第十八話
結局、斗真はその日の授業をサボって美空と昼食を摂ることになった。
悠には呆れられながらも、後日またゆっくりと話すと約束をした。
美空さんが悠に似てるって言ったら、『冗談じゃない』って怒られてしまったのだが。
そんなに嫌なものなのだろうか?
うーん、友人の好みは良くわからん。
悠は自分大好きっぽいとこがあるから、気が合うと思ったのに。
美空さんの要望で、昼食は「Fontana di Trevi」を訪れた。
蓮も今日は仕事でなくてお客さんとしてなので、ゆっくりと話すことが出来る。
店の中に入ると、オーナーの崎さんが優しく微笑んでくれて―――急に笑顔が引き攣った。
え?
こんなオーナー初めて見るんですけどっ。
「申し訳ございませんが、斗真くんの席しか生憎とご用意出来ません。お引取りください」
「あーら龍一、わたくしに刃向かおうっていうのかしら?」
「蓮、斗真くんを連れて上がってなさい。私はこの女を始末しておきます」
「だめよーっ。斗真くんはわたくしのなんだからっ」
持ってっちゃヤダッと斗真の腕を掴む美空。
すかさず阻もうとする蓮。
突然黒いオーラを放って美空を睨む龍一。
なんなんだよぅ、この空気。
しかも3人とも背が高くて美人さんなのだ。
はっきり言って針のムシロ。
しかもこんな他の人の目のあるとこで言い争いすんなっ。
我慢していたが、お腹も空いていたこともあってイライラしてくる。
いい大人がこんなとこで喧嘩すんな!
龍一が美空に向かって塩を撒き始めた瞬間、ぶちっと切れた。
「いい加減にしろっ、僕はゴハンを食べに来たのっ!」
うがーっと怒ると、3人ともが固まった。
すぐに復活したのは美空で、ちょっぴり恥じたように微笑む。
「あら、ごめんなさい。久しぶりに愚弟にあったものだから、つい興奮しちゃったわ」
「ぐてい…?」
「私とこの女は、信じられないことに姉弟なのですよ」
えぇ、まったく腹立たしいことに、と続く龍一の様子はいつもと違って感情に溢れている。
おそらくこっちが素なんだろうなぁと龍一の新しい一面を見た。
優しい紳士的な姿も素敵だけれど、こちらもこちらでワイルドな感じがして斗真は結構好きなタイプだと思った。
男らしいひとって、いいよね。
うんうん、と一人納得していると、上から不信な視線が突き刺さってきた。
「蓮?」
「…あんまり崎さんを見るな」
不機嫌そうにちょっと怒っている。
何でか分からないけれど、拗ねてるようにも見えて可愛い。
斗真は蓮の機嫌を直そうと彼の手を取った。
「大丈夫、僕には蓮が傍にいてくれればそれだけでいいから」
「…斗真」
ねっ、と蓮に向かって微笑むと、しょうがないなっていつものように笑ってくれた。
(本当に、僕には蓮さえ居てくれればそれだけでいいから…)
繋いだ手を離したくない。
ずっとずっと、傍に居て欲しいと思うのは蓮だけなんだから。
まだ言葉には出来なかったけれど、想いを込めて蓮の手を握り締めた。
ようやく2人が落ち着いたので、美空の希望でテラス席へと座る。
左から蓮、斗真、美空の順に時計周りに席に着く。
すると、さっきの不機嫌な顔はどこへやら、完璧な支配人の顔でオーダーを取りにきた。
「えっと…美空さんは何にするか決めました?」
「もちろんっ、支配人が選ぶこの店一美味しい料理に決まっているわっ!」
「…そんなのあったっけ、蓮?」
「さぁな」
つーんとそっぽを向いて、我関せずの態度を表明する。
言われた支配人は感情を表に出すことなく綺麗に笑って了承していた。
(…なんか、すっごく冷たい笑顔に見えるんですけど。あれ本当にオーナー?)
いつか悠が言っていた『裏がありそう』って…もしかしたらこのことなのかも知れなかった。
「どんだけ勘が良いんですか、悠サン…」
表面上だけの彼しか見ていなかった斗真にとって、瞬間的に見分ける悠の観察眼には脱帽した。
(でもそうなると…)
悠が注意しろと言ったのは3人。
龍一、隼人、そして美空だ。
因みに悠は蓮とも仲が悪い。
「…単に自分より上手っぽい人が苦手なだけなんじゃ?」
蓮は別だが、隼人先輩にはいつも悪戯されまくっている。
もしかして、自分に被害が来そうな人間にだけすぐ気がつくとか…?
まぁ、いっか。
とりあえず今は深く考えることを止めて、斗真は蓮に我侭を言ってみた。
「ね、蓮。僕は蓮のおすすめがいいな」
「…は?」
美空が弟に無理難題を押し付けるのなら、斗真は蓮に言ってみたいと思ったのだ。
食べ物に関しては自己主張が強い斗真からそんなことを言われたことのない蓮は、お願いの意味を瞬時に理解することが出来なかった。
「…だめかな?蓮が好きなものを、僕も知りたいなって思ったんだけど」
上目遣いに蓮を見つめながら可愛くねだる。
そんな可愛い表情で、自分のことを知りたいなんて言われたら…
「斗真、俺の理性を試してんのか?」
「えっ?」
きょとんと大きな瞳を瞬かせ、不思議そうな表情をする斗真はいつにも増して幼く見え、蓮は今すぐ押し倒したい衝動に駆られていた。
なんだか最近、特に斗真が自分に向けてくれる感情が嬉し過ぎて怖い。
前は絶対に無かったのに、時折自分を好きだと言うようになった。
恥ずかしそうに頬を染めて、自分の存在を求めてくれる。
今もそうだ。
他人に興味なんか全く無かったのに、知ろうとしてくれている。
我侭を言ったり、甘えてくれる。
そのことが、蓮にとってどんなに嬉しいことなのか。
もうずっと斗真を求めてきた蓮にとって、『自分』という存在が相手の中に根付いてきているという
事実が何よりも嬉しかった。
もっと、もっと、自分だけを見て欲しい。
斗真のすべてを自分だけで埋め尽くしたい。
自分がずっと、斗真に囚われてしまっているように。
そんな気持ちを微塵も零さぬように、蓮は愛おしげに斗真の頭を撫でた。
いつか―――自分の気持ちと同じくらい、斗真が自分を想ってくれるようにと願って。
************
「蓮…以前よりずっと良い表情をするようになったのね」
斗真と蓮のやり取りを眺めていた美空は、少し寂しさを感じるような声で龍一に零す。
前は、あんなに感情が無い子だったのに。
「姉さんと離れてから、あいつはあいつなりに頑張ってきたんだよ。特に…あの子と出会ってからな」
「そう…」
蓮が優しい表情で愛おしげに見つめる先には、いつも斗真の姿があった。
それをもう…ずっと見守ってきた龍一は、斗真の存在に感謝していたくらいだ。
親に捨てられた蓮にとって、世界は真っ黒に塗り潰された音の無い世界だった。
すべてが虚無で、悲しいほどに色のない世界。
そこに彩りを与えたのは幼い子供だった。
無邪気に笑うその表情は、見るものすべてを幸せにする。
穢れを知らない、真っ白な存在。
それなのに、輝いて見えるのは暖かい光を放っているからだろうか。
その希望の光に魅せられた彼は、いつしか自身をも光輝かせる存在になった。
だからこそ、今の蓮がある。
「突然帰ってきて、一緒に連れて行こうなんてムシの良い話なんて早々ねぇんだよ。自分のしたことに、今更後悔したってもう遅いんだよ」
核心を突く龍一の言葉に、美空はハッとする。
どうして自分のしようとしたことが、この弟にはいつも分かってしまうのだろうか。
「蓮の今の保護者は俺だ。それに、あいつはもう二十歳を超えた大人なんだ。今さら母親ぶったって意味なんかねぇし、あいつはそれを必要としていない」
だからサッサとオーストリアに帰るんだな、と続く龍一の声は冷たい。
けれど、それだけのことを自分はして来たし、自覚もある。
今回は運が良ければ連れて行こうと思っていたくらいだ。
大切な人がいたら、すぐに諦めるつもりだったのに。
会ってしまったら、酷く名残惜しくなってしまったのだ。
あんな風に笑う蓮を見たことが無かった。
奪ってしまったのは、自分だったのに。
自責の念と、喜びが交わって複雑な気分になる。
けれど、これだけは。
「わたくし、一度だって蓮を忘れたことなんてなかったわ」
贖罪のように、小さく囁いた。
母と呼ばせないのは罪の意識の現われ。
蓮が自分に敬語を使うのは、警戒心の象徴。
それでも黙って付き合ってくれたのは―――優しさだった。
本当は自分が彼に与えなければならなかったものなのに。
気がつけば自分が与えられてしまっていた。
だからこそ。
どんなことがあっても、自分だけは彼らの味方でいようと心に誓った。
「美空さんっ、料理きましたよーっっ。めっちゃ美味しそうっ」
嬉しそうにニパッと笑う斗真の顔をみて、ほっと和む。
テーブルに並べられた料理はどれも美味しそうで、龍一は本当に腕を掛けて作ったのだろうということが分かった。
「えぇ、本当に、美味しそうね」
「はいっ、ここのお料理はどれも一番美味しいんですよっ」
えへへっと自分のことのように話す斗真。
よくこの店に来るのだろう。
龍一の所作や蓮の料理に対する気持ちなどが彼の中に身に付いている。
丁寧にお皿を並べてナイフとフォークを渡してくれた。
「ばーか、どれも一番だったら、一番がないだろう?」
「ちっがうよ、出される料理に順番なんか付けらんないよっ」
「…?どうゆうことだ?」
斗真の言う一番の意味が分からなくて、蓮は問う。
美空もその意味が知りたくて、斗真のほうを見つめた。
「一番ってのはね、その人にとっての一番なんだよ。食べる人が好きな料理が、その人にとっての一番の料理なんだよ!!」
「……っ」
「だから僕は、蓮の作ってくれるものなら何でも一番好きだよっ」
零れんばかりの笑顔を蓮に向ける。
その表情が眩しくて、美空は泣きたくなった。
食べる人が好きな料理が一番の料理―――
美空はもう一度テーブルに並べられた料理を見る。
彩りよく盛られたモッツァレラチーズとトマトのサラダ、ムール貝とほうれん草のムニエル、メインにズワイガニのパスタ・オニオンソース仕立てと春野菜のソテー添えが出されていた。
そしてこのメニューには不自然な組み合わせの、わかめと大根の味噌汁。
どれもこれも、美空が好きなものだった。
「龍一―――」
いつも自分の我侭で苦労ばかりかけてきた。
たった二人きりの姉弟だから、仕方なしに構ってくれていたんだと思っていたけれど。
「何ですか。貴女のような我侭なお客様にとって、当店で一番美味しい料理を出したと自負しておりますが?」
言葉は丁寧だけれど、どこかぶっきらぼうに言う。
美空は溢れる涙を抑えようともせず、ぽろぽろと零しながら微笑んだ。
「えぇ、最高のお料理ね―――」
ありがとう…と言った彼女は、妖艶さはどこにもなく、ただ、幼い子供のように純粋に笑っていた。
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「斗真、今日はありがとな」
「…んー?何が?」
蓮の部屋のベッドでごろんと寝転がっていると、シャワーを浴びてきた蓮がこつんと額をあててきた。
濡れたままの前髪が冷たくて、ぴくりと反応する。
「崎さんと美空さん…あの2人、昔から上手くいってなかったんだ。それに俺自身もずっと会っていなかったから、あの人とどう接していいか分からなかったしな」
「…そうなの?」
逆さの状態でおでこにちゅっとキスをされる。
蓮のさらさらの髪からは、シャンプーの良い匂いがした。
「そう…お前が、みんなの蟠りを失くしたんだ」
「んっ」
囁きながら唇にキス。
熱い吐息と、甘くとろけそうなほど優しい声。
「俺がお前無しでは生きられないように…お前も俺無しでいられないようにしてやりたい」
「あっ」
頬を包み込む大きな手。
間近で見る彼の整った顔。
漆黒の瞳からは、自分を望む熱を帯びていた。
もっと触って―――
斗真は両手を伸ばして蓮の輪郭をなぞり、今度は自分からキスをした。
もっと…触りたい。
蓮の熱に中てられて、斗真は浮かされるように呟いた。
「蓮―――もっと、して」