月見た不死は、何思ふ
あれから石上さんをなだめ、どうにか知り合いの女性だと納得して貰ったのはよかったが、僕の頭がまともに機能したのはそれまでだった。
仕事も手に着かず、小さなポカをいくつもやらかした。
洗っている皿を落としそうになったり、紅茶が濃くなってしまったり、サラダにドレッシングじゃなくて醤油をかけようとしてしまったり。
しまいには心配する石上さんの提案で臨時休業の札を掲げるハメに。
石上さんにもお客さんにも、本当に申し訳ないことをしたな……。
そんなことを思いたくても、罪悪感をかき消すようにあの姿が浮かんでくる。
二度と会えないと思っていた。
声が聞けないと思っていた。
どうしてここに、なんで今更、他人の空似?
でも、彼女が本物だという確信はある。あるったらある。
けれどやっぱり、どうしても信じられない。
それにどうして僕を「ばかなひと」と言ったのか。
……あぁ、ダメだ。
感情と疑問がぐるぐると堂々めぐりしている。
頭が熱を持ってしまって考えがまとまらない。
どれだけ想いが募っていても、身体は日課の動きを覚えてくれていた。
気もそぞろに店の裏の居住スペース、その玄関にあるポストを開ける。
「あれ?」
そこにはピザやファストフードの広告に混じって、見覚えのない便箋が入っていた。
「……だれからだろう」
妖魔管理委員の人たちかな?
でも、定期検診は三月に行ったし、僕は厳密には妖魔じゃないから半年コースじゃなくて一年コースでよかったはず。
手にとって見ても、シンプルな若草色の表面に差出人の名前はない。
裏に書かれた宛先は──『帝さまへ』。
ぶわりと汗が噴き出す。
いてもたってもいられなくなった。
急いで二階の自室へ行き、畳の上に腰を下ろす。
部屋の脇にある道具箱からペーパーナイフを出す。
窓から差しこむ夕焼けに手元を照らされながら封を開ける。
ペリ、ペリとナイフが紙を裂く音が連続的に響いた末、中から出てきたのは一枚のクリーム色。
そこには、整った文字でこう書かれていた。
『今はとて 天の羽衣 切る折ぞ 君をあはれと 思ひ出でけり
中秋の名月が沈む頃に、駿河の国の、もっとも天に近き山の頂でお待ちしております』
想い人が指定したのは富士山頂。
竹取物語において、帝がかぐや姫の置いていった不老不死の薬を焼いたとされている場所。
そして、僕が大きな罪を犯したところ。
口の端が上がっていくのを感じた。
あの人は何も変わっていない。
再会の手紙にかつての別れの歌を書くいじらしいところも、人に対して無茶ぶりをしてくるところも。
それでいて、全てを受け入れてあげれば真っ赤になって恥じらうんだから、可愛らしいことこの上ない。
あぁ、いや、かれこれ千三百年以上の月日が流れているんだ。
もしかしたらあの人も変わっているのかもしれない。
だとしたら少し、寂しいな。
たくさんの人が時の流れの中に消えていった。
どんなに親しい友人との思い出も百年もすればすぐに風化してしまった。
でも……君を忘れたことは一度も無かったんだよ。
「は、はは………………。あぁ、そりゃそうだ。僕はなんてばかなんだろう。どうしてこんなことにも気づかなかったんだ」
愛しさがぽたり、切なさがぽたり。
笑いとともに涙が漏れる。
想いが溢れて止まらなかった。
感情の奔流が止まった頃、夕焼けは月光へと変わっていた。
窓に映る欠けた月を見上げながら、心に決める。
行こう、富士山へ。
ありったけの想いを伝えに。
そうと決まれば話は早い。
ポケットからスマホを取り出し、電話をかける。
ディスプレイに映る名前は『妖魔管理局 山口ささら』。
「あ、山口さんですか? 夜遅くにすみません」
『御門さん、こんな時間に何かご用ですか』
応えたのは、刃のように鋭い女性の声だった。
「今日はこの町からの外出許可をいただきたくて連絡させてもらったんですが……」
『え』
電話の向こうで、彼女が息を呑んだのが分かった。
「……どうかされたんですか?」
『いつの、話ですか?』
そう尋ねてきた時点で、嫌な予感はしていた。
スマホを持つ手に力がこもる。
「できれば、今すぐにでも」
残された時間は少ない。
時間は一刻を争うといっても過言じゃない。
どさり。
だが、その焦りは、カバンか何かが落ちるような音に乱される。
「や、山口さん?」
『申し訳ありません。できないんです』
スピーカーから聞こえる彼女の声は、ひどく震えていた。
「……できない?」
約束の日まで、残り三日。