不死たちは月を見上げる
「ここで構いません。送っていただいてありがとうございました」
横断歩道の前で、山口さんは深々と頭を下げた。
先ほど変わったばかりの信号が、青々と深まった夜に輝きを漏らす。
「気をつけてね」
「ここからそう遠くはありませんので。大上殿の方々にはこちらからかけあってみて、何か進展があれば、全てを差し置いてでも伝えます」
「いいよ、あいつらには僕から連絡を取るから」
自分の担当をしてくれているからといって、上司とやり合わせるなんて酷なことはさせたくない。
僕が出張ることで話が片付くなら、安いものだ。
「本当に申し訳ありません。御門さんにお手を煩わせないために、ここにいるというのに」
「いいんだよ。じゃあ、おやすみ」
「……はい、おやすみなさいませ」
彼女は後ろ髪引かれるように、ちらりとこちらを一瞥すると、彼女は急ぎ足で信号を渡った。
すぐに点滅、色が変わる。
赤信号の向こうでもう一度頭を下げて、彼女はきびきびとした足取りで夜の町に消えていく。
「彼女もずいぶん成長したなぁ」
そんなぼやきは、月光が照らす帰路に溶ける。
最初の頃の、ガチガチに緊張していた過去が懐かしい。
挨拶も噛み噛みで、「出直してきます!」なんて半泣きになりながら帰ろうとしていたっけ。
あれも今ではいい思い出だ。
本人は黒歴史のように感じているらしいけれど。
「三年か」
唐突に担当が変わってから、それだけの年数が経ったんだ。
瞬きする暇もないほどだったな。
僕と妖魔管理局の橋渡し役をしてくれている山口さんも、やがて時間のままに年をとって、老いて、死んでいくんだろう。
──それが少しうらやましい。
でも、君はきっとそうじゃないんだろう。
あの時からそのままタイムトラベルしたような姿だった少女。
僕の、愛しい人。
「かぐや……キミは『こっち側の人間』、なんだよね」
見上げた空には、月が浮かんでいる。
君は今、あの月を見ているのだろうか。
「……ん?」
応えるように、どこからか羽ばたきが聞こえてきた。
最初は、小鳥が夜更かしでもしているのかと思った。
けれど、違う。
小さな身体に見合わない大きな羽と、夜の闇に溶けるような漆黒の色。
コウモリが、道ばたの街灯を回っていた。
「こんなところまで、エサを探しに遠征でもしに来たのかな? それとも僕と同じはぐれものかい?」
僕の言葉なんて気にもとめず、コウモリはパタパタと飛んで虫を食む。
その無垢な姿を見て、先ほど喫茶店で交わした会話が頭をかすめた。
「ドラキュリアか……どんな人たちなんだろう」
この町を気に入ってくれるといいなぁ。
海外と勝手が違うし、大本を管理している妖魔管理局上層部は割と腐っているけど。
「あ、御門さん! お散歩ですか?」
「御門のにぃちゃんじゃねぇか、元気にやってっか?」
この町と、町を作ろうとしている人たちはこんなにも温かい。
道行く人も、人ならざる者も、分け隔てなく声をかけてくれる。
彼らの間に貴賤は存在しない。
そんな営みを見て、僕は、この町を作ろうと思って良かったと思うのだ。
未だに僕を慕ってくれている人は大勢いる。
町から出たい、なんて言えば、みんな協力してくれるだろう。
僕をただの偉い人だと思っている人間はともかく、長年狭い界隈で生きてきた妖魔たちは、すぐにでも動いてくれる確信はある。
だが、その先に待っているのは管理局からの弾圧と、長らく実行されてきた共存計画白紙化だろう。
白紙化するだけならまだいい方だ。最悪、虐殺が始まる場合もある。
この町を、崩したくはない。
でも、あの人にも会いに行きたい。
……よし、覚悟は決まった。
わずかに震える手でスマホを操作し、表示するのは悪ガキたちの名前。
「朕だ」
『これはこれは、最古の源流たる帝さまではありませんか。ご機嫌麗しう』
電話越しから、いやみったらしい男の声が聞こえた。
「ちょっと相談があるんだけど──」
さぁ、日をまたぐまでに終わるかな?
「あのひとも今、月を見ているのかしら」
ホテルのベランダを、すずしい風が通り抜ける。
夜着に来ているバスローブが、さらさらと心地良い。
あちらの空気と比べたら、少ししっとりしているけれど。
中天に輝くは白い月。
何年経っても変わらない。
ずっと、ずっと。変わらないのはあの月だけだと思っていた。
それはそれとして、あれだけ情熱的な言葉を紡いで起きながら、別の女にうつつを抜かしているのはどういうことなのでしょうか。
いえ、私も過去のことだと理解しています。
ですが、この身体が、心が、あなたに触れてしまったのです。
ほころんだ笑顔、優しい声、細やかで大きな手。
そのどれもが、ため息が出るほど懐かしくて。
あなたがいけないのです。
誰かのぬくもりはとうの昔に捨てたはずなのに──
「──はぁ」
息を吐いて、自分の中の感情を吐き出す。
私はこんなに未練がましい女だっただろうか。
逃げ出したのは私なのに、あんな手紙まで残して。
いや、きっと、あの人はそんな自分さえも受け入れてくれるのだろう。
そのことを確信している自分が、好きになれない。
沈鬱な感情のままに、部屋に戻る。
ソファーに腰をかけ、虚空に告ぐ。
「ロズペット、いる?」
「はい、ここに」
暗闇に、ひっそりと小さな影が落ちる。
十五にも満たない容姿は、流れるような金色の髪に縁取られている。
端正な顔に宿る赤い双眸と鋭い牙は、吸血鬼の眷属の証。
「妖魔管理局との話はどうなっているかしら」
「明日の十五時から、今後に対して会議を行うとのことです」
「そう」
あまりにも目立ちそうな外見なのに、目を離せば見失ってしまいそうな儚ささえも感じさせる私の眷属は、顔をしかめていた。
「姫様、懸念していることがあるのですが」
「発言を許すわ」
「ありがとうございます。あれでよかったんですか?」
「何がかしら?」
「彼らが提示した条件のこと。あれではあまりに姫様が不利すぎます」
確かに、今日妖魔管理局が呑むように告げてきた条件はひどいものだった。
数十年に渡る身柄の拘束、黄昏町の運営には口出ししないことなど、様々な内容が盛り込まれた。
極めつけは、不老不死の薬の譲渡だろう。
あれは特殊な条件下でしか自然発生しないものだというのに、それを説明しても、やれ薬を出せだのなんだの、ねちねちと……思い出すだけでため息が漏れそうになる。
だが、それを表に出すわけにはいかない。
私は誇り高き吸血鬼の王であり、唯一の純血種なのだから。
「言わせるだけ言わせておけばいいのよ。ほら、もう寝なさい。夜更かしは美容に悪いわよ」
「まだ十時です。子ども扱いしないでください!」
「私の牙から生まれたんだから、子どもも同然でしょう」
「ですけども!」
「ロズペット」
短く名前を呼ぶ。
それだけで、金色の少女は顔をゆがめた。
……少し視線に魔力をこめすぎてしまったかしら。
それでも、私が言う言葉は変わらない。
「発言は許可しても、異を唱えることを許したおぼえはないわよ」
「……」
眷属は黙り込む。
そのいたいけな姿を、あまり視界に入れないようにして、立ち上がる。
ベッドルームに向かうまでの間、背中にひしひしと背中に視線が突き刺さってくる。
彼女は今、どんな面持ちで私の姿を見ているのだろうか。
なんて、考えても詮ないことか。
「やはり、あの男が関係しているのですか……?」
背中に投げかけられた疑問を聞こえないフリをした。