのことだ。
美空さんは世界的なヴァイオリニストで、いつも世界中を飛び回っている。
その多忙さ故に、幼い蓮を弟の龍一さん…オーナーの崎さんに預けて出て行ってしまったと言っていた。
今はオーストリアに住んでいて、仕事がだいぶ落ち着いたので蓮に会いにきたんだと笑っていた。
あとから聞いた話だと、そのまま蓮を連れて行くつもりだったらしい。
だけど蓮はそれを断り、僕の傍にいると言ってくれた。
そしてその晩は、我を忘れるほど激しく抱き合った。
何度も何度も求められて最後のほうはよく覚えてはいなかったけれど、それだけ僕を必要としているんだと思えて嬉しくなった。
蓮を失わずに済んで良かったと、心の底から思えた夜だった。
そう。
僕はあろうことか、蓮のお母さん…美空さんと、何か特別な関係なんじゃないかと不安になっていたんだ。
それは強ち間違ってはいなかったけれど、酷く恥ずかしい思いをしたのを覚えている。
『一昨日の夜…どこかに出かけたのか?』
お互いに求め合った次の日、蓮がどこか落ちつかない様子で僕に問うた。
後から知ったことだけど、そのコンサートには美空さんが出演していたんだ。
だからオーナーもいたのかと今更になってから納得していた。
『悠と…コンサートに、行ったよ』
『その後は…?』
『そのあと……?』
『どこか、寄り道しなかったのか?』
蓮は何かを探るように聞いてくる。
けれど、その時の僕はそれどころじゃなかった。
その後は…―――
夜桜がとても綺麗で、イルミネーションと夜店を楽しんでいた。
そして…
蓮と…美空さんを見て勘違いして、混乱して…逃げ出した。
そこを隼人先輩に保護されてそのまま泊まってしまったけれど、それを蓮に言う勇気はなかった。
言ってしまえば、僕が蓮のことを疑っていたんだと思われるのが怖かったから。
『どこか…あ、コンサート会場の近くにあった夜店で夕飯を食べてから帰ったよ?それくらい、かな』
『…そうか』
僕はぎこちなく誤魔化してしまった。
それを蓮は………不審に思ったのかも知れなかった。
『変なこと聞いて悪かったな。何か甘いものでも作ってやるよ』
どこか苦しげな表情を一瞬だけしてそれだけ言うと…もう、今のような状態だった。
「こんなの…どうすればいいんだよ…っ」
知れず嗚咽が零れる。
朝。
部屋の中で蹲ったままでも、彼は来ない。
以前は優しくキスをして起こしてくれたのに。
低くて甘い…心地の良い声を聞くのが好きだった。
柔らかく頭を撫でてくる大きな手が気持ちよくて、僕は何度もその手に甘えていた。
ずっと夢なんだと思っていたのに、本当は朝早くから僕の部屋に来てくれていて。
悪いと思ったけど『お前の寝顔が可愛いから、勝手に見に行ってただけだ』って照れたように笑ってくれたから。
その顔を見て…ぎゅっと心臓を掴まれたみたいに胸が高鳴った。
気が付いたら、もうどうしようもなく蓮が好きになっていた。
「蓮…っ」
傍にいて。
いつもみたいに笑って。
そんな無理した顔をしないで。
僕が悪かったのなら、謝るから。
全部―――――無かったことにしないで。
もう、友達になんて……戻れるはずがなかった。
***********
「よーしっ、お前ら〜っ、気合入れて暴れまくれや〜〜〜っ!!」
「おぉ〜〜〜〜!!!」
四月。
ライ部は新たな部員とともに新しい年度を迎えていた。
斗真は後期の終わり頃、休みが重なってしまったがために単位が危うかったのだが、教授や各講師にお願いしまくってレポートを仕上げることでなんとか留年を免れた。
その課題に追われていて、気が付いたら春休みなんてなくなっていたのだ。
学生の本分は勉学なのだとしみじみ実感する。
いったいなんの為に大学に進んだのやら。
斗真は実家が事業をやっていることもあって、何となく経済学部へと進んだ。
悠は家業を継ぐのだとかで同じく経済学部。
同じ家絡みでも、悠のほうがよっぽどしっかりしている。
蓮はオーナーのお店を手伝う為に経営学部在籍で、しかも首席だ。
バイトもして勉強も出来るなんて、どういう頭してるのかと常々不思議に思う。
隼人先輩は法学部、響先輩は芸術学部だ。
響先輩は音楽好きだから芸術学部っていうのはわかるのだが、いかつい隼人先輩が法学部…それも、司法試験を受けるというのだから驚きだ。
弁護士ってイメージじゃないんだもん。
どっちかっていうと…体育の先生とかやってそう。
それで、悪ガキとかにワラワラ好かれちゃって『アニキー』とか呼ばれたりして。
あ、今でもそうか。
「なぁにニヤニヤしてるの?気持ち悪いなぁ〜。春だからって、頭ん中まで常春になっちゃったんじゃない?」
うりゃっと悠に頭を突かれる。
「むぅ〜、違うよっ、ちょっと考え事してただけだよ」
この春でもう3年。今年の冬には就職活動が始まって、もうのんびりしている時間は残り少ないのだ。
中庭の壇上で盛り上がっている響先輩と、その隣で見守っている隼人先輩はもうすでに内定を取っていた。
響先輩は大手音楽会社へ、隼人先輩は大御所や大手企業を相手にする有名法律事務所に入社が決まっている。
「なんだかちょっと、周りに置いてかれていくような気がしてさ」
「あぁ、あの2人?もう今年で卒業だもんね〜」
「先輩たちもそうだけど、それだけじゃなくってさ。進級して、焦っているのかもしれない」
周りはどんどん変わっていくのに、独りだけ取り残されてしまったような感覚。
いつまでも心地よいぬるま湯に浸っていたいと思っていたら、周囲には誰も居なかった。
そんな…感覚。
毎日のように顔を合わすけれど、もうあの頃の顔はどこにも無かった。
いつの間にかそれが日常化していて、周囲はその違和感に気が付かない。
それは、当事者にしかわからない…微妙な距離感。
悠でさえ、そのことに気が付くことはなかった。
「何で斗真が焦るのさ〜?無事に進級出来たじゃん」
えらいえらい、と頭を撫でてくるけれど、一番欲しいそれではなかった。
斗真は苦笑して、何度目か知れない…気が付くのが遅すぎる自分の過ちを後悔していた。
「それも、そうだね」
そう悠に頷いて、誰にも気づかれないように無理やり笑顔を作って笑った。
「斗真。ちょっといいか?」
「はい?」
壇上の響とその他の部員が盛り上がっている中、いつの間に降りてきたのか隼人に声を掛けられた。
斗真は不思議に思って首を傾げるが、悠と他愛も無い話しかしていなかったので首肯する。
「えぇ、大丈夫ですよ。悠…ちょっとごめんね」
「うん、わかった…けど」
「けど?」
ちょいちょいと手を拱いて、顔を寄せる。
なぁに?と訊ねると、いつしか言われたことのある言葉が飛んできた。
「いーい?隼人先輩には…」
「甘えない、抱きつかない、寝ぼけない…でしょ?」
「わかってんじゃん。あと、くっつかない!」
「はいはい、りょーかいしましたっ」
んじゃ、また後でね…とそれだけ言うと、隼人のほうへと駆け寄っていった。
「先輩、お待たせしました。何か用ですか?」
「あぁ。ちょっとな。ただ…ココで話すのも何だから、向こうまで付き合ってくれないか?」
「はい。別に構わないですけど…」
確かに中庭は煩く騒いでいて、話をするには相応しくなかったので同意する。
てくてくと隼人に付いて行くと、普段から人気の少ない学生棟の裏まで連れてこられた。
今日は始業式だけなので、人通りはなくとても静かだった。
斗真自身もあまり通ったことがないので、物珍しそうにキョロキョロと周辺を見渡す。
「わぷっ」
「おっと、大丈夫か?」
隼人が立ち止まったことに気が付かなかった斗真は、そのまま隼人に抱きとめられる形でぶつかってしまった。
「すいません…」
「まったく…どうしてお前は―――」
あ、このセリフ。
何度か聞いたことがあるけれど、続きを一度も聞いたことがなかった。
困ったように笑っている隼人先輩。
自分の間抜けぶりに、呆れてしまったのだろうか。
申し訳な気な顔をすると、隼人はくしゃりと斗真の頭を撫でた。
「―――そういえば、お前に一度も言ったことが無かったな」
「…?」
隼人は撫でた手のひらを斗真の頬に添えると、屈むようにして顔を覗き込んできた。
「どうしてお前は―――そんなに、可愛いんだ?」
吐息が唇に掛かりそうなほど近くで囁かれる。
斗真は言われたことの意味が理解出来なくて、大きく瞳を開かせるばかりだった。
切なげな瞳で見つめられて、硬直したように目を離せなかった。
熱い―――…熱い、視線。
どこかで見たことのある、熱。
何度も隼人に対して抱いていた、既視感。
そう……確かに見たことが、あったんだ。
(蓮――――…!!)
自分に向けられる眼差しが、ほんのひと月前の蓮のそれとまったく同じだったのだから。
隼人は両手で斗真の顔を優しく包むと、ゆっくりと顔を近づけて呟いた。
「お前が―――好きだよ…もうずっと、前から……」
愛おしげに頬を撫でると、唇を塞がれていた―――……